俺にも言わせろ!コーナー もう終了したのですが、、、

・・・・・これは、50を過ぎた人たちが、人生を思い返すと忸怩たるものがある、と始めた発言集です。
若い人も入って来ました。バックナンバー希望の方はお知らせ下さい。

俺にも言わせろ!第二十三回無限塾
             二〇〇二年六月三十日 長興院
  知り馬鹿 知らず馬鹿 「その十九」 
                 藤田長男
 新聞紙に茶飲み茶碗が引っ繰り返った様に、日本中がワールドカップ一色に塗りつぶされてしまった。サッカーボールの一蹴りで行政改革も有事法案も何処かに吹き飛んでしまった感じだ。まあ有事、有事と騒いだ処でテレビゲームの戦争シュミレーションしか知らねえ世代が増えてしまった今、有事に対する意志決定をせよと言われてもナンジャコリャ様で実感は伴わねえだろう。
 北風のピープー吹き付ける、竹山の斜面に掘られた防空壕の中で寒さと恐ろしさに歯をカチカチ鳴らしながら、警戒警報解除を今か今かと待った、あの時の幼子も今は還暦をとうに過ぎボケかけて一秒刻みで記憶が消却されつつ有る様だ。
 まあ、まともに覚えてえた処で自分で意思決定する場面はなく、全て隣の親父の顔色を見ながら白黒反応し、主権を放棄し乍ら生きて来た、大衆#んぶり達のわしらは年を幾つ重ねても自分で意思決定する事は出来ねいのだ、そんな定めなのだ。
 自衛隊が誕生して五十年も経つと言うに、未だに鉄砲を撃てだの、撃つなだの国民一人一人が意思決定していねいのだ。鉄砲を担いだ自衛隊様は空に向けて撃つしかねえだろう、空に向けて撃った処でカラ薬きょうが盆栽にでも当たっちまったらてえへんだ、早速損害賠償騒ぎだべ。
 戦車が赤信号で止っている様な平和な日本に、有事と言う言葉は似合わねえかも知れねいが。有事とは国民の命を衛らねばならねえ緊急現場を指すのだろう、人の命が掛かっているときに鉄砲を撃てだの撃つな等と議論はしてえられねえだろう、戦車は田んぼや畑を突っ切るだろうし作戦陣地も築かれる事だろう、守備体制は万全を期し論議されるべきだ、
 国会はその大綱を論議する場所であり、鉄砲を撃てとか撃つなとかは作戦会議の中で極秘に論議されるべきだろう、六法遊びはもうそろそろ卒業すべきだろう。有事とは誰がどう国民を衛るのかその基本理念をキチンと定める事が先決だろう、必要である無しの問題ではなく、自衛隊を認知した国民の義務であろう、国民一人一人が自分の意思決定をしねえと国会は空回りするばかりだろう、人の命を衛るのに党利党略もへちまもねえはずだべ。
                             
 わしらも結婚相談室を立ち上げたのだが、こっちの有事の方も意思決定が大きな問題である。自分の嫁は自分で探す努力をすると言う意思決定がされねえと、二百とも三百とも言われているチョンガ軍団を一人や二人の力じゃあ背負い切れねえだろう。
 銭取りが最優先される社会構造の中に有っては、人様のガキが嫁が有ろうと無かろうと俺の知ったこっちゃあねえと嘘ぶきてえ処だが、その中にうっかりすると手前のガキが含まれてえる事も有る、時にはそんなやべえ事もあるのだべ。
 川にはまって溺れてえる奴らを横目で見ながら、ロープを探すふりをして家に帰っちまう事も出来るのだが、泳ぐ事の出来ねえわしは馬鹿正直に竹の棒やロープ位は、まあ探してやりてえと思うのだ、数えりゃあもう六十余年も生きさせてもらったお礼に、少しは手前の手を汚すふりぐれえはしねえとご先祖様に申し訳けねえしのう。
 乞食の親分でも親分と名がつきゃあチットは嬉しいものだべ、そんな意思決定も時には必要なのだべ。  お天道様も見てごじゃるからのう。


  各駅停車か一般道を.
                         宮下 陽祐
 五月中旬に青森へ月末に奈良県へ六月始めは岐阜県にと各一週間程ずつ布教の旅をした。とにかく便利になったのだがそれでも三時間はかかる。大体この時間は読書をして過ごすことにしている。しかし今回私は何の為に生きているのだろうかなんて言うことを考えた。勿論目が老化した為だろうと思うが目が疲れる。従つて勢い目は外に向くことになる。
 しかしこれが何ともつまらない。景色が早くてどこを走っているのかよく解らない。昔の列車の旅はとにかく弁当とお茶それにキャラメルかセンベイをおやつにして窓にへばりついて景色を楽しんだ。目的地も大切だが其所に至るまでの時間が至福の時間であった。
 観光バスにガイドさんの旅も楽しい楽しい旅だった、右にみえますのが、、、、、で正面の、、、、、、、が、、、で御座います、左に曲がりますと見えてきますのが、、、、で御座います。客は右に左にと首を振り回し、見落としてならじと寝る人等いなかった。
 お酒が安易に手に入るようになり、コップ型の持ち込み酒が流行り始めだんだんと宴会が行なわれるようになり、カラオケが始まった頃から目的地への時間の過ごし方は大きく変わった。列車もどんどん早くなり新幹線などは旅を楽しむ事など考えていない。
 旅を目的地化しているだけだ。京都を目的地化すると、往復の時間は短ければ短い程よいことになる。もっといいのは往復の時間もないほうがいい、しかし旅というものは往復の時間の方が楽しいのではないだろうか.これが本来の旅のはずだ。
 今の日本人は新幹線で京都へ行く三時間は楽しみの全然ない、全く無駄の時間となる。三時間はただ時間の過ぎるのを耐えるしかなくなる。だから「のぞみ」などという目的地専用列車迄でてきた。新幹線や飛行機の切符も自宅からしやべることもなく、ポンポンと指を動かすだけで手に入る。資本主義経済社会ではお金を得ることが目的である。
 そのために使う時間は耐える時間となる、だからどんどん短くしようとする。
 何のために生きているのか等ということは考えるゆとりもない。だからキレル者がいても不思議ではない目的に至る迄の時間に耐えきれないのだと考える。
 農業の目的も人それぞれだが、植えた薩摩芋はどんなに忙しく金が必要でも決まった時間はまたなければならない。しかし目的に至ることは完全でないにしてもある程度は約束されている。だから目的に至までの時間をどう楽しむかである。
 そうすると時間ををかければかける程楽しい時間が増えることとなる。長期栽培の穀物や根菜類の多かった時代の方が農家は楽しかったということになる。楽しくはなかったョといわれそうだが、心にゆとりはあった。村祭りや運動会、遠足、田植えや稲刈りにも大声の笑いが村中にあったはずだ。葬式や婚礼に体温があった。思いやりや慈しみの心があり、他人事などという言葉もなく、いつも自分の身に引き当てて喜怒哀楽してきた。
 お金なんてものを目的に生きていなかったから、今の、今日のこの時をどう過ごすのかに真剣になれたのだとおもう。つまり理屈抜きでどう生きるか、ということがあったのだ。信州生まれの私は冬の約四ヶ月の過ごし方を思うと、実に大人たちは、藁仕事のほかは芸能の能や謡曲、女性は染め物や機織りをし、自分のオリジナルの色やデザイン着物などを持ち寄ってお茶を飲み漬け物談義にと結構楽しそうであった。子供たちは何時しかこの大人達の心のゆとりの中で育てられた。今日が楽しかったから明日はもっと楽しくなんて考えなかった。明日も今日のように楽しければそれでよかったのだ。
 冗談だと思うがカンボジャの復興後間もない頃、普通列車の方が急行列車より料金が高い時があったそうだ。何故かというと普通列車の方が長く乗っていられるからだそうだ。お金だけが目的ではない社会にはこんな考え方が出来るのだ。確かにお金社会だからお金はどうしても必要だ。だから是れくらいでいいやと決めて生きるしかない。
 旅といえば高速道路もそうだ。速いし、塀で囲われていて、これ又景色が見えない、目的地を近ずけてくれたが、それだけ無駄な金を使わされることにもなった。
 楽しむというより苦しみの方が大きくなりつつある。もがいてみても仕方ありませんから少しゆっくり、各駅停車か一般道の旅のような人生してみませんか。

  憤りの資格
                          原 茂之
 最近、というか、ずっと以前からですが、政治をつかさどる人たち、あるいは官僚とか、役人と呼ばれる人たちの収賄や横領など、汚職について騒ぎ立てられています。不要な公共事業を進めようとする彼らの姿勢も、問題として提起されています。提起されても、最後まで追及されるということはないみたいですが・・・。また、企業についても、ラベルの張り替えや有害物質の使用など、企業道徳の欠如が取りざたされています。
 これらは、公務員と呼ばれる公の職についている人が、民(国民、市町村民)の努力や権利を蹂躙している(じゅうりんする:踏みにじる)こと、裏切っていること、そして、その目的が私腹を肥やすためだとか、私利私欲を満たすためであることが、私たちの怒りや嘆きになっているんだと思います。
 私企業についても、社員と消費者に対する蹂躙と裏切りが問題視されているようです。もっとも、この場合、われわれ消費者にも問題はありそうですが、、、。
 毎日のニュースをまたか、またかとため息混じりに聞いているとき、ふと考えました。「あれ?僕の今までの暮らしも、おんなじではなかろうか・・・」
 不要にでかい車に乗り、一生かかっても着古せないほどの服を買い、TPOに合わせて、なんて言いながら靴や時計、カバンをいくつも持ち、じゃらじゃらと着飾り、世界中の料理を日本で食べつくし、バンバン旅行に行き、みやげ収集をし、明け方までどんちゃん騒ぎで飲み明かし・・・(なんつー生活じゃ!)
 僕が消費してきたもの、あるいは所有物が出来上がるまでに使われたエネルギー(石油やガス、人的労働力など)、廃棄したものなどなどは、本来「人」が暮らす上で必要なエネルギーの何倍に当たるんだろうか。これから生まれ来る人たちの大地、自然をどれほど奪ったのだろうか。
 僕は、自らの欲を満たすために、遠い国の知らない町の人たちを蹂躙し、未来の子供たちを裏切り、無責任にヘラヘラと暮らしてきたことを考えると、騒ぎ立てられている政治家、官僚、役人とまるっきり同じではないかと、ぞっとします。
 生きていくうえで、何も消費しないということはあり得ませんし、江戸時代の暮らしをしようとしても、社会的にも肉体的にも困難ですから、せめて、少しでもマシな営みを心がけよう・・・そんなことを考えます。
 もちろん、公憤は抑えず、声を出していくことも、同時にしていくつもりです。


 心を持ちたい  
                           高柳 功
 時代とともに「心」がなくなる。
心よりも科学が優先されるからだ。
 泥棒しようが、殺人しようが心を失ってかかれば社会は通用する。立証される科学的な裏付けがなければいいからだ。そのうちに疑わしきは罰せずで時効になって放免される。はやい話が心をどこかにおいて完全犯罪に拍手を送っているのだ。
 ・・・これは最近読んだ読み物の一節。
 狂牛病問題から雪印問題、そして掃除会社のまんじゅう添加物問題、ほうれん草などの輸入冷凍野菜の残留農薬問題などが毎日のように報道されている。添加物は、許可されているものだけで360種を越え、無許可というか範囲に入らないものが同じ数だけあるという話がある。またこの国はアメリカ基準で遺伝子組み換え作物が大量に入る国になってしまったが、科学で立証される裏付けがなければと流通している。
 その科学が生み出したものが後になって問題になると、やむを得なかった、知らなかった、申し訳ないなどと言い訳して終わる。食べ物は入れ替えがきかない。食べてしまったものだから、取り返しがつかない。
 以前、食生態学入門の中で西丸震也氏が添加物のAF2の問題で指摘していた。この添加物は防腐剤として使われ既に危険物質としていまは使われていないのだが、この添加物が使われていた8年間に日本人の体に入ってしまった。やっかいなことは体に取り込まれたものがそのままに次の世代まで影響される可能性を持っていることだ。そうなると日本人の総体的生命力は衰えていくだろう、という。
 元はといえば、その時点では国が認可したものである。認可されて、後で問題になり製造停止したものがたくさんある。いわば国民は実験台のようなもので、開発した方は動物実験などで良しとして申請しているが、許可する側のデータに頼って許可するのではなく、開発した側のデータによって許可されているのが大半である。
 問題ないという根拠の中に、これまでそういう例がない、というのがある。よくもぬけぬけとそういうことが言えると思う。当たり前ではないか。今まで地上になかったものがその影響が出ていないのは当たり前である。AF2を例に取れば、八年間は症例がなかったから良しとしてきて、だがその結果危険であると判定したので、製造禁止、使用禁止にした、ということになる。その結果は誰も責任を取らない。
 そういうことから学ぶことは、国の基準ということも一つの基準ではあるけれども不完全ということになる。食べ物は保守的でよい、という考え方がある。それは、今まで長い間食べ続けてきたものは体験済みだからだ。それによって私達の先祖から今までの命が繋がってきたのだから。
 冒頭の続き・・・科学では人間が見たり聞いたり触ったりする範囲のことしか扱わない。それで済まそうとするから恐い。命を再生することも他人と心を入れ替えることも科学がどんなに進んでも不可能の分野なのだ。 心や命は科学によってはかれない大きな存在なのである。
 ・・・その科学によって善し悪しを決めている現代です。
 最近国や行政の中で安全委員会の設置、などと言っているが私は基本的に信用できない。なぜならば、命はそうそう基準などという枠の中でくくれない問題だと思うからである。


∧編集後記∨
 有事法制や政治、そして生き方、食の問題など歴史が進むほど、人間が進歩するのでなく、卑しくなってきているように思える。目的と手段がひっくり返って手段が目的化しているようにも思える。
 とはいうものの、その時代に生きる私達に、問題に立ち向かう責任があるのではないか。どれ程のことができるかではなく、宮下さんが言うようにどう生きるか、なのではないか。地球温暖化や教育問題など問題は山積み。そうした一因は私達一人一人の中にあることを自覚せねばなるまい。   (高柳・記)

