私見合氣道論
「合氣道の達人とは?」
平成11年12月

一般的に武道おける達人とは、当然体技技術の達人です。 大前提として、合氣道の最終目標が「愛と和」「敵を無くする絶対的自己完成」であると言うことで以下述べます。この前提が違うとお考えの方の「達人」は別物になりますのでご理解下さい。この前提のもとでは、「合気道の達人」は一般にいわれる達人とはニュアンスが少々変わってきます。当然、武道である限り不敗であることは求められますが、それだけではいけないと思っています。

まず最初に、合氣道の体技とはいかなるものでしょう。私自身は、過去の殺傷技術の時代からは変化してきて相手を殺傷できなくなった体技が「合氣道の現代の体技」だと考えています。つまり、相手を、どんなに激しく投げても、絶対に相手を殺傷しない(言い替えると「殺傷できない」)技法でなければならないのです。その技法は武道としては「弱い体技」と表現されるかもしれません。

又、体技の習得は合氣道を修行する人には基本として必要不可欠のものではありますが、現代における合氣道の最終目的ではなく「合氣道の前段としての身体操法」なのです。合氣道の過去の体技の形にとらわれて、そこでとどまってしまうと「愛と和」には進むことができないのです。言い換えれば、開祖の「合氣道の精神」を認識せずに開祖の時代の表面的な体技のみを最終目標にしていては「合氣道の達人」にはなることはできません。開祖の「体技の原点」を知り、現代の「合気道の精神」に基づく「殺傷できない」体技を修行すれば、結果として「体技」そのものが不必要になってくると考えられます。つまり、合氣道は「武道」ではなくなってくるのです。

又、合氣道の体技が「武産合氣」と言われることの意味するところは「武」の「産みだす元(もと)」が合氣道であるということなのです。つまり開祖が「動けば技になる」と仰っていたことなのです。その「元」が「結び」の技術であり「相手と一体になる力」つまり「呼吸力」だと言われています。具体的には、相手と結ぶ・相手と一体になる為に相手との接触点の微妙な感覚をを察知することにより結び和合します。「呼吸力」とは「相手と和合する」為の体技技術であって、過去の殺傷技術ではないのです。

この「呼吸力」が身に付いてくると形のある技は必要がなくなってきます。相手が自分に対して触れて(攻撃して)きたら、相手は自分自身の力によって自然に崩れ落ちるようになります。そして肉体の体技技術と同時に、精神の自己開放を「意識」した体技技術を修行することにより「敵を無くした絶対的自己完成」の状態に至れば、殺傷技術としての体技が不必要な「合氣道の達人」となります。

私は趣味の合氣道ですので「達人」になれるとは思いません。「達人」を目指す人達には遠い遠い道のりだと思います。


<解説>

武道の「達人論」とは、異質な「達人論」になってしまいました。


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