俺にも言わせろ! 二十二回無限塾
二〇〇二年五月   長興院
1.心が貧しいから文句ばかり        宮下 陽祐
2.知り馬鹿 知らず馬鹿 「その十八」   藤田 長男
3.もうすぐ二年です               原 茂之
4.百人のムラ           紹介です。(高柳)
 心が貧しいから文句ばかり
                         宮下 陽祐
 陽気が進んだ今年であったが、ここにきて肌寒い日が続くと今年の天気が心配である。エルニーニョも既に現われていると聞く、冷夏とならねばよいが、、、、、、。
 今、国会では郵政関連改正法、メディア関連法案、有事関連法案等が審議されている。審議しなくてよい法案だとは思わないが、突然、どうして急ぐのかがわからない、小泉総理が掲げた改革はどうしたのだろうか、私はまんまと小泉さんにしてやられたと思っている。構造改革は族議員の抵抗、官僚の反発が思った以上にきつい、この国会の目玉となるはずの改革法案は何も出せない。メディア関連法はマスメディアの死活問題部分がある。マスコミや国民の目をそちらに向けて改革法案から目を反らさせてしまった。
 有事法案も審議内容を聞いていると全く時代離れしている。大体二十五年も前の福田総理の時代に始まった話である。今その息子の福田官房長官が内閣にいる、親父の遺言を実現チャンスとばかりの感がある。
 政治家は、何か自分にとって不利なことが生じると他に目新しいことを作って、その情況を回避し国民やマスコミの目から逃れるのが常套手段だと聞いたことがある。
 政治家の秘書に係わる金銭問題が問題になったが、これらもなすりあいの良い例である。 子供の喧嘩、なんて言ったら子供に怒られそうだが泥試合である。税金をなんだと思っているのだろうか、大体公務員でもないものに何故国費を支払うのだろうか。
 連休の農家は大変な時期である、一年の生活が懸かっているのだ、大切な作付けの時期だ、外国に数十万人も遊びに出掛けたそうだ、政治家も官僚も外遊と称している、これの費用は税金だ、中小企業の経営者が首を括らなければならないと苦しんでいる。
 まったく危機感なんてない、農家だってそうだ所得の保障などどこにもない、でも今只ひたすら仕事に精を出す、強烈な紫外線を浴び、正に戦闘だ。国民の六割以上の人々は皆こうして生きているのだ、本当に真面目に実直に働いて生きているのだ。
 領事館に他国の人が非難を求めて飛び込んだ、それを連れ出されてしまった、日本の外交はどうなっているのだろうか、不法占拠している人に発電所や艀、友好施設を造る、独立国日本なんていえるだろうか、冷静沈着にことの正邪を見定めたいものである。
 八千万も九千万もの退職金を出す公務員退職金制度に天下り、悪代官そのものである。 縦割りの行政機構の弊害が改革を阻み、利権に群がる亡者の巣である。
 真面目に一生懸命に生きている人々がいるからなんとかなっているのだ、この人々だけは決して裏切ってはいけないのだ。
 裏切らないといえば、春の野菜や山菜の美味しさである、人間社会がいかにあろうとも毎年決まって同じ味を楽しませてくれる、大栄町は食べものの大変豊かな町である。
 美味しい野菜ばかりではない、山菜も決して本場に負けていない、私の知る十数種の山菜どれも大変すばらしい、ノビルや蕗、セリ、 こごみ、ゼンマイ、ワラビ、種付け花、ナズナ、タラノメ、ギシギシ、スカンポ、トトキ、オケラ、クサキ、ニワトコの芽、キハダの芽、雪のした、ウド、あけびの新芽、シオデ等沢山だ、特別病気にもならず六十三年も生きられたのは自然界のものを季節に応じて戴いてきたからだと思い込んでいる。
 現代は好むと好まざるに係わらず化学物質が体に入ってくる、昔から毒物を体から追い出すのは山菜を食べることだとおそわった、体は時代が変わったからといって変われるものではない、昔の人の食べ方をもう少し学びたいものである。
 食は子供の時に味を覚えるそうだ、加工品やインスタント食品、それに歯をあまり使わない口当たりのよいものばかりを食べ、ゴロゴロしていたのでは病気人間を造っているようなものである。健康保険料を値上げするそうだ、未収の問題もあるが医者に懸からないようにする為の健康づくりにも金をかけるべきではないだろうか。
 有事に使う金を戦争を起こさせないために使えないだろうか、そのほうが友好的だと思う、ギスギスした世の中に育つ子供たちが可哀相だ。
 豊かさとか幸せとかは、自分の心が決めることだが、心がひもじいから文句ばかり出てくるのかもしれない、だとすれば私の心もひもじいのかもしれない。
 ひもじいといえば、戦後の方がひもじかった、でも子供も大人も皆生き生きとしていた、そして子供たちの目はキラキラと輝いていた、そして大きな笑い声が至る所にあった、今子供たちは塾に通い、無機質な機械を相手に遊び、無機質な物の多い食べ物を食べているこれはまるでロボットだ。感情なんて持ち合わせていない顔をしている。こんな子供を造ってしまった我々の責任は大きい。子の子供たちが次世帯を背負ってゆくのである。
 鯉のぼりが今年も大空にあがった、健やかに育っている子供達のためにも私達の生き方の責任は大きい、心だけは豊に持ちたいものだ。


知り馬鹿 知らず馬鹿 「その十八」
                      藤田 長男
 ジュースの空き缶じゃあねいが人は時の流れにコロコロ転がるものだ、ワープロもろくに出来ねいのに人様がこれからはインターネットの時代だ等と騒ぐものだから、つい覗き見したくなりパソコン教室に首を突っ込む事になっちまった、おどれえた事に可愛子ちゃんは1個も見当たらねい。上に多少若の字の付くGちゃんBaちゃん軍団だ。なんでこう なっちまうの“人の事を言えた義理じゃあねえのだが、ひでいのは大正十三年の大御所だ。仲良くハゲ頭同士が並んで講習生だ。腹ん中じゃあこいつには負けたくねいと三晩通った。最後の晩は隣同士でメールの交換だがハゲ同士ではるんるんとはいかねい。毛の生えるいい薬でも見つけたら連絡し合おうよ位が本命だ。 
 そんな下地が有っての事なのだが、ある日ちょつくら町長室を覗いて見たら町長さんがパソコンとにらめっこしているのだ、ウインドーを開いて鏡がわりに鼻をほじっていたのだかなんなのかは定かじゃあねえのだが、中々かっこええ姿である。オイ町長さん!パソコン出来るのかよう“と這入っていくと、藤田さんよ出来る出来ねいじゃねい、やらねいと収まらなくなっちまったのよ、と笑っていた。
 それもそうだろう課長達にパソコン配って置いて私は出来ませんじゃあ通うらねいだろう。藤田さんパソコン覚えようよ、てなことでけしかけられてその気になって、家に帰る早々東京の娘に電話してパソコンを注文してもらった。次の日にはもうご到着だ。スピードの時代だ。るんるん気分で箱を開きはしたがビックラこけてしまった。なんとキーボードがほとんど英語で書いて有るのだべ。着払いで早々十五万円支払っちまったし、娘の手前英語表示じゃあしょうがねいとクーリングオフともいかねいだろう。鳩が豆鉄砲を喰らった様に一瞬ショゲテしまった、が買えねい奴もいるのだからと気を取り戻して毎晩パソコンとにらめっこだ。
 日本人が使うパソコンを日本人が作っているのになぜ英語表示なのだ。かくてミズーリ号の艦上の無条件降伏調印がまだ生きているとでも言うのかよう糞おもしろくねい話しだべ。おまけに間抜けな奴が作ったのだろう「あいうえお」の五十音が儀容儀良く並んでいねいのだ。あっち向いてほいこっち向いてほいなのだ。母ちゃんのキーは1個しかねいから手探りでも大丈夫なのだがパソコンのキーは百個もあるだ。おまけに海の向こうの漢字ときたんじゃあ年寄りにはたまったもんじゃあねい。年寄りは金持ちなのだからもうちっと使い易いパソコンを作って売る様にすりゃあ今ちっとは景気の塩梅が良くなる事だろうにカッコばかり付けやがって馬鹿な奴らだべ。
 ぶつくりを言い乍らも毎晩探っていると情がわいて来るものだ、ただ百日も鼻水をこすり乍ら寒風に晒され、梨の枝を切り結んでいると指先が垢切れでごっつくなっちまって、困った事に隣のキーにぶつかると画面がひっくり返っちまうのである。毎晩ナンジャコリャ様なのだから母ちゃんの腹に乗っかる処の騒ぎじゃあねいのだ。当分痛みは分ち合うしかねえだろう構造改革なのだで、その内に可愛い子ちゃんからメールでも送られて来たらビックラこけてチビルだろうぜ。
 そんなパソコンかぶれの二人の野郎共がコンピュータ見合いをやったらどうだべ等と調子に乗って「大栄町結婚相談室設立構想」なるものを立ち上げた。そこでやめておけばいい男だったのだが仲間友達に応援してもらっておそれ多くも町長さんの処に提出してしまったのだ。昔から世の中に鴨がねぎを背負って来ると言う話があるが、自分がその鴨なべになっちまうとは吾乍らチット気がつくのが遅かった。
 虫も殺さねえ様な顔をして町長さんも中々やるもんだ。早い話、返り討ちを喰らっちまったわけだ。わしは頭がいい方だと信じて居たのだが、ここに来て少し修正申告しねえとしょうがなくなっちまった。まあ辻元の姉ちゃんも修正申告するだで相子だ。ここは狸の様に死んだふりをして切り抜けにゃあなるめえ。
 清美の姉ちゃんの様に美人が頑張ると昔からみそぎに合っちまうのだ。わしらの国にはそんな固有の風習があるのじや。誰だって金バッチは欲しいのだが付けるのはてえへんなのだ。わしらの様に顔に泥バッチでも付けていた方が安全なのだべ。泥バッチでも人様の為に少しでも役に立つと言う事であるならばそれも又有り難え冥土の土産となるだべずら。
 だども間違って何組も出来てしまったなんて事になったらどうすべえ。報償金がいっぺえ入ったら何買うべえか。白髪の師になってステッキを突いて教団に立つのがわしの夢なのじゃから学校用地に山でも買うか。まてよ、耕地整理のやってねい田んぼは馬鹿安だとも聞くが、果報は寝て待てとも言うでのう、今夜は横から潜り込むとするか、久し振りにのう。・・・・・・


 もうすぐ二年です
                          原 茂之
大栄町に移り、田畑をやらせてもらうようになって、もうすぐ二年になります。早いです。一年目の作業の仕方、その結果としての畑は、「耕作放棄地か?」という状態になってしまいましたが、二年目は、すっちゃかめっちゃかから、めちゃくちゃくらいに進歩(?)したように思います。
 一つひとつの作業は、大分慣れてきたと思いますが、天気を読んだり、作業の重なり具合や、忙しさ(作業量)の程度がまだわかっておらず、作業が後手後手に回ることが多いです。里芋の貯蔵が大晦日と元日になっちゃったり(通りすがりのおばあさんに「晦日や正月も休まんのけ?」なんて言われた)、ジャガイモの種の植え付けを二月中にやるつもりでいたのに、三月半ばになっちゃったり…(去年は三月末だったから、少しはましか?)。
 ましになるスピードが遅いですよね。農家の跡を継ぎ始めた人の一年での変わりぶり、仕事の飲み込みの早さや板についていく様子は、僕のがむしゃらにやった一年の倍以上です。センスの違い、三十近くなって、まったく新しい分野で生きていこうとすることのハンディを痛感させられます。餅は餅屋、酒は酒屋とか、門前の小僧、習わぬ経を読むなど、昔の人はうまいこというなぁなんて、ひとごとのように言っている場合ではありません。好きこそものの上手なれという言葉を励みに、今まで以上に気合いを入れていこうと思います。
 そうそう、僕は、大分のお百姓さんのお話を聞いて、お百姓さんになりたいって思って、今に至っているのですが、お百姓さんには到底なれないなぁと、最近思うようになりました。僕が知るお百姓さん(おかげさま農場のベテランの方々)は、野良仕事のほか、家や機械の修理をしたり、部落の未来を村のみんなで考えたり、お祭りや風習など歴史を継承したり…などなど、たくさんの仕事をスマートにやっているようにみえます。
 僕は、いくつかの仕事を何とかこなすようにはなれても、「たくさんの」仕事を「スマートに」できるようになるには、三百年くらい生きなければならなそうです。なんだか僕の仕事ぶりは、スマートとは程遠く、ここいら辺の言葉で言うなら、「あかぬけねぇ」感じです。
 百姓と名乗れるようになるのは、僕の子供、孫の代くらいからかなぁなんて思います。自分を「百姓」と言えることは、とても誇れることで、とても立派なことだと僕は思います。


 百人のムラ
                       紹介です。(高柳)
 もし、全世界 を百人の村に縮小するとどうなるでしょう。
その村には、、、
 五十七人のアジア人
 二十一人のヨーロッパ人
 十四人の南北アメリカ人
 八人のアフリカ人がいます
 五十二人が女性です
 四十八人が男性です
 七十人が有色人種で
 三十人が白人
 七十人がキリスト教以外の人で
 三十人がキリスト教
 八十九人が異性愛者で
 十一人が同性愛者
 六人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍
 八十人は標準以下の居住環境に住み
 七十人は文字が読めません
 五十人は栄養失調に苦しみ
 一人が瀕死の状態にあり
 一人はいま、生まれようとしています
 一人は(そうたった一人)は大学の教育を受け
 そしてたった一人だけがコンピューターを所有しています
もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、相手をあるがままに受け入れること、自分と違う人を理解すること、そして、そういう事実を知るための教育がいかに必要かは火をみるよりあきらかです。
 また、次ぎのような視点からもじっくり考えてみましょう
 もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・・
 あなたは今生き残ることのできないであろう百万人の人たちより恵まれてます。
 もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・
 あなたは世界の五億人の人たちより恵まれています。
 もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら・・・
 あなたは世界の三十億人のひとたちより恵まれています。
 もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら・・・
 あなたは世界の七十五%の人たちより裕福で恵まれています。
 もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら・・・
 あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位八%のうちのひとりです。
 もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・
それはとても稀なことです。
 もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうけるでしょう。
 なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて、その上あなたはまったく文字の読めない世界中の二十億の人々よりずっと恵まれているからです。
 昔の人がこう言いました。わが身から出るものはいずれ我が身に戻り来る、と。
 お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
 かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
 誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう
 誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう
 あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう
  ♪読んでくれてありがとう
***************************************************************
以上です。
いかがでしたでしょう?
 元はダナ・メドウスというジャーナリストが書いた物です。昨年インターネットに登場し、かなり反響を呼んだものです。そしてアメリカでは小学校の先生が学校の教材にしたとも言います。

 一番富める者が良い悪いを判断し、貧しく生き場を失った者はそれに従え!と言うのでは傲慢としか言いようがありません。
 誰がこの国を攻めると言うのでしょうか。アジアの国々はむしろ反対にこの国が軍国主義国家になることを恐れている様に思います。軍事費が世界第二の国なのですからそれも一理あります。よその国が戦争準備しているのではなく、日本がアジアで一番戦争準備をしている国だ、と思われてるのです。それでいいのか、国会の議論は国民の議論になっていないように思います。フランスとは大きな違いです。
 


<編集後記>
 先月の予定が、大幅に延びて今日になってしまいました。その上事務局が風邪をひいて、なおのこと充分な時間をとれず申し訳ないと思います。
 コミュニティが健全な社会は風通しが良い。なぜならばお互いが、その思いを充分に語り合い、違いや個性を尊重できる社会性を持っているからであり、話してはいけないことだとか、率直に話しできない社会環境は近代社会とは言えない。
 かって大政翼賛会と言うことがあったが当局に対して何でも賛成、と言う雰囲気が何となく醸成されて来たようにこれからもそうなる可能性はある。爽やかに話し、聞ける社会関係でありたい。
                           (高柳・記)

俺にも言わせろ! 第二十一号  無限塾
二〇〇二年三月一六日 長興院

 この俺にも言わせろ!無限塾、と言うものも二十回を超えることができました。つきましては、読者の皆さんに集まっていただき、今までの感想とか、意見とか、懇談したいと思っています。お忙しいでしょうが、長興院にお集まりいただきたくご案内します。当日は、大栄の地酒も用意しますので、一献酌み交わしながら歓談したいと思っています。
1.貝のつく字             宮下陽祐
2.知り馬鹿知らず馬鹿その17  藤田長男  
3.北関東百姓の集いに参加しました  原茂之
5.日本中が雪印じゃないか?   高柳功
  貝のつく字
                       宮 下 陽 祐
 寒しじみが大変を美味しく戴ける時節である。しじみといえば貝であるが最近貝に纏わる文字が横行している、古い時代貝を貨幣として通用していたためか経済用語に多く用いられている。賄賂、収賄、資金、売買、負債、財産、債権、預金、賃貸し、購買、等など大変多い、ムネオ議員が地元業者を贔屓(ひいき)したことが問題となっているがヒイキの字などは貝だらけである、ということはカネがらみであるということになる。
 サマランチ時代にオリンピックを貨幣まみれの大会にしたためだろうか今回のオリンピックは何か貝偏の字がちらつく。招致合戦からIOC委員への賄賂攻撃などは公然でもあったとも聞く。不正判定や薬物使用の問題も不当に選手の商品価値?を高めたいという思惑が働いたのであろうか、高い放送権料も去ることながら視聴率が低いのも貝偏が邪魔したのではないだろうか。数々の真剣なドラマが貶(おとしめ)られてしまったのは選手達には可愛そうなことであった。
 ムネオ議員も雪印も業際都市開発研究所の口利きも牛海面状脳症(BSE)も貪欲なまでもの貪貸に貪虐である、まさになりふりかまわず貝を得んがための贋作合戦である。
 大体OADにまつわる外務省の資金のバラマキ的行為は提供を受けた国側から再三問題を指摘されていた。特に円借款の事業ではアスワンダムを始めとして喜ばれたものなど皆無に等しい。開発途上国の立場を利用した企業と外務、財務省それに政治家の癒着構造にある。つまり貝の分配の優先であって相手国利権とからむから、その事業の目的などどうでもよいのである、迷惑するのはそこに生活する人々である。
 それにつけても、外務省という泥船に乗っていた人々の逃げ足の早いことにも驚く、海賊的船長の命令を受けないとなったらやはり沈没前に逃げるが安全である。
 農林問題、国土交通省にももっとひどいことがあると聞く、早く泥船は沈没させて安全な航海をしたいものである。教育基本法第一条に、教育の目的がかいてある、教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわなければならない。とある。政界、官界、財界の皆様方は小学校の一年生からもう一度学びなおしたほうがいい、そうはいうが教育も産業として経済効率優先になつているのだからどこを信じたらいいのだろうか、ここにも貝の字が蠢いている。
 貴という字にも貝がついている、我々は貴重なる大自然の命によって生かされている、貴重な命をいただき、貴重なる一時を生かさせていただいているのである。
 日本丸という船の船底は貝殻がこびりついてしまってニッチもサッチもゆかなくなってしまっている、早く貝殻を綺麗に削り落として安全な航海を良き船長に託したいものである。船上の貴客は貧寒なく慶賀の時を費やしたいものである。三月三日はひな祭り、蛤の宴でこれも貝である、少子化も蛤祭りで無くしたいものである。今月は貝、にこだわっていわせていただきました。これで責任?をはたしました。


 知り馬鹿 知らず馬鹿 「その十七」  
                         藤田 長男
 正月明けから永田町の芝居小屋は大騒ぎだ。あっちの顔をたてこっちの首を切り、日本と言う国は本音と建て前が器用に使い分けられて居るからこんな茶番劇で成り立っているといえる。誰が嘘を付いているのか分かっちまっている茶番劇では見る方もうんざりだ。セリフを間違えトンザしている幼稚園の劇の方がよっぽどおもしれえ。首切り劇は下々でもやっている事なのだが、どさくさ紛れに首を切られちまった真紀子おばちゃんは可愛いそうだが、考えて見りゃあ切る方も切られる方もいいタイミングという処だべ。誰もできねえ古狸の巣をあれだけ引っ掻き廻したのだからアッパレという処じゃろう。
 狂牛病に泣く人笑う人そいつらを食い物にする奴”わしらの頭の中が覗かれているみていだ。どのおっちゃんに成りてえかと問うたらどのおっちゃんにも成りたくねえと子供は答えるだろう。狂牛病も薬害エイズも同じ穴の貉だ。わしらの国は銭取りが先に有るのだ。北海道の真っ白い雪印さんも百日説法、屁一つでこけてしまつた。ラベルの張り替えや値段の書き替え、米袋の入れ替え等は下々でも日常茶飯事にやられて居るのだが、こと人様の情けを横取りする様な火事場泥棒はいけねえやな。OECDとかいう奴も火事場泥棒と同じだと聞くが、昔なら打ち首獄門という処だべ、せめて人様のサイフを狙う位に止めておいてもらいてえものだ、腐っても鯛じゃねえ塩辛位でのう。
 何処を突いても人と人との争いばかりだ、人様はなぜ争わねばならねえのだべ、鉄砲が売れねえと困るからでもなかろうが、横根を辿れば人の我にたどり着くのじゃろう。顔のしわは鏡で見る事が出来るが自分の我は見る事が出来ねえ。手前の食い扶持は手前で探さねばならねえ浮き世の定めなれば、我が強く成るのも必然的だろうが、半歩退いて勢い付けて前へ進めば上出来だろうが、こと自分の事と成ると分かんなくなつちまうものだ。そんな理屈をとうとうと説いてくれる山寺の貧坊主が居無くなつちまつたと言う事なのかのう。それが分かれば神や仏はいらねえと言う処だべ。隣室のとぼけ爺さんと喧嘩しちょる様ではまだまだ人類も四海も兄弟とはいかねえだろう、無秩序、不道徳、自由不拘束、を行く現下の日本は今しっちゃかめっちゃかだ。エーズだコンピユータウイルスだ、狂牛病だ麻薬だ密漁、不法入国だ不審船だポテドンだ、ついても今有事立法が叫ばれているのだが日本の水際作戦は完璧なのだろうか、不安が募る昨今である。
 三和の横内さんの長男に当たる方が防衛庁を退官された、子供の頃から電波少年で有った戦後の物不足の時代、伊能歌舞伎をワイヤレス電波に乗せて実況中継して近所の人達を驚かせた事は有名な話だ。電波電子技官として防衛庁内に於いても五本の指に入る地位に居たらしく惜しまれ乍ら三十四年の任務を果たし静々と退官したと聞く。自衛官に対し御苦労様でしたと中々言え難い時代背景でも有る。
 先月わしらも浜松航空記念館を見学した、退館する時キチンと敬礼をした。彼らも笑い乍ら敬礼を返してくれた御苦労様とは言わなかったが食卓の笑い話にはなったであろう。自衛隊の方々も五十年間影の任務に付いて居てくれたので有る。この際キチンと認知してその守備に当たつてもらわねばならねえだろう。   
 そんな問いかけをし乍ら無限塾も早二年を生恥じらって参りました。これも愛読者の方々の暖かい声援に励まされて二十号へと辿り着く事が出来たかと思います。故に読者の方々も無限塾のスタッフの一員で有ると気が付きまして、お礼方々読者交流会を催す事と相なりました、引地の事務所は火の車で酒を買えねいので自分で酒を造って呑ませてくれるそうで、まあ味の方はともかく命に別状はねえでしょうからお誘い会わせの上呑みに来てくらんしょ”


北関東百姓の集いに参加しました
                          原 茂之
 一月の下旬に、北関東百姓の集いというイベントに参加しました。お百姓さんばかりの集まりかというとそうでもなくて、自分では農に携わっていないけど、農業の話を聴いてみたいという人も参加している、とても入りやすいものでした。参加者の年齢も、学生から定年退職したというご年輩の方まで、さまざまな経験を持つ人、夢や希望を持つ人でいっぱいでした。
 勉強になりました。長年、農業をやってきた方にお話を聴くことができましたが、小さい頃からのきつい手伝いや、親の大変そうな仕事振りを見た上で、家業を継がなければならない辛さ、機械ができるまでは、すべて手作業でやってきた頃のお話、あるいは、世間の安さの追求から、買い叩かれ、さらに、お米、野菜の輸入により、拍車がかかっていること、この先、農家はどうしていくのか、農業は、この国は…という憂いなどなど。
 こんな風に書くと、暗い愚痴のこぼしあいか?なんて思うかもしれませんが、こういう話は、僕が好きで聴いていただけで、むしろ逆に、みなさんの雰囲気は明るく、話の内容は重くという感じでしたよ。
 また、別のベテランの方は、こんな風に言ってました。「三十年、農業やってきて、最近、ようやく、楽しさというものが、見えてきました。」
白髪の頭、顔に刻まれたしわ、ごつい手、それらから、生きるのに必死だったということが、全身に伝わってきます。
 僕なんかは、農業という職を「選択」したわけですし、機械に頼ることもできますし、ベテランから見れば、のんきに道楽でやっている小僧同然です。それでも、農という道でのがんばりを続けていって欲しいというエールをくれました。スケールの大きさに感動しました。
 また、僕には縁があまりない果樹(ブドウやキウイなどフルーツ)をやっている人(そのブドウから作ったワインをみんなで飲みました。おいしかった。)、豚を飼い始め、最近、人工授精をやって増えたなんて人、ミツバチを飼って、蜂蜜を取っている人、あるいは、かやぶき屋根の家に住んでいて、昨年、屋根の葺き替えをやった人などのお話も聞くことができました。
 学生の人たちからは、学校卒業後、どのような形で生きていこうか、ヒントになったとの感想がありました。僕自身も、たくさん勉強できました。やはり、老若男女、いろいろな人が集まり、情報や技術もそうですが、心の交流を図る場というのは、必要だなと思いました。

 日本中が雪印じゃないか?
                           高柳 功 
 日本中が雪印じゃないか、と指摘したのは私のメール仲間であるが、まさにそうなのである。徳島県の農家からなのだが、その徳島県は野沢菜の産地となっているが、それが長野に運ばれ信州の野沢菜となる。また、山菜は、これまた輸入されて国産の山菜として加工される。ソバにしても9割近くが輸入である。近くは、九州の里芋が千葉産として出荷される。落花生にしても、中国産の輸入物が大量に輸入されてきた。 昨年JAS法が改正され、産地の明示が義務化され、かなり改善されたものの、それまでは無法地帯であったのだ。つい習慣?でそうしているのはまだまだいくらもあるだろう。
 漬け物などはその殆どが外国産と言っていいのではなかろうか。原料が外国産でも加工地が国内であればそこが製造場所だ、と言うことで原産国は明示しなくともいい、なんて抜け道もある。
 ネギやしいたけそして畳表のセーフガードが問題になったが、それを始めたのは日本の企業である。日本の企業が技術者を派遣し、中国や台湾など人件費の安い国に行って始めたことだ。だから中国に言わせれば、日本人がやってきて作らせて、その上で同じ日本が輸入しないとは理不尽だというのは正当性がある。利益さえ出ればなんでもやる、と言うエコノミックアニマルの作り出した現象と言える。
 雪印事件は氷山の一角で、日本中が雪印というと言う食の結果は、それを食べる人間に現れているように思える。アトピーの増加、アレルギー、そして花粉症、ガンや糖尿病、脳疾患、心臓病などの増加は食に起因する。
 無法地帯であったと書いたが、そうではなくて経済主義の結果が命の論理や信頼という目に見えない価値観を凌駕してしまった、と言うのが本当ではなかろうか。例えば、十数年前になるが味噌の話しがある。消費者に安く供給するためか、どうかは知らないが、
 味噌の原料は、お米と大豆である。それを、米選機下の米を使い、油をとった大豆粕を原料にすると原料費は格段に抑えられる。でも米選機下だから、色が悪かったりする。で、きれいにするために漂白剤で漂白し、着色料で色を付ける。大豆粕も同じ。で原料がそんなものだからなんとか本物の味噌に見せるために増量剤等を使ってそれらしく見せる。(見栄えだけでなく、固さや色など)そして当然味も違ってくるので味の素などの調味料で味付けをする。元々味噌は調味料なのだがその味噌を調味料を使って作ると云う処が面白い?!
 最近丸ダイス使用等という表示が使われるようになったが、じゃあ今まではなんであったのか。とその事に疑問を抱かない消費者も疑問に思うのだが、それが平均的消費者の意識レベルなのだろう。
 味噌に限らず、黴びないパンだとか、腐らないおにぎりとか、一kの肉で2kのハムを作ってしまうとか、そう言う話しはいっぱいある。知らされない事もあろうが、知ろうともしない消費者意識の問題もある。 実際今日本の加工食品は衛生的という点では満点に近いかも知れないが、食品添加物、抗生物質、成長ホルモン、遺伝子組み換え作物、と言ったものに殆ど関心を示さない。エイズ問題や狂牛病問題など起こるのは当たり前のシステムになってしまっている。
 資料穀物が二千万トン、小麦やビール麦が八百万トン、大豆が4百万トンその他ソバ、ゴマ等の穀物、そして二百万トンとも三百万トンとも言われる野菜の輸入が私達の食に与える影響は計り知れない。
 それもこれも、安かろよかろと言う価値観に置き換えられている。どこでどんな風に作られているかも知らず、どんな加工が加えられているかも分からず、飽食とグルメと安ければいいと言う価値観の結果が現在の状況であろう。
 私の場合は疑り深いので加工食品は基本的に買わない。神経質にならない程度にだが。農家である故に八割程度は自給したいので、味噌醤油はもちろん、卵も小麦粉も自給を始めた。そして今年はお酒もお米を作り隣町の寺田酒造に頼み仕込んでもらった。
 ともあれ、この国の食は何がなんだか分からない。やがて狂牛病のような問題が次々とでてくるような気がしてならないのだが皆さんはどう考えているのだろうか。

∧編集後記∨ 
 イスラムの世界は四人まで嫁さんを持てる。だから世の男性はうらやましがるようだが、ある女性が曰く、それは女性が皆愛されることだ。どこの世でも、男女同数が当たり前であって、四人のうち三人は当然妻を持てない男が出てくる。日本男子は、自分が妻を持てない側に立つことを考えようともしない。そう考えると脳天気なのは男衆と言うことになる。
 世の中や物事は表があれば裏がある。右があれば左、上があれば下があり、過去があって現在、そして未来がある。光が当たる側からみると見えないものが蔭からはよく見えることもある。
 そんなこんなでいろんな見方考え方があることを忘れないでいたい。世の中が混乱すればするほど冷静さと判断力が求められるのでは無かろうか。そんな材料としての無限塾です。是非ご参加下さい。    ∧高柳・記∨

俺にも言わせろ!第二十回無限塾       二〇〇二年二月  長興院
1.家業  宮下陽祐
2.産地の声バージョン510 高柳功
3.知り馬鹿知らず馬鹿(その16) 藤田長男
4.結婚について  小川初恵

6.いただきますの重さ  原茂之
 家   業
                      宮 下 陽 祐
 ものには表があれば裏があるように、物事にも同じ事が言える。二十一世紀初頭の昨年は、二十世紀が繁栄の表であったとするなら、完全に裏の面が出てきた感がある。
 つまり二十世紀の付けが廻ってきたとも言える。100人の村というメールがでまわっている。 大変解りやすく書かれている。私も見た、早速学校の授業で使った先生がいて、テレビで放映された、こうゆう先生に出会った子供たちは本当に幸せだ。大体100人の村なるメールさえ知らない先生もいた。良い先生に出会うことは人生にとっては、とても大切だ。道元禅師は「師は巧匠に似たり」といっている。 又「良師に逢わずば、学ばずに如かず」ともいっている。今自分が日本という国に住んでいて、世界の人達との関係においてどんな環境でどうゆう生活をしているのかを知ることは大切なことである。
 十二日に福泉寺の無着方丈さんが年始に見えた、久しぶりに二時間半程いろんな話をした、そして終わりの頃に「日本は家業を潰したから、やがて滅びるでしょうねッ」という結論で別れた、「家業、家業、、、、、、」と何度も考えた、そういえば村とか集落は家業を持つ者の集まりで成り立っていた、農業が七八割だったが、酒屋、油屋、鍛冶屋、大工さん、左官屋、建具屋、綿屋、豆腐屋、馬車屋、呉服屋、時計屋、雑貨屋、居酒屋、染め物屋、荒物屋、等など数えきれないくらいの家業で構成されていた。
 そして家業は成立っていて大切に伝承されていた。家族が力を合わせ、技術の向上や資質向上の研鑽、地域の生活文化の発展に貢献してきた。自分達の食べている物や、使っている道具や住んでいる家、そして着ている物までもが、どういうふうに出来て誰が作っているのかを知っていた。だから互いにそれぞれの家業を尊敬したし、家業を讃えあった。
 家業の跡取りを育て上げることは、家中の大切な責務でもあった、跡取りを育てられないということは家業の滅亡であり、地域社会での恥でもあった。
 そうゆう意味からするとサラリーマンは家業ではない、家族が職場でなにをしているのか、どんな考えで働いているのかなど殆ど知らないし、又知らなくても生活出来る。
 むしろ他人の方が知っている場合の方が多い、村や集落の外で働いているからであろう。配偶者や子供たちも主人や父親や母親の社会的貢献度や考え方を知る機会が少ないから尊敬も労わりも薄い、大人としての威厳も尊厳もでてこない、つまり大人の風格などというものは消え失せてしまった感がある。
 資本主義社会では一部の経営者を除いて、働く人は機械の歯車の様な部品にすぎない。 歯車も部品のどの一つも大切な存在であるのだが機械に組み込まれた一つでしかない、自分の意志で勝手に行動することは許されない、ストレスの原因かもしれない。
 携帯電話の電池ケースも世界一小さなモーターも、世界一小さなネジも、日本刀のような鋼も世界一の鋼だそうだ。皆どれも家業から生まれたものである。身の回りの生活用品の総てが家業で生まれたものである。それを外国や統計的数で日用品を規格ものばかりに慣れすぎた結果、指や他の感覚器官が非常に鈍ってきているとも聞く。
 味覚にしても、鉛筆の握り方にしても、ナイフや包丁の使えないのも家業の滅亡の生んだ結果なのだろうか。家業を無くしたということは、生活基盤や大人になる為の学習の場を失ったということにならないだろうか。だとしたら本当に日本は滅亡するかもしれない。でもまだ頑なに家業を守っている人たちもいる、どうか御続け戴きたいものだ、そしてそうゆう人達を助けていかなければいけないと思う。
 高柳さんが今年は自分で油を搾るという。原材料から油までには大変な作業が待っている。何にもお手伝いは出来ないが昔油屋さんがどうやって油を搾っていたかを思い出し話す位だ。美味しい天麩羅が出来ました、食べてみませんか、という声を楽しみにしてます。それに、おかげさま、という言葉は家業から生まれたのではないかと思った。
 〃昔の人がこう言いました。我が身から出るものはいずれ我が身に戻りくる、と。お金に執着することなく、喜んで働きましょう。〃「世界がもし百人の村だったら」にありました。

産地の声バージョン510
                          高柳 功
 おかげさま農場を始め、毎週お客さんに産地の声として書き始めたものが五百十回を数えた。ほぼ十年間毎週書き続けたことになる。途中でやめようか、と思ったこともあったが、よくも続いてきたな、と言うのが実感である。たまにはそんな紹介もあっていいのでは、と言う思いから紹介します。以下・・・。
(産地の声)vol.510              02.01.21
 昨日は一年の内で一番寒い日大寒の日でした。その日息子の友達が訪ねてきました。福井県で有機農業をしているのですが、奥さんが千葉県の船橋出身で子どもができ、臨月とのこと。送りついでに夫婦での来訪ということになった、と言うわけです。
 で豆腐を作り始めた、と言ってその豆腐をいただいたのですが、こくがあり美味しい。普通は大豆を摺り、煮て豆乳とおからにして、豆乳ににがりを入れてお豆腐を作るのですが、おからを出さない作り方というのです。おからを出さないで大豆をまるのままお豆腐にすると言うのは聞いたことはありましたが食べるのは初めてでした。
 製法を聞くとにがりにグルコンとすまし粉を加えてつくるという。できればにがりだけで作れたらいいね、と話したのですが丸ごと大豆というのは面白いと思います。ただ丸ごととは言っても機械で皮を剥がなくては行けない。そこが問題と言えば問題かも知れませんが、それ以外はよいと思うのです。なんでも丸ごとと言うのが食の原点からすれば理想に近い、と思います。丸ごとというのは命がちゃんと詰まっていることですから。
 玄米がいいというのは玄米には命があるからです。芽がでて成長する生命力があります。現代の日本人の食は命を丸ごと食べる、と言うことからはかなり距離があります。身土不二からほど遠く、加工食品が氾濫し、その上食品添加物という化学物質が数十種類入っています。その上、遺伝子組み替えと来たらまともな食べ物なのかわからなくなっています。
 そんなことで、彼も有機農業だけでなくお豆腐も!と言うことで、3人の仲間で挑戦しているという。まだ始めたばかりと言うことですからどんな風になるかわかりませんがめげずに頑張ってほしいものです。
 食生活から見ると機械文明と経済主義はつまるところその正体が分からなくなる歴史でもあったと思うのです。例えば、お米や野菜がどこでどんな風に育ち、栽培されているのか皆さんは知らない。毎日食べる(味噌や醤油そしてお米離れの一因であるパンなど)にしても原料に何が使われているか、どんな風に作られているかわからない。もちろん私達も知らない。
 狂牛病騒ぎで肉骨粉が騒がれましたが、その肉骨粉が調味料、化粧品や薬品など、数千種類に使われていたという話しもあります。我々に伝えられるのはその効能であり、その原料や製法などはその殆どが知らされないでいます。
 ともあれ、福井県の方でも何とか本物を!とチャレンジしています。全国各地にそういう人達が増えることはよいことだと思います。切磋琢磨で頑張ろう!でお帰りいただきました。
                    おかげさま農場・高柳功

 知り馬鹿 知らず馬鹿 「その十六」
                      藤 田 長 男
 新しき年も明け正月早々定期便の様に我が家にも七十枚程の年賀状が舞い込んで来た。何時もなら心待ちにしている賀状が二枚程有るのだが、喪中の葉書に変わっちまった。山形の佐藤藤三郎さんと島根県の梶原洋子からの年賀状だ、二人ともお世辞にも筆達者の部類には入らねいだろう。特別に文句が上手という事でもねえ同類のわしが言えた義理じゃあねえのだが、三人共に相性が合うと云う事だろう、
 往々にして年賀状は社交儀礼だと思って出して居る奴が殆どで有ろう。貰う方も又、書かれている文句も又どれを取つても似たり寄ったりで古いのと一緒になっちまうと年式を見ねえと区別が付かねえのだ。今年も来れたか位の程度だろう。待たれる年賀状なるものは少なかろうと云う事だ。
 たかが五十円の葉書じゃねえか”とおっしゃりていのは山々でござんしょうが、ことアフガンの裸足の子供達にとってはてえへんな金だろう。手に握らせたら泥だらけの顔に清いな涙の一雫をみる事だろうよ。のう兄弟達よ!たかが五十円とおっしゃらねえで、今少し魂のへえった待たれる賀状のやり取りをしねえと年賀の葉書様に仁義がたたねえじゃねえかよう。
 その点お世辞じゃあねえが藤三郎兄貴は葉書が真っ黒になる位、年頭の土百姓の心意気を自分勝手に書き捲くって来るのである。貰う奴の方の事はあまり気にしねえのだ。わしの方はまだ手書きだでよあまり長いと手首がくたびれてしまうでおおじゃくこえで七五調で逃げ廻って来たのだが、三十年もの投げあいが続いたと云う事は血の通った魂のぶつかり合いが有ったと云う事じゃろう。 
 同じ魂のぶつかり合えでも梶原の姉ちゃんとは少し波長が違うのだ。本当はわしの娘の友達の分際なのじゃがもうかれこれ十年もメル友よろしく、馬鹿みたい”と母ちゃんにどやされ乍ら、せっせと書きっこやっているのだ。 おいまだ売れねえのか!。正味期限切れねえうちに始末しろよ!、腐されかかっても安売りするなよ!、等とエールを送り続けているのじゃよ。今じゃあわしの子供みていに可愛くなっちまったでよ。でもよう、今年も売れ残りましたとはさすが書いて来ねえのだ。今年も遊び惚けてしまいました、と書いて来やがる、
 年賀状が届かなくなったら売れたと云う証だろうが、さみしくなっちまあね、所詮人様のガキだ売れようが売れまいが、あっしには掛か割合いのねえ事で”と啖呵を切りてえ処だが、本音は売れねえ方がええとも考える始末よ、魂の交流と云う奴も又時として悲しき事でごぜえますだ。
 まあもともとわしの出臍は横を向いてふんぞり返つているだで、五十年この方年賀状に、明けましてお目出度う御座います、 と云う文句は書かずに来てしまつた様だ。おそらく腹の虫達がそれを拒否したと云う事なのじゃろう、そんなつむじまがりのわしが吠えるとするなれば、年が明けて何がお目出度いのだ”むしろ逆だろう。
 新年を迎え、今年をどう生き抜くべきやフンドシをきりりと引き締めてその心意気をお互いに交わし合う事が年賀の心なのではねえのか。ふんぞり返つたわしの出臍はそう言いやがって後へも前へもへこまねえのじゃ。しょうがねえから臍野郎の言う通りこのまま突っ走るしか有るめえ。もともと社交儀礼と言うお兄さんは好かねえわしじゃが、人様に配達までさせている年賀状様だ。一行一句心してしたためる仁義を持ちていものである。
 社交儀礼的付き合いは礼的社会を生む要因で有ろう。魂の交流なき社会とは長興院さんが指摘した様に虚の社会に過ぎなかろう。
 結婚は初婚、再婚を問わず、あなたの運命を
大きく左右する、人生最大の儀式であります
                      小 川 初 恵
 しかし最近は日本女性の結婚観が変わり結婚の条件がよりシビアなものになってきました、結果、全国で二百万人以上の男性が結婚できないでいると言われています。
 平成十二年四月一日、町より結婚相談員という大役を十余三二区の滝嶋大三郎さんと私が委嘱を受けました。二名では大栄町をカバーするには広過ぎます、もう少し人数「各学区一名」を増やして欲しいと言いましたが取りあえず二名でと言われました、「その内人数増やすと言う事で」。
 この世の中男と女しかいません、縁組はすぐ出来るという安易な気持ちでお受けしたものの、いざとなるとなかなかまとまらず足を運ぶ事以外にございまん、そして二名では情報も入らなく成ってしまいました。
 昔は親が結婚相手を決め、それに逆らわず嫁いで行ったが現在はそう言う訳にはいかない、私達が良縁だと思っていても双方うまくいかない。先日も下総町のゆめ牧場で、”ゆめ交流会”が開催されました。男性四十名に対し女性が十七名、女性の数が本当に少ないのです。
 何回も交流会に出席した男性の一言「あれはやらせだ、どこかの会社へ頼んで女性達に来てもらったんだ!」とか。 そう言う言葉を耳にすると何とかパートナーが出来て幸に成ればいいなと一生懸命やっている自分が情けなく成るやらです、ーーーー。
 大勢の相談員、各学区に十名位は欲しいと思います。そして情報をより多く集めて活動をし大栄町に独身者が成るべく少なくなる様に皆なで協力して行く事だと思います。
 この「俺にも言わせろ!」をお読みの読者の方々、結婚適齢期のお子さんを持つ父兄の方々どうか自分の子供の尻を叩いて下さい。『その内何とか成るだろう!』では親の無責任だと思います、早いうちから自立()独立)させてやって下さい。
 幸多かりし事を願って終りとさせて頂きます。

  いただきますの重さ
                    原 茂之
 今、僕の畑で穫れているにんじんは、八月十三日に、種まきをしたものです。にんじんというのは、八月五.六日ごろまでに種をまくと聞きましたが、空梅雨〜日照り続きの夏で、畑はパサパサ。十一日に、待ちに待った雨が降り、畑の湿り具合を見て、十三日に種をまきました。
 そのころ僕は、「種をまいても、種まきの適期から1週間も遅れて、ほとんどものにならないだろうなぁ。それよか、また日照りが続いて、全滅なんてことにも…。」なんて考えて、種まきをやらないで、秋冬のにんじんはあきらめようと思っていました。
 そんなことを、にんじんのベテランに話して、種まき相談をしたら、「蒔けや。種をまかなきゃ、実は絶対にならねぇよ。畑、余ってるんだろ?」
 その後、何とか芽が出て、何とか生きながらえて、ようやく間引き。僕の実家から母親が、えっちらおっちら電車やバスを乗り継いで、二時間かけて畑に来ては、「畑は気持ちいいから、なんか作業するよ。」なんて、ほんとは畑を心配してくれているんでしょうけど、くそ暑いあの炎天下の中、ぎこちなく作業ぼうしやモンペを身につけ、はきなれない地下たびを履き、間引きをやっていました(やってもらったんですけど…)。
 できたにんじんは、小さいものもたくさんあって、立派とよべるものは、少ないんですが、それでも何とか、収穫に至りました。香りも味も、そこそこ、いや、かなりだと思うんですが…、それは、ひいきというものかな。ははは。
 小さいだとか、うまいだとか、こんなことが言えるのも、蒔かぬ種は生えぬという、ベテランの力強い言葉がなければ、なかったんだなぁとしみじみ思います。(母がしてくれた間引きもですが…。)
 ものを食べるとき、命をいただくということを意識しなかったわけではありませんが、田畑をやらせてもらうようになり、種まきから収穫までの畑の様子を目の当たりにするようになったこと、また、いろいろな場面や状況での心の葛藤などの経験から、「いのち」というものをだいぶ実感できるようになったと思います。食べる前の「いただきます」の重さが、今までとは、大きく違います。
 農に携わる前、いわゆる消費者というか、消費のみの生活をしていた頃には、いのちを「実感」するまでには至りませんでした。当時の僕の仲間たちが、そんな実感をしているかどうかはわかりませんが、農作業の体験や、農家の人と話をする機会などは、ほとんどなさそうなので、僕のほうから伝えていこうと思います。
 食の大切さや生命の重さ、私たちが大自然に支えられているということなどを、みんなで意識して生活するようになったら、すばらしい社会になるだろうなと思いますから。


∧編集後記∨
 ご参加を!三月にこの俺にも言わせろ!の言いたい放題の会を計画しています。今回で二〇回を数え、皆さんからの感想や意見、要望などを語り合う場を設けたいと思います。日程については後ほど連絡差し上げます。是非この機会を逃すことなくご参加下さい。
 今回は前婦人会長であり結婚相談員になられた小川さんが書いてくれました。地球上のほとんどの生き物は結婚します。そして花を咲かせ、空を飛び回り、この緑の地球、美しい自然環境を作り上げます。私達人間もその一員です。そして人間だけが文化を持っています。その文化が破壊へ向かうことになったり、心のない関係になっていくとしたらどうなるのでしょうか。そういうことを常連の皆さんが問題提起していると思います。   高柳・記

俺にも言わせろ! 第十九回無限塾
二〇〇一年十二月二十二日長興院

 知り馬鹿知らず馬鹿「その十五」
       藤田 長男
 年の瀬も迫り、ジングルベルの音を聞きながら今年も暗いニューズで明け暮れると思いきや、皇太子妃雅子様のお姫様誕生のニュースが流れ日本中がおめでた一色に染まった。国民皆が心から祝ったろう。自分の子どもができたときよりも嬉しいような錯覚すら覚える。それ程誰もが長く待ち望んだご誕生であったと言うことだろう。
 暗い時節、人の世も又捨て難きともなろう。お姫様誕生となると早々にお世継ぎ話が一人歩きを始める。世の野郎共にとっては女性天皇は大歓迎と云う処だべ。かって大和の国は天照皇大神なる女性天皇から始まったとも聞いているのだ。些かの反対もござらぬと云う処だべ。
 イギリスの女王様よろしく、雅子天皇様が誕生したならば、ていへんな構造改革を小泉首相が突いたり引いたり、百人切りに苦慮しているが、雅子天皇の一声で、あれよあれよと進んで仕舞うかもしれねえぞ! 族議員の奴らも寝返りを打ってしまうだろう。女は魔性の神通力があるでよう。わしばかりじゃねえ、どんな偉い奴らでも母ちゃんにはかなわねえからのう、やっぱ女は綺麗で可愛くちゃあいけねえ。野郎共が寄ってくるようにちゃんと神さまがそう作って下さったのだでよ。
 野の花も同じだ、花は切り花に切ってもらいたくて咲くのじゃねえ。ガーデニングに使うために綺麗に咲いているいるのじゃねえ、虫達の為に一生懸命可憐に咲くのだべ。自然界の法則に照らせば、女は天女の様に魅力的に作られたはずだろう。まあ多少の失敗作はあるだろうが?
 犬は三里先のメスの臭いを嗅ぎ分けると年寄り達から聞かされた覚えがある。人も又一昔前には三里先の女の性を嗅ぎ分け通った事だろう。今は隣で屁をこかれてもわからねえ程鼻が馬鹿になってしまった。女共も又三里先へ届く程の香しき体臭を失ってしまった。全くもったいねえ話しだべ。
 雅子天皇が誕生したなれば、社会に波動が巻き起こるかも知れねえぞ!ヤアさん達は、あっしらはもう足を洗わしてもらいます”てな案配で拳銃をみんなで献上し始める事だろうぜ、薬を売っているバイヤー連中も世の中の嫌われもんにゃあなりたくねえもんで、と言い出して薬を積んだトラックで皇居前が一杯になっちまうかも知れねえぞ”てえへんだ、何処の国さ輸出しべえか?間違ってもネギや米とでも交換すべえか、等と云う段取りだけは取らねえでもれえてえもんだ。追って詐欺や泥棒も姿を消し、不倫や人殺しもなくなり、おまけに不登校やイジメ等も飛んでいっちまう様な神通力にありつきてえものだで、そんな正夢をせめて見せて貰いてえ、と下々の者どもが願うておるのでごぜえまする・・・・・・・雅子天皇様”
 雅子フィーバーだ、お姫様だともてはやされている日本の女性達はなんと幸せな分際だろう。それにつけても頭からプルカという布を被せられ、顔すら出せねえ可愛そうな女達、この温度差は何だべか。そのイスラム原理主義の戒律にゃあオッたまげた恐ろしさを感じる。宗教とは洗脳することにより成り立つ論理なのだが、斜傾した宗教ほど恐ろしいものはねえ。日本にもオウムという同じような集団があるが人事ではねえ恐ろしさが蘇るのだ。そのプルカの下には彫りの深い清閑なイスラムの仏様のような美しい顔が隠されているのだ。何ともったいねえ話しだべ。
 比べりゃあ、日本のおなごは共は穴毛の見える程大根足をひん出し、靴下をずり下げ、ヘソをひん出して町中を泳いでいる。表現の自由だ!個性だ!ファッションだ!と銭儲けの尻車に乗せられて自分自身を失い、性犯罪も多様化し国際化?しつつある。元々色好みな野郎共は見ねえ振りしながらとっくり眺めているのだべ。自分の娘にゃあみんなみっともねえかっこさせたくねえと考え乍らだべ。人様のガキだからマジでやめさせようとする奴もいねえだ。
 がしかし、わしらのガキの頃は、女は足の踵をかくして着物を着るものだ”等という事を聞いて育ったような気がする。「テレビを見るな、麻雀をするな、男女を共にするな、女は体を見せるな、泥棒をした奴は手をぶった切るぞ、」これが恐ろしきイスラム原理主義の戒律なのだが、何とこんな恐ろしき戒律が今必要なのは、むしろわしらのお国じゃねえかよう”ちっとは考えねえといけねえじゃねえのかよう。
テロ・戦争に思うこと
       ー日本の役割を考えるー
                         無着成恭
  一、和をもって尊しとなす
 私は、敗戦後の昭和二十三年から六年間、山形県の山村で中学校の教師をしていました。その時情熱を込めて教えたことの一つが「新しい憲法のはなし」でした。
 そのあと私は、駒沢大学で仏教を勉強しました。大学卒業後は、国家の教育に対してアンチテーゼを出すことができる学校はないものかと思っていたところへ、大正デモクラシーの流れの中で創設された明星学園で教師になることができました。その頃私は、犬や猫(ヒト以外の生き物)は宗教は持たなくとも良いのに、なぜヒトだけは宗教を持たねばならないのか・・・位は子ども達にきちんと教えておかないといけないと考えていました。
 だから国語の時間には、必ず「宗」という漢字のでき方だとか意味を説明しました。その上で、国家を始めとして、一つの集団、一かたまりの社会をまとめてゆくとき、どうしても広い意味での宗教・信念が必要になってくる、というようなことも、全ての教え子たちに話しました。その時信じているもの、信じる対象が宗教とはとても言えないとしても、少なくとも何かを信じていなければ一つの集団としては成り立たない、などと言うことも話しました。
 その上で、日本がもし仏教国だと言えるとしたら、それは聖徳太子ののおかげだと思う、というようなことも教え子達に話しました。それまで日本には、氏神様という形で社会(共同体)をまとめてゆく宗教があったのですが、平和の内に安心と幸福が実現できる宗教は仏教であるということを日本人に最初に示したのが聖徳太子だと言っていいだろう、というふうにです。
 その仏教は、奈良時代や平安時代には貴族たちの宗教でしかなかったけれども、法然上人がでてきて、仏教を一人一人のいわばピラミッドの底辺の者たちを救うものだと展開した、と言うことも話しました。それがあって鎌倉時代の親鸞上人とか道元禅師とか日蓮上人の大活躍が始まっただろう、ということも。
 仏教の根本にある考え方は、聖徳太子の十七条の憲法、第一条「和を持って尊しとなす」につきるでしょう。それがこの日本国憲法第九条に結実したと言っていいと思います・・ということも話しました。
 だから、その事を納得させるために、仏教では「絶対者としての天地創造の神」という物を措定しない、とか、この宇宙には始まりも終わりもなく、ただそれ自身の摂理・法(ダンマ)に従って永遠の消滅を繰り返すものだと認識することだ、とか、だから正義だとか大儀というのは人間の側にはなくて、大自然の摂理の側にあると考えているとか、戦争に正しい戦争とか、聖戦とかはなくて、全ての欲と愚かさが戦争をさせるのだ、とか、そうなるにはそうなるだけの訳があって、わけのないことは一つもないんだ、とか・・・そういうことを、子ども達におりにふれて話してきました。
 ホトケ様は戦争をしないのです。戦争は全て神様を振りかざしてするのです。それで明治以後の日本は、天皇陛下を絶対神と決めて、それを国民に押しつけないと軍国主義教育が成り立たなかったのだと教えました。これが宗教教育の恐ろしいところなのです。
 本当は、ホトケさまはもちろんのこと、神さまだって、信じる人々の平和と幸福と安心を願っているのです。神さまのために戦うなんてウソなんです。権力者は神さまの名を騙って戦争させているんです。 ー以上の様なことを、三十三年間の教師生活の中で、いつも話していたからかも知れません。九月十一日以後、私のところに来る教え子からの手紙には、皆、必ず「ブッシュの戦争」に触れていない人がいないのです。
  二、「テロは本当に悪いのでしょうか」
 教え子からの手紙の中に、「先生にちょっと聞きたいのですが、テロは本当の悪いのでしょうか」というのがありました。
 この教え子は、私がいつか、大石内蔵助をリーダーとする四十七士の「忠臣蔵」を英語に訳すと、「“四十七人のテロリスト”となる」と話したことを覚えていて、このような質問をしたのだと思います。
 この質問に対する私の答えは、「結論だけ言えば、悪い」です。しかし四十七士の場合は、ケンカ両成敗という原則に則さなかった政治に対する憤りを一点に絞って、それ以上他人を傷つけまいと配慮した上で決行され、完了したあとは潔く縛についたし、裁きに応じたため、悪感情をもたれていないのだと思います。けれども九月十一日のテロは、一般の乗客を乗せたまま、ビルに突っ込み、ビルの中にいた何千人という市民を道づれにして自爆したのだから、これは「最悪の悪」といってもいいでしょうね。
 しかし仏教では「そうなるにはなるだけのわけがある」と教えていますから、なぜそういうテロ活動が起きたのかということを、アメリカは頭を冷やして考えるべきだと思います。それなのに逆上して「報復」を叫んだり、報復戦争を始めてしまった今は、テロリストと共に、それと対決してテロ以上の暴力を振るうアメリカは、テロリスト以上の「悪」ということになってしまうでしょうね。
 国家対国家の戦争の場合は、例えば原爆は使わない、とか、その他いろいろなルールがありますが、テロ集団の場合はルールを無視します。だって、テロをおこす方は必ず弱者ですから。テロの場合、攻撃される方は強者で、攻撃する方は、強者からとことん痛めつけられ奪いつくされ、もはや失うものは生命以外なくなったという弱者ですからね。そして、もう生命さえ惜しくはないというところまで追いつめられている人達ですから、何をするかわかりません。だから、今度の場合はアメリカが深く冷静に考えて対処しなければ、人類は滅亡の坂を転げ落ちるでしょう。
 ーそんなことを、教え子への質問の答えとして、書いてやったのでした。
  三、正義はどこにあるのか。
 事件の直後、アメリカのブッシュ大統領は「これは全人類に対する戦争であり、文明社会に対する挑戦である」とか、「テロの側につくか、アメリカの側につくか、中立はない」と言って、また日本の小泉首相もそれに同調して「アメリカの役に立つことなら何でもします」と言うようなことを言っていますが、本当にそれでいいんでしょうか?・・・と書いてよこした教え子もいました。
 私は、それには、アメリカが犯人だと言っているビンラディンもタリバンも、もちろんアフガニスタン人も、人類なのであり、アメリカ人と同じ人間なんだ、と言う認識から出発しないと判断に間違いが起きると思います。だから、日本は仏教の立場で、中立的に正しい判断を下す必要があると思います。
 例えば道元禅師は、「仏道を習うというは自己を習うなり。自己をならうというは自己を忘れるるなり。自己を忘るるというは万法に証せらるるなり。」と言っており、また親鸞上人は「自然法爾」と言っています。どちらも「自分が正しい」などと言うことはない。正義も真理も万法、自然法爾の中に証明されるのであって、人間の側にはないのだということです。その事を小泉首相はブッシュ大統領に言わなければいけないのです。
 「ブッシュさん。あなたが正義を振りかざせば、人類を滅亡させることになりますよ」くらいのことを言わなければ日本は独立国家とは言えないと思いますーと、返事を書いてやったのでした・
  四、日本の役割
 手紙を紹介させていただきます。まずは一通。
 「同時多発テロには本当に胸が凍るような想いを致しました。世界はここまで不信感と憎しみに満ちているのかと思うと絶望的です。しかし、被害者の一人の父親が『もうこれ以上報復しないで欲しい。亡くなった子供達のためにもこれ以上犠牲者を作らないで欲しい』と発言したというニュースを聞き、被害を受けたその方が恨みへと向かわず、大切なことは何か、を皆の中で問い始めていることに人間への希望を感じます。宗教と宗教が争うくらいおかしなことはないと思います。人間の造った正義の名のもとに戦争することくらい愚かなことはないと思います。」
 もう一通は、「十月二十一日の朝日新聞によると、二十日ΑΡΕC出席のため上海に行った小泉首相はブッシュ大統領との会談で『自衛隊に役割を与えることにつき国民の理解を得つつある』と述べて米軍への後方支援の姿勢を示したが、ブッシュ大統領はこれに謝意を述べつつも『アフガニスタンの復興の努力にはぜひ日本に参加して欲しい。日本はカンボジア和平での成功の経験を持つので、、、、、』と言った。小泉首相はそれに対しては何も言わず、最後に『自衛隊は物資や輸送などの面で米軍に協力していきたい』と言っただけなのには失望した。」と言うものでした。
 そこで小泉さん。日本を代表してブッシュさんに言ってください。「アフガニスタンは、玄奘三蔵法師が通過していた頃は穏やかなよい国だったのです。それが内戦に明け暮れるようになったのは、冷戦時代、アメリカとソビエトがそれぞれ自分に都合のいいように利用したからですよ。国連難民高等弁務官カブール事務所の山本芳幸氏が書いた『戦争しか知らない子ども達』(幻冬社)を読むように」ーと。


    聖   域
                      宮 下 陽 祐
 今年の流行語に「聖域なき構造改革」という、言葉があがっていた。その年の流行語というのは、社会世相や社会心理をついていて中々面白い、軽薄なもの、なるほどと思うもの、残しておきたいもの、早く消し去りたいものなどが並ぶ。そこでこの、聖域なき構造改革であるが、聖域とは、聖人の境地、神聖な地域、おかしてはならない区域、比喩的には、手を触れない分野とある。もしこの言葉の通りだとしたら、構造改革してはならない場所である。およそ人間の領域ではない場所のことである。ただ比喩として手を触れない分野とある。
 小泉氏は政治家が今まで手も口も触れなかった分野の構造改革をするというのである。何故誰でもわかっていることをくだくだ申したかといえば、ここの所が大切だ。 皇居や天皇のことなら聖域発言もママよいが、改革する場所が明確にされた。
 特殊法人である。政治家が聖域とよぶ場所が明確になったのである。 そんなことは誰でも知っていて今更何をといわれるだろう。しかし日本の憲法下三権分立の基本的精神のどこに聖域なる場所が生まれてしまうのだろうか、国会も、代議士も、裁判官も聖域にいる聖人であるはずだ、しかし残念なことに既得権とそれに群がる政治家と官僚の天下った場所を聖域と呼んでいるのである。
 優秀な官僚はオリコウさんである、自分たち定年後の居場所を確保し財を得るために、自分たちだけが財を横取りすることは必ず国会に於いて否決されてしまう、そこで決定権を持つ国会議員を抱き込むことによってそれを、完全なものにした。特に財政投融資という特別な巨大な金を分配する、戦後はこの制度が日本の復興の力であったことは言うまでもない、しかし何時の間にか聖域となり官僚や政治家、そして業者の悪の温床となってしまった。
 国民の預貯金や年金を運用して利息をつけて返済する約束がある。財投である。その運用や返済が出来なくなってきて低金利時代になった、さらにバブル経済にあおられて踊ってしまった銀行や企業は悪化の一途である、銀行を破綻させてならじと、貸し付け金利は高く、支払い金利は最低にして、銀行が儲かるようになっている。
 郵便局で桜田から来たばぁちゃんが局員に噛み付いていた、利息が安くてバス代を払ったら赤字だ、貯金したら損したというのである。おらァもゥ貯金なんかしねーってボヤいていた、庶民がこれだけの状況にあるのに、聖域?に居座る連中は何処吹く風である。
 何れにしても、聖域を改革出来るのは、我々の選んだ代議士である。官僚が抵抗するのならわかるが、政治家が抵抗している、こんな政治家を代表にしないしかないのである。
 よく考えれば誰の責任でもない、いい加減に選挙に臨んできた我々自身の責任である。今農林漁業を始め中小企業の人々は瀕死の状況にある。庶民の生きがいである酒やビール、たばこ、等など又税金をかける計画があるようだ、八十兆円の予算、五十兆円の税金、その内二十兆円の国債返済、使える金は三十兆円だから五十兆円は足りない、足りない分は赤字国債を発行する。しかし三十兆円しか発行しないという二十兆円はどこから持ってくるのかよく解らない。国際的信用を失う要因もこの辺にある。
 アフガンのイスラム原理主義のアメリカに対するテロ事件には驚いたが、この報復もすざましい、一応収まりつつあるあるように見えるが根の深い問題である。世界の富がアメリカに集中しはじめていることは、これからますます貧富の差はもっと激しくなり、窮鼠ネコを食む的になるような気がする。キリスト文明とイスラム文明の衝突が始まったという人がいて、仏教ではどう考えるなどとインテリーぶって質問する人がいる。
 文明は決して衝突などしない、衝突ということは、文化や宗教の本質を見誤り、人間の愚かな行為を正当化させることである。と答えている。聖戦という言葉も日本人にとっては、忘れられない言葉である。自衛隊を派遣させることが、正しいことであろうか。
 恨みや憎しみは、恨みや憎しみをもって反撃しているうちは、決して止むことはない。恨みや憎しみを止めなければ、争いは続くといったのはお釈迦さまである。誰だって痛い目なあうことや殺される事は嫌いだ。自分の身に引き当てて考えてごらん、ともいっている。恨みや憎しみに対する反撃に協力することは、考えものだ。テロが起こらない社会構築に努力するべきだ、テロは許してはいけないがイスラエルとパレスチナの問題もアメリカ側からだけ見ていたのでは、解決策はみえない。
 我々は何時の間にか自分のなかにも聖域をもうけて、その物差しで損得を計っていないだろうか、聖域は公平だから神聖なのだが、、、、、。 皆様が本当の意味で幸せでありますようにお祈りいたします。

  師走になりました
                     原 茂之
 二〇〇一年も最後の月になりました。この一年も無事に過ごせてこられたこと、新年を迎えることができそうなことに、何より感謝したいと思います。直接的に、あるいは間接的に、ものすごく多くの人に、たくさんお世話になり、迷惑をかけながら、勉強させていただきました。
二〇〇一年もの間、人は、他の多くの生命、大地・自然、地球という一つの大きな生命に支えられながら、生まれ、土に還り、伝え、受け継ぎ、この世は続いてきたんですね。
 僕は、一九七〇年目に生まれ、いつ土に還るかわかりませんが、精神的なこと、生活に必要なことなど、受け継いでいる(学んでいる)ところです。
 今年、僕はとてもうれしかったことがあります。この前の冬には、さっぱりだったネギ、キャベツ、ブロッコリー、カブ、ゴボウが、この冬は収穫に至りました。もっとも、ベテラン農家の方に、種のまき方から、苗の管理のしかた、除草のタイミング、ムシ対策の方法など、事細かに教えていただいたからこそなんですが。
 世間では、残念なことが多くあった一年だったと思います。
 テロに対する報復と称し、じゃんじゃん爆撃をしていると報じられていますが、人同士のいがみ合いに、他の生き物、大地・自然を巻き込むのは、まずいと思います。人を支えてくれているものに、そんな仕打ちをしていると、人はますます嫌われてしまうような気がします。
 また、経済という名の戦争も続いていますよね。開発と称し、加減なく他の生命を滅し、大地・自然を破壊し、時には、無関係の人(民族・部族)を巻き込んで(利用して)いることは、やはり悲しいことではないかと思います。
 二十一世紀は、共生の時代、こころの時代などの言葉が、年初によく見かけられました。そのような時代になるように…と思うだけでなく、そのような時代にしていくんだと、主体性をもって、行動しようと思います。思いつつも、生活の基盤もできていない僕は、田畑に一生懸命になるしかないんですが…。
 何はともあれ、今年一年、ありがとうございました。感謝です。

                     
 国産大豆を作ろう
      高柳 功
 こんな表題もおかしいと思うのだが敢えて使いたい。大豆を作ろうだけで充分かも知れないが、最近は遺伝子組み替え大豆と言うものができてからと言うものの信用できない。
 一つは、種そのものが遺伝子組み替えに汚染される恐れがあるからだ。種は外国で作られるものが多くなっているが、この国にだって在来の大豆の種がある。そう意味を込めて敢えて、ということなのだ。
 味噌を自分で作るとは言っても、その主原料である大豆は外国産が多い。なぜならば価格が安いと言うことと国産大豆が何処で売られているのかわからないこといったことらしい。つまり、種子が国産=在来種であってなおかつこの国で栽培されたものが国産と言える、と私なりに理解しているから、表題のような表現になる。
 ちと小難しい話しになってしまったが、それだけ私達の食は複雑なものとなってしまっていると言うことになる。
 大豆のことで言えば九〇%が輸入になってしまっている。日本子孫基金や日本消費者連盟の報告によればアメリカ産の大豆の四〇%は遺伝子組み替えが混入されてしまっているという。大豆だけでなくトウモロコシも同じく遺伝子組み替えに汚染が広まっているという。
 遺伝子組み替え作物については安全説と安全とは言えない説があり、アメリカ、カナダ等輸出国は安全説を採っている、欧州は慎重で今でも論争している。日本は言わずがなもので、アメリカの言いなりの国だからゆえ安全説の国になっている。
 私はというと、否定組である。単に農家だからと言うのではない。狂牛病のように、これまでの国の言う安全が信用できないからだ。エイズ問題にしても同じ。O157だって十五年前にアメリカで発見されその対策を怠っていた。狂牛病も十五年前には安全ということだった。
 さらに、日本では禁止されていた農薬を添加物と言う分類にし、WTOの為として許される物質にしてしまった。そんなことがあっていいとは思えない。
 イタイイタイ病から始まって、水俣病、そしてトリクロロエチレン、ダイオキシン、と言ったものも最初は安全ということだった。これら全てとは言わないがその多くに対し、安全宣言してきたのは国だった。
 遺伝子組み替え作物の安全と言うが、これから二十年くらいの人体実験のあとでどうなるか。これはわからない。安全の根拠の多くは開発した側の資料であり、公平とは言えない。
 最近のニューズウィーク紙に寄れば、WHO(国連保健機構)とFAO(国連食糧農業機関)が共同で設立したコーデックス委員会が食品の安全性に関する国際基準を定めている。がその中立性に疑問視する声がある、という。コーデックス委員会の意志決定には大企業が深く関与していた。アメリカ代表団の半数は多国籍企業の関係者であり、世界最大手の食品会社ネスレは大半の国より多くの代表を参加させていた。「自分達の製品の安全性を自分達で判断している。詐欺のようなものだ」とテムズ・バリー大学のラングは言う。・・・12/19ニューズウィーク誌から
 そんなことからこれからは自分の安全は自分で守る位の意識がないとどうなるか判ったものでない。はっきりしているのは食のルーツや流通が不明であること、国は責任をとらないということだ。
 そんなことで、大豆の遺伝子組み替えがこの国に入り始めたと聞いてから作り始め、今年で三年目になる。房州の小糸地域で作られてきた品種で、これが結構いい。でその大豆を原料にして今年も味噌を作った。手前味噌である。
 種の入り用の方は連絡下さい。在庫の範囲でお分けします。


 子どもは誰でも大人になれるのか?(要約)
                      無着 成恭
一、子どもの本質
  子どもは誰でも自己中心的なものの見方、感じ方、考え方に基づ  いて行動するものである。
・ボクは何もしてないのにいじめられた?
二、大人とは?
  万物全て平等であり、自分も万法の中の一因子に過ぎない事を知  っている人のことである。正義とか大儀とか、或いは真理という  ものは、人間の側にあるのではなく自然の摂理の中にあること   を知っている人のことである。
三、子どもを大人にすることを、子どもの社会化という。
  大人が子どもをどのように仕立てるかをイメージすること、そ  の上で
@しつける(あいさつの仕方、掃除の仕方、ご飯の食べ方)
Aしこむ(そのとき、しかる、しごく、手を添えて教える)
Bしあげる(一人前の大人として仕事ができる)
  の三段階があり
  とうとう仕上がらない大人のことを半端者という。
四、人は生まれたときから人間か?(人格の形成と言うこと)
@ヒトは犬や猫と同じ哺乳動物の一種として生まれる。従って、万物  平等の生命の尊厳さを具有している。しかし、人間としての資格  はない。
A動物としてのヒトが人間としての資格(人格)を獲得する為にはそ  れなりの手つづきが必要となる。  それは、ヒトと他の一切の  生き物との欲望のあり方が違うからである。 
↑人間としての資格を持つ
Bヒト=イヌ、ネコ、ウシ・・・畜生  畜生は中立的な存在
 ↓餓鬼になる
五,国家が支配する学校教育では、
@子どもが大人になれない。
Aヒトが人間になれない
  その訳は、経済主義社会では生きる上での技術と知識を授けるこ とに狂奔するからである。
        (これは無着先生の講演のレジメです。)

∧編集後記∨
 2001年、二十一世紀の始めの年なのに不安と不信が国内だけでなく世界的に深まった年であったように思います。
 科学の進歩が、その成果である物質の豊かさ、利便性の向上の裏側で大気、水、大地への汚染が進行し、かつ大量の廃棄物が処理しきれないほどになっています。
そしてテロと戦争となると二十一世紀はどうなるのか、不安を覚えます。今日届いた手紙には、テロに空爆とについて・・・ガンジーの非暴力思想を引き合いに出すまでもなく、暴力に暴力で応戦していたのでは平和を実現できません、と。
 今年、この俺にも言わせろ!は都合八回を数えました。来年も継続の予定です。読者の皆さんの異論や意見を求めたい、と思っています。
どうか長いお付き合いとなりましょうが、今後ともよろしくお願いいたします。 よいお年を!
                       (高柳・記)

俺にも言わせろ!第十八号 無限塾
         二〇〇一年十一月十八日長興院にて
1,知り馬鹿知らず馬鹿その14  藤田長男
2,現実は自己の問題        宮下陽祐

4,大栄町で暮らして初めてわかったこと  原 茂之
5,私のインターネット仲間から   高柳 功
〔知り馬鹿知らず馬鹿・その十四〕    
    藤 田 長 男
  窓から入るのはスズメか泥棒と決まっていたのだが、ジェット機まで入ってきたんじゃあやりようがねえだろう。ドイツの鍵は優秀だと聞くがジェット機が入れねえような鍵はねえだろう。バイ菌は殺すものだろう、増やしてばらまいてはしょうがねえだろう、困ったものだ。
 はたまた狂牛病などというやつは海の向こうの話しと思いきや、隣の村まで来ていたとは驚きだべ。どおりで家のばあちゃんもうつってしまったようで、頭の中にスが入っちまったらしく、夜中に起き出してカタコト飯を食っているのだ。焼却されてしまいそうなので大きな声じゃあ言えねえが、わしの頭の中にもスが入り始めた様じゃよ。
 困ったことばかりが続く昨今じゃが、わしにとってはビッグな出来事もあるだでよ、三十年来兄貴と慕ってきた佐藤籐三郎さんから電話がかかってきたのじゃ。成田の方へ仕事で行くことになったので、ぜひ会いたいとの話しだ。山形テレビのふるさと探訪、という番組の収録で無着先生と対談する事になり、一鍬田の福泉寺に来るというのだ。
 わしの方は梨収穫の真っ最中だったのだが、願ってもないことです、ということで駆けつけることとなった。約束より一時間ばかり早く出向いたので収録最中に玄関を叩いてしまったのだが 、どうぞどうぞと言うことでカメラに写らねえ死角で対談に立ち会うこととなった。テーブルを挟みお茶を啜りながらの和やかな対談風景である。
 司会者の質問に答えながらの対談形式進められていた、、、要は山びこ学校当時を振り返りながら、現代教育の在り方を模索しようと言う発想なのだろうけれど、このつわ者どもはそう簡単に番組の筋書き通りにはなかなか話しは進まねえという処のようだ。まして無着先生の持ち前の下ネタ話しがちょいちょい飛び出すのだからカットカットの連続だ。十五分くらい撮ると休憩にはいるのだが、無着先生がテーブルの下から缶ビールを取り出し茶飲み茶碗にとくとくと注いでいるのだ。。
 なんだこりゃ様ぶったまげたたべ、どおりで茶碗の回りに白い泡が垂れていたのだ。何も知らねえわしは、さすが無着先生だ茶道のたしなみもおありなのだなあ!と感心して見ていたのだがまんまとしてやられたと言うところだ。”こともあろうに日本の教育がどうのこうのと論じ合っている最中なのである。オイオイ日本の教育は大丈夫かよう!”と側で眺めているわしの方が心配になっちまうのだ。  まあ、テレビ撮りには慣れっこになっている二人である。無着先生らしい演出だ。籐三郎さんはどっちかと言えば立て板に水の部類ではねえむしろ節コブだらけの洗濯板に布が引っ掛かって前に進めねえ様なボソリボソリ型タイプだ。多少は泡の立ったお茶の方が滑りがよいと言う処だろう。
 お互いに手持ちの駒の裏表を知り尽くしての対談である。目をひんむいて口から泡を飛ばしながらという対談にやあならねえ、聞いているわしの方は拍子抜けだ。ましてわしだけが正気なのだでよう。”
 何はともあれ一番面白かった場面は、籐三郎さんがぶっ切れてしまったことだ。教育談義も一通り終わりかけた頃司会者に、『これからはあなた方若い人らが頑張ってやってくださいよ』と話を振ったところ、急に振られたので『いやいや私達にはできません』と答えてしまった。普段は温厚な籐三郎さんが突然怒り出してしまった。『何ができないんだ!何のためにこの収録をやってんだ。そういう若者の態度が一番俺はムカツクんだ。年老いた無着先生や俺達に全てを押しつけて置けば済むというのか!、、、、、』スタッフ達が興ざめしてシュンとしてしまった。側でわしがにたついて見ていたものだから、『藤田さん面白いでしょ?』と。わしに振ってきたのでつい『やあやあ本番より こっちの方の対談の方がよっぽどおもしれえや!』と本音を吐いてしまい、みんなで笑った。
 そんなこんなで気を取り直して何とか収録は完了した。『終わったぞ!飯食いに行こうや』と無着先生が人数を数え始めたのでわしは辞退したのだが、『天下のNHK様が飯代払うのだから藤田さん遠慮するなよ』と尻を押してくれたのでおじゃま虫と決め込んだ。
 と言う成り行きで、梨と一緒にこの貴重品の二人を詰め込んでワイトワイトと多古町へと繰り出した。無着先生の馴染みの寿司屋のよし子ちゃんの手料理に舌鼓をうちながら生ビールで乾杯だ。腹が空いているせいもあろうが腹の虫がでんぐり返るほどうめえ!まして二人の巨匠をお相手にNHK様のガマグチを当てにして飲んでいるのだから、まさに天から降ってきたぼた餅と言う処だべ。
 多古町へ来て飯を食うとなればおのずと米談義だ。わしらはうめえ米と言えば頭からコシヒカリと思いきや、山形には土地のうめえ米があるという。『百姓だから意地になって堆肥を突っ込んで米つくりをばやっちょる』と笑う。あるスタッフが、『この間コシヒカリを買ったら袋の隅に小さな字でブレンド米と書いてあった』、と言いだした。『そりゃそうだべ、詐欺まがいの仕事だ、大きく書く馬鹿はいねえだろう』、と大笑いした。
 なんだかんだと騒いでいるうちに『日本の稲作をダメにした奴は結局の処、米屋じゃねえか!』等ととんでもねえ処へとばっちりが行ってしまったので米談義はおしめえだ。丁度籐三郎さんが帰りの電車時間になっちまったので急いで寺に戻り山門からの別れ場面の収録に入った。大きな背中をゆすりながら手を振り帰ってゆく後ろ姿を見ていたら、ふと日本の農業を背負って帰っちまう様な錯覚にとらわれてチッコイ目ん玉がうるんじまった。しょうがねえから早々に山門をくぐり抜け、車の窓を大きく開けて涙が零れないように296号を吹っ飛ばして本業に戻った。生涯にねえいい一日だべ、わしにとりゃあのうーーーーー。
 一升ぶら下げて会いに行きてい、と書いてくれた藤田さんの手紙は忘れねえよ!『今日は俺がぶら下げてきたよ、藤田さん呑んでくれえ 』と山形の「男山」という地酒を差し出されてしまった。全く気のいい兄きだべ、誰にも呑ませねえで今夜もまた一升瓶を抱きかかえチビリチビリと舐めているのだが、アフガン難民の子ども達を見ていると辛酒がやけに苦味を増してきやがる。
 人類は本当に兄弟なんだろうかのうーーー。 
 ひんやりと秋風が通り抜けらあなーーーーーEND

   〔現実は自己の問題〕
                        宮 下 陽 祐
 アフガニスタンの北部同盟がタリバンの本拠地カブールを制圧したと報じている。一方 ニューヨークで旅客機が墜落と報じた。又かと一瞬思ったが事故らしい、アメリカの同時多発テロ事件以来、大きな事故が起こると関連させてしまう、疑いを持つと人間関係までも疑いの範疇に入ってしまう、これが又人権問題や民族紛争を生む。
 世界では民族間の紛争には往々にして宗教が絡んでいることが多い、平和をもたらす筈の宗教が戦争の原因になっている。こうしたことは誰でも知っている。日本も曽我氏と物部氏の戦いがやや似ている。聖徳太子はこれを仏教による憲法で治めたことは学校で習ったはずである。以来幕府が絶対権力を持ったり、天皇を神とする歴史の変遷を経て平和の持つ意味がなんであるのかをまだ自己のものとしないうちに、物質文明、或いはお金社会が平和だと思い戦争がなければ平和だと思ってきた、平和ボケ日本といわれるのである。
 だから今度のアフガンの問題も大きな関心事にはなっていない、関心事は経済や景気の問題だけである。アフガンの問題は大国の覇権主義を宗教問題に絡めている部分が多い、だからといつてテロによって自己主張をすることは許されない。 しかしこのような悲惨な事件が我々の関心事となるためには、不幸がまさしく「我々」の事であるという認識こそが必要だ、「我々」とは日本人のことではない、この地球上に暮らす全人類のことである。アフリカで現在猛威を振るっているHIVの問題、食料不足に悩む難民の問題、近いところでは、ラオス、ミャンマー、北朝鮮、東ティモウル等など、それに今回の事件の遠因となっているイスラエルとパレスチナ問題などと世界各地には紛争や難問が山積している。
 いよいよ国連の果たす役割が大切なのだが、これも又大国の利害得失の勘定が働いてうまく機能しない。大国でもない、そして宗教的には一神教でもない日本は自衛隊を海外派遣するよりも貢献できることはあるはずである。
 外務省のごたごたを見ていて腹が立つ。官僚との内部問題も多くはODAの資金ばらまき問題に政治屋が絡んでいるからだとも言われている。権力と金の問題が事の解決を難しくする。全人類の立場にたって考えられるのは宗教だが、一神教の世界では改宗させて一つの信教とさせたいという面がある、これでは宗教的帝国主義である。
 二十一世紀はこころの時代といわれる、これには宗教間の協力が必要だ、教義や世界観や人間観についてお互いに理解を深めなければならない、もう自分だけよければよい、という時代は終わったのである。科学と神の思し召しの対立の破綻も近づいている。
 1903年にライト兄弟が飛行機を飛ばして始まった二十世紀は破壊と創造の世紀であったがその功罪ははかり知れないものがある。人間の欲望を完全解放してしまい、欲望の解放は人類を破綻に導くと考えてきた先哲の教えを完全否定してしまった。
 何をしてはいけないのか、何をしてしまったのか、何をしなければいけないのか、何をし続けなければいけないのかを考え、行動しなければならない時期にきた。
 今日も学校からこども達の大きな笑い声が聞こえる。この子どもたちの笑い声を絶やさないためにも、自分だけの幸せなんてないのです。庭の菊も人間社会のことなどを余所に今を咲いている。この秋は、愛知県、北海道、北陸方面と約四十七日も出掛けていた。
 そこで感じたことは、大栄町はなんと豊かなのだろうかということである。今日本各地の農村は破綻寸前である。労働人口の激減と高齢化、それに伴う農地の荒廃、捨て去られてゆく牧場や牧草地、人出の入らなくなった山林、猪、猿、鹿、カラスやその他の野鳥にあらされる果物畑等恐ろしい光景でした。それに人口が十分の一になってしまった北海道の空知地区などは、又かっての原野に戻りそうなところもありました。
 炭鉱の栄えた時代に栄えた町は、今はありません。松食虫が栄華を極め松を枯らしてしまい、松食虫が死に絶えたようにも見えました。只一つどこの地方も「そば」を大変多く作っていることでした、石川県、北海道など見渡すかぎり、そば、でした。
 又海のある地方は、さけ、の豊漁に泣いていました、でもスーパーには外国の魚介類が山積みです。野菜も、韓国、中国、ロシア、タイ、フィリッピン、インドネシア、台湾、ブラジル、オーストラリャ等などのものなど大変なものです。これを豊かというのでしょうか?。
 五十兆円の収入で二十兆円の返済で八十数兆の予算、これで赤字国債を発行しないというトリック予算は辻褄合わせだけで中身は破綻、いい加減にして欲しいものである。
 自分たちの食物だけは、安い、高いに関係なく自分たちの国で作り出したいものである。
 そうしたって、足りない国が多くあるのだ、作れるのに作らせない農政を「ノー政」と言うのでしょうか。NO政を選んだのは国民だが、骨抜き国民を作ってきたのは官僚であることだけは肝に銘ずべきである。

〈大栄町で暮らし始めて、知ったこと〉
                           原 茂之
 僕は、東京で生まれ、勤め人を父に持つ家庭で、川崎市、千葉市、沼南町と移り住み、社会人(会社人?)となってからは、鎌ヶ谷市で暮らし、昨年5月より、ここ大栄町に移ってまいりました。
 大栄町での生活の前は、田畑や自然に接することも少なく、農家の方のお話を聴く機会もほとんどないという生活でした。
 だからというわけではないかもしれませんが、これらを踏まえて、お読みいただけたらと思います。(自分の無知・恥をさらすようなものですが…)
 「渋がきはホントに渋い」
 渋がきという言葉は、聞いたことがありましたが、食べたのは初めてでした。ホントに渋いんですね。とても食べられないほどに。その渋がきを、軒下に干しておいて、干し柿にすると、あんなに甘くなるのは、今でも不思議です。
 「落花生の実は、土の中にできる」
 ナスや枝豆みたいに、枝になるものだと思っていました。字の通り、花からつるのようなものが、地面に落ちて、生命を宿すのですね。
 「木は作るもの」
 山を持つ家の人は、その山の木を使って、家を建て、また、木の苗を植えて、育ったころに、家を建て直すということだけでも、驚きでしたが、山の木も、下草を刈って、木が育ちやすい環境を作って、まっすぐな木にするということを聞き、さらに驚きました。下草刈りや、薪を拾うのは、燃料の確保だけだと思っていました。
 「ゴボウ掘りは大変。いや、作り方に工夫が…。」
 僕の畑で、今、ゴボウを収穫しています。エンピというシャベルの細身のような道具を借りて、掘っているのですが、その大変さたるや、一本五百円位してもよさそうなくらい、しんどいですね。
 掘り上げたゴボウを、ベテラン農家の方に見てもらうと、「なんだそりゃ山芋か?朝鮮人参か?」「そんなぐにゃぐにゃのゴボウは、市場価値だとゼロだな。」がっくりの言葉連発です。
 ゴボウは、昔はサツマイモを活けた穴を利用して作ったと聞きました。今では、空掘りをしたり、深耕ローターでうなってから、種をまくと聞きました。なるほど、ゴボウ農家の方のゴボウは、まっすぐだなぁと納得です。
 「大根の種類、向き不向き」
 おろしには青首、煮物には三浦、たくあんにはたくあん用の大根があるということを知りませんでした。また、三浦大根をおろしにしたり、たくあん大根を調理して食べたり、青首や三浦をたくあんに漬けたりすると、まずいというのも、初めて知りました。
 「イチジク浣腸」
 僕は、大栄町に来て、生まれて始めてイチジクを食べました。三十歳にして初めて食べました。食べる以前に、見たこともなかったんです。ごちそうになっていたときに出た話なんですが、イチジク浣腸って、形がイチジクに似ているからとばかり思っていましたが、そもそもイチジクは、整腸作用?があるとのことで、その効果に掛けているらしいとのこと。う〜ん、形を作るということは、意味を持つ(込める)んですねぇ。あたりまえか。
 ここ一、二年のうちに知ったことを羅列してみました(まだまだたくさんありますが、この辺でやめておきます)。農や自然に触れる機会が少なく、食への意識を、単においしいとかまずいとかという見方でしか見ていなかった私は、そもそもどうやってできてくるのかということに関心を持たず、ものができるまでの工夫も苦労も、自然の偉大さも、見ないで過ごしてきました。当然、感謝の気持ちも薄かった(ほとんどなかった)ということです。
 このように気がついたのも、畑や田んぼの仕事を実際にさせてもらったから、また、これまで一生懸命に生きてきた方々に、お話を聞かせてもらえたからだと思います。体験するということは、とても大切で、大きなことなんですね。
 これからも知ること、感じること、教わること、たくさんだと思いますが、どんどん学んでいきたいと思います。
 そして、都市生活を送る僕の知人、友人に、僕の知ったこと、学んだこと、感動を共有してもらえたら嬉しいので、農作業体験に来てもらったり、農場だよりなどを作って送ったりしようと思います。

 今回の文書は、とても恥ずかしい暴露モノとなってしまいました。「街中で暮らすもんは、そんなことも知らんのか」とあきれる声が聞こえてきそうですが、見放さないで、お付き合いいただけたら、嬉しいです。


〈私のインターネット仲間から〉
                          高柳 功
ML仲間からの問題提起である。興味深い意見であり、私も全く同感と思ったので紹介したい。
・・・・・一昨日の朝日新聞に大きな囲み記事で
「鶏を育てて食べよう---「残酷、保護者がストップ」というのが飛び込んできた。
秋田県雄物川北小学校五年の総合学習として、「鶏を飼育して、子どもの目の前で解体処理して、カレーにして調理、昼食で食べる」 直前になって、ある保護者が匿名で教育委員会に批判的な内容の投書。そしたら即、教育委員会がストップをかけた。
担任の女性教師としては、「食と命の尊さを教えたかった」
「保護者には事前に話し、意見すら求めていた」
「反対なら自分に意見を言って、一緒に議論したかった」と。
 ボクの書き方は最小限に要約してあるが、理解はできると思う。
みなさんはどう思うでしょうかね。もう十数年、いや二十年以上も以前だろうか?東京世田谷の小学校教師だった烏山敏子先生が同じことをやっているのだ。
多分、現在は教職は辞めているとおもうが、烏山先生はやってのけた。
 当時この授業にたいしてどんな意見の交換があったかはボクはぜんぜん知らない。当時のボクは農業無関心。食べもの無関心だったから。なのに、不思議に烏山敏子などと、なぜかフルネームで覚えている。
ボクの意見はこういう授業大賛成というところ。
 子どもの頃には、母から命令されて、飼っていた鶏もウサギもアヒルも数えきれないほど殺しているし。そして食ってしまっているし。百姓をはじめてからも鶏は100羽以上は殺して食っているし。だから、ボクは命の尊さを理屈ではなくて身体で知っている。
 もう一つ。むしろこっちが問題だ。教育委員会の態度だ。
そういうところにいる連中は、いつも上(文部省)ばかり見ていることなかれ主義者だからだ。たった一つの、しかも匿名の投書だけで、こんなすばらしい授業を業務命令で中止させるなどという、その態度にこそ由々しき問題がある。
 日の丸だ君が代だと大騒ぎするくせに、そういうつまらないことを言ってくる保護者にたいして「授業のすばらしさ」を逆に説明して教育するのが本来の仕事ではないのだろうか。こんな連中が教育委員会などに巣くっているから、少年犯罪がふえるんだよな。
 そういえば山川町でも最近似たような問題が起こっている。
川沿いにできる公園には柵などは作らない開放的なものにしようとボクたち町民と県土木がほぼ決めかかってる土壇場になって、小学校ΡΤΑとか教師が「柵で囲いなさい」と臨時総会で決議。
 まあ、こっちは時代遅れ、勉強不足、認識不足が原因だけど。まあ、すこしは似ている。
ところでくだんの教育委員会に投書した親とか子どもが、
意外と好物がとりの唐揚げだなんて!!!
 こういうのって、差別だよな。だって、そういう嫌なことは他人にやらせて、
挙げ句の果てに、残酷だと!!
 何もしないで食う人間は何だと考えているのだろうか。
 ・・・以上紹介だが、その彼は六十五歳の農業者である。五十歳の時に新規就農し、四国の山奥で暮らしている。
 彼の主張には二つのことが問題提起されている。一つは、命の問題である。常々思っていたことでもあるが、鶏や豚や牛の肉をおいしいと言って食べていながら、その屠殺現場は見せない、というのは偽善と言うしかない。
 人間は、お米や野菜の命、そして動物の命を戴いて生きるしかない宿命を負っている。であるが故に、命は大切であるし、多くの命のおかげで私達の命があることを忘れてはならない。そこを見せないで(蓋をして)輸入肉は安全とか、安いとかが言われ、本質的なことは問題にしない。
 また、教育委員会の態度もどこの地域もそう変わらないのではないか、と思う。いつも上を向き、事なかれの主義の態度は悲しい。教育は教え込むことよりも、命いっぱいに育て上げることが第一だと思うのだが、、、、、。

∧編集後記∨ 
 前回からしばらく時間がありました。その間、ニューヨークテロがあり、アフガン戦争になってしまい、自衛隊の派遣などと進んでいます。・・・日本はアメリカと協議しつつと言うが、当のアメリカはそのつもりはない。協議など必要ない。アメリカの言うがままの国なのだから。・・・と言うコラムが載っていました。(ニューズウィーク)そして誰も責任をとらない、と言うことになったら悲劇です。
 そして、そのつけは我々国民に来るのです。          高柳・記

俺にも言わせろ!第十七号
二〇〇一年九月二一日長興院にて
目次
1.知り馬鹿知らず馬鹿その13  藤田長男
2.テロ事件に思うこと        宮下陽祐
4.プロセスを求めている      原 茂之
5.おかしな国日本・その2     高柳 功
知り馬鹿知らず馬鹿「その十三」
藤田長男
 詐欺のような見たくもねい天気予報を、やっぱり見ながら今日も又、夕立がこねいじゃねいか、とぼやきながら恨めしく夕焼け空を仰ぐのだ。耐えることは大切なことだがこれ以上のイジメに遭うと子ども達のようにキレてしまいそうだ。
 人はペットボトルを飲めばいいのだが作物は飲みたくても飲めねいのである。手も足もねえ作物達はかわいそうな限りである。せめて人間様からのお恵みを待つしかねえ。おかげさまで来る日も来る日も接せと灌水とたぬき捕りに追われる毎日である。
 プロジェクトI、男達の挑戦、そんな番組にかって敗戦国日本は資源がなく、石油の一滴は血の一滴である、と言いながらその活路を中東に求め、国をあげ体を張って海底に掘削の杭を打ち込んだ勇壮な男達がいた、過酷な試練を乗り越え、やっと夢にまで見た真っ黒なまぶしいまでの原油に辿り着き、かくも戦後の経済発展がもたらされたという。御陰様で今日はジュースでも買うかのようにお金を出せばいくらでも手に入る時代だが、同じように水の一滴が血の一滴に見える今日この頃である。いつまでもあると思うな二親を!
 そんな想いで今日も又やっとなった柚子様にせっせとミネラル豊富な湯流しをポンプアップしてかけている。電気代がどうのこうのという場合じゃあねえ、果物は水が足らねえと石柚子や石梨になっちまうのだ。入れ歯が壊れちまってはかえって高くついてしまうでよう。
 そんなこんなで井戸も二十四時間フル運転なのだ。ポンプがダメになるのが先か、水が枯れるのが先か、地下鉄のオッちゃんじゃあねいが心配してゆっくり眠れたもんじゃねえ。そんなボケ爺様を尻目に、今夜も悠々とタヌキ野郎は梨をほおばって居ることじゃろう。俺の身にもなって見ろと言いてえ処だ。霜をくらってなけなしの梨だぞ、今年は憎さも倍だぞ、覚えておけ!
 日本の警察も飲料水も頼りにならなくなってきた。水を輸入するようになっちまったらお終めいだ。石油がねいのとは訳が違う。東京の都じゃあ節水騒ぎだ、山の手の高台じゃあ今年も便器に糞が山程高く積み重なる事じゃろう。学のある奴らは火星に水があるとかねえとか吠えているが、手前らの糞の始末をしてからの話じゃねえのかよう。
 水、水と生半可に騒いでいると引っ掛かってしまう。まして頭のいいわしらは尚更だ。クラスタがどうのこうのという話につい乗せられてしまってとうとう、二十五万円の磁気水を飲むことになってしまった。能書きじゃあ、血液の流れがよくなり頭もよくなり、はげも治る事になるはずだったが、腐れ頭はだんだんひどくなりやがるし、はげの野郎もとどまるところを知らねえようだ。
 まあ、広告とか能書きとかは半分やまかかっているとは思っていたが、まんまとしてやられたという処じゃ。まあこじつけて強いて見るなら、石鹸のアクが風呂水の上に浮かばなくなったことか、流しのヌメリが少しつかなくなって位の処じゃろう。まあ飲んでいて命に差し障りはねえだろう。その内に曲がり間違って赤や緑に染まった格好いい毛が生えてくるかもと期待しながら待とう。
 新興宗教じゃねえが、信じるものは救われると思う事じゃ”そんな強がりをほざいていたら、今度は腰は痛くありませんか、ときやがった。痛いに決まっていらあなとつい本音を言ってしまったものだから、またしても三十五万円の今度は健康器具を性懲りもなく買わされてしまった。ここまで来るともうどうでもしてくらんしょ!となっちまう。
 まあ母ちゃん腰もんでくれえと頼みきや、私のを先にもんでよ、ときやがる。女の尻はでかすぎる、まして年増は硬くて手に余る。ツウペじゃ割に合わねえ、その点アンマ機はボタンを押すだけで黙ってもんでくれる可愛い奴だ。わしらの血の一滴は命の一滴だで、まあそんなに生き延びていとは思わねいが、せめて、ポックリと逝くまでは元気で居てえと言う処じゃ。効くか効かぬか分からねいが、お陰でどこかの誰かが救われたことじゃろう。世知辛い浮き世じゃそんな福祉もあってよかろう”・・・・・。


  テロ事件に思うこと
                         宮下陽祐
 続けるということは、大変な努力がいるものだ。ついに先月は休んでしまった、云いたいことがなかった訳ではないが、どうしても忙しさにお届けできなかった。
 忙、という字は我を忘れるという字である、我を忘れてしまうような多忙は良くないことであると反省している。アメリカで起こったイスラム原理主義だといわれているテロ事件にはビックリした。アメリカとイスラム圏の戦いは必ずいつかあると思ったり、話していたから、終に来たかという感であったがああいう無差別テロという形は許されない。
 日本の宝船には、インドの神中国の神それに恵比寿様という日本の神を乗せている。それに寿老人は、中国の禅僧である。これを縁起の良いものとして拝んできた日本人には理解の難しい事件である。だからオゥム真理教の事件をテロ行為と出来なかったのである。 アメリカのテロ事件とオゥム事件は全く同じである。テロ集団と認定せず、宗教法人法を変えてヨシとした。世界を相手にお付き合いする、先進国?日本なら宗教オンチだなんていっていられないはずである。宗教は生き方の教えであるから、世界の人々は生きるということは、神の教えにしたがうことである。これが生活だと決めて生きている。
 だから外国では信ずる宗教はいつも人にきちんと伝える、取引、選挙の立候補、医者、宅地を択ぶ時、などありとあらゆる時に宗教が土台となる。特に一神教世界では他の神を絶対に認めないからこれが難しい、アメリカが湾岸戦争以来サウジアラビャに駐留していることもかなり問題だ、日本人にはわからないだろうが、自分の家の墓場に、肥桶を誰かが置いているようなものである。そしてこれに対して何が悪い、あんたの為に良いことをしてやっているのだと、言っているに等しい。神様の違いとはこんなものである。
 ただイスラムは悪い連中だとは。決して言ってはならないことである。悪いのは、過激な一部のテロ連中だけである。アラブの人々は西欧諸国が台頭してくるまでは、世界一の優秀な民だと思ってきた、一九四八年(昭和二十三年五.十四)イスラエル国をつまりユダヤ国家を樹立宣言したことから、もめごとは始まった、第一回目のテロ行為はユダヤ人が国連のパレスチナ調停官を暗殺したことにはじまる。根の深い問題である、そもそももめごとに乗じて人の国(パレスチナ)を統治して(イギリス)かつてに国家樹立宣言してしまったのである、これがイスラエル問題である。是れを認めた国、特にイギリスやアメリカは最近まで何兆円にも及ぶ金を注ぎ込んでイスラエルを援助し続けてきた、これにたいし土地やメッカを一方的に奪われたバレスチナ人々怒っているのである。
 世界の経済特にアメリカの経済を支えてくれるユダヤ人は大切であり、白人の仲間である、人種差別に反対するアメリカであるが、このへんは問題にしていないのがアメリカである。この問題でアメリカのいうことをきかない軍事政権のパキスタンを従わせるチャンスが来た、今度ばかりはタリバンとの関係がある以上突っ張りきれない。
 アフガンに交渉に出て行く姿はなんとも物悲しい、テロ集団のボスを捕まえた位でこの問題は終わらないだろう。それにアメリカは金は要らない、今度はは日の丸を揚げてほしいといったそうだ。日の丸をやっと国旗としたら、これを中東で掲げることになったらと大変だ、何か末恐ろしい気がする。イスラム即アラブ、として拡大戦争になったら
間違いなく、原油が止まるだろう、アメリカや中国など産油国はいいが、輸入国は大変だ今年の冬は寒くならなければよいが、と今から心配になる。
 イスラム教を信じて生きている人々は世界人口の七分の一とも六分の一とも云われている。世界各地にいる。マホメットを使徒とし、コウランの教えをアラーの神のお告げとして生活の根幹に生きている人々である。
 アラーは全知全能、無始無終の神で天地の創造主である、だからこの神を画像や彫刻することは出来ないとし、聖地メッカに向けたモスクの壁に切れ込みが有るだけだ。
 一日五回の礼拝をし、金曜日にはモスクに向かって決まった時間に礼拝する。
二つ並んだ時計を付けているのを御覧になった人もいるでしょう、お布施は税金のようなもので、農作物には約十パーセントかけられ、所得によってある程度決まっているようだ、砂漠において民族運動として発達したから底知れぬ力がある。
 アメリカやイギリスが全部悪いわけでは決してない、キリスト圏にもユダヤ圏にもみなそれぞれの言い分はある。ただこれが民族問題として冷戦終了後特に台頭してきた。
 何れにしても、八百万(ヤオヨロズ)の神を大切にする日本人には理解が難しい、信仰の問題を経済優先で解決をはかったり、利用しようなどという浅はかな考えは大変な事態を招くだろう、時は彼岸、新米のオハギをお供えし、家族で日本の仏教の素晴らしさを再認識していただきたいものである。
 先祖は生きていることは、総てに感謝することだとおしえている。金、金の社会は聖戦よりも、これまた恐ろしいと知るべきだ。
 生意気ですが。                                                    合掌
 
プロセスを求めている?
                  原 茂之(八月十二日記)
 本題に入る前に、気に留まったニュースをひとつ。名古屋南部公害の訴訟で和解が成立したというものが、八月七日の報道にありました。この訴訟は、八十九年三月に、工場排煙と自動車の排ガスに苦しむ公害病認定患者が国や企業に損害賠償と汚染物質の排出差し止めを求めて提訴したもので、3次提訴までの患者二百六十三人のうち、すでに3分の1以上が死亡しているとのこと。請求総額は約八十二億円。
 和解の内容は、国側が、排ガス対策を約束すること、企業側が解決金約十五億二千万円を支払うことなどです。国側は、排ガスと健康を損なうことの因果関係を認めず、排ガス差し止め要求については、原告側が請求を放棄したとのこと。
 辞書によると「和解」とは、「争いをやめ、仲直りをすること」だそうです。原告側は、本当に「仲直り」できるのかなぁ、事実上の敗訴じゃないかと思ってしまいます。
 原告側に死亡者がたくさん出て(それだけ年月がかかっているということ)、国は原告の請求のもっとも大切な部分を認めず、賠償請求額の2割にも満たない「解決金」を払って、「和解」?…日本という国は、人の命より工業・経済の発展を優先する「発展途上国」なんだなぁと、つくづく思います。心・命を大切にする「先進国」に早くなってほしいものです。
 気になったニュースをもうひとつ。沖縄でのアメリカの軍人が、日本女性を犯したということについては、身柄の引き渡しを政府が要求し、報道もかなり熱くなっていましたが、ペルーからのフジモリ元大統領の引き渡し要求を、日本が突っぱねていることについては、マスコミはそれほど報道しませんね。報道(マスメディア)も官僚の手先みたいに見えます。情報の取捨選択、見極めは、自分の責任でやらないと、大変なことになりそうですね。
 さて、本題ですが、最近のブームというか、脚光を浴びているものというもののいくつかに、共通するものがあると思います。
 テレビ番組では、「プロジェクトI」や「知ってるつもり」。芸能・音楽では、モーニング娘。電波少年というテレビ番組での「猿岩石」や若手漫才コンビのヒッチハイクでの大陸横断など。
 プロジェクトI、知ってるつもりは、有名・無名の違いはありますが、偉業を成し遂げた人に焦点を当て、その裏にある苦悩、挫折などを紹介しています。
 モーニング娘は、デビューの時、売り上げ枚数を設定されて、満たさなければ、芸能活動を即刻中止、解散するという条件を課せられ、クリアーするための努力の様子をテレビ番組で追っていました。結果は大ヒットで、今も売れているようです。
ウッチャンナンチャンという漫才コンビのそれぞれ作ったバンドや社交ダンスチームも、同じようなことをして、話題になっていました。
ちょっと前になりますが、猿岩石や無名の若手漫才コンビのヒッチハイクでの大陸横断も、言葉の通じないところで、車に乗せてもらうのに何時間もかかったとか、野宿の様子などを番組で追って、ブームにっていました。
 前述のものはみんなプロセスに焦点が向けられていますよね。苦労、苦悩、不安、挫折…。目標が達成されたもの、結果が伴わなかったものにかかわらず、そのひたむきな努力や一生懸命さが、視聴者・支持者の心を打っているのでしょう。
 一方、世間では、企業(大人)も学校(子供)も成果主義が浸透してしまい、結果を求められ続け、背景にあるプロセスは、あまり評価されてないようです。もちろん成果、求めた結果を出せなければまずいとは思いますが、あまりにもプロセスの評価がなされていないように思います。
 これがストレスを招き、自らを癒すためにヒーリング音楽やアロマテラピー、観葉植物などの癒し系といわれるものがブームになったり、あるいは結果を出すために食事の時間を削り、代わりとして栄養補助食品やサプリメントを主食にしていたり、ひどいものだとドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)などを引き起こしています。
 プロセスに焦点の当てられているテレビ番組が話題になっているというのは、自分がプロセス評価をされていないという不満、プロセスを見てほしい、評価してほしいという声の現われではないでしょうか。
 ではプロセスとは何でしょうか。心ですよね。懸命さ、努力、苦悩、不安、みんな心に通じるものです。
 プロセスを見ない社会は、文字通り、心無い社会になってしまいます。もうなってるかな?
プロセスは、ひとつの結果を出すまでの経緯ですが、個人における現在という結果に対しては、過去や経験ということになるでしょう。そして民族の現代という結果に対しては、歴史がプロセスということになるでしょう。
 年齢にかかわらず、人それぞれにドラマがあります。ぼくはいろんな人の、いろんな場面のプロセスを知りたいと思います。プロセスを知るには、心を通わす必要があります。意思疎通、コミュニケイションを図ることを大切にしていきたいと思います。そして歴史というプロセスを知り、未来というビジョンを描き、現代を生きていきたい…そんなふうに思います。

おかしな国日本・その二
(五穀豊穣・瑞穂の国ということだったが、、、)
高柳 功
 今年の秋にまた伊能歌舞伎が演じられる。かって伊能全区が交代で大須賀神社を奉りながら演じてきた伊能歌舞伎も昭和三九年を境に若者の減少で演じることができなくなり休止されていた。伊能歌舞伎と言えば北総地区ではかなり知られた存在であった。
 ここ数年の地区有志、区民、そして行政の協力の元復活ができ今年も十一月に公演予定となっている。この伊能歌舞伎も元はと言えば、大須賀大神への奉納であった。大須賀大神は産土神であり、郷土の中心として数百年と存在してきた。伊能地区の人達は、春の伊能のお祭りに五穀豊穣、天下泰平、家内安全を祈り全区民あげての行事としてきた。
 何より五穀豊穣が最初である。命がなければ全ては始まらない。その命の糧を得るために田んぼをつくり、畑を耕し糧を得る場を作ってきた。そうして秋には、五穀の実りに感謝し、自然を敬ってきた。
 そうして生きてきた歴史は数百年、数千年に及ぶと思われるが、たったの数十年で田圃は作るな、国際競争だ!などとこの地に住み続いてきた労苦を一蹴するかのような時代になってしまった。大地自然は我々の生きる生き場なのに、いつの間にか売り物にしてしまった。
 その昔からつい最近までは全て手作業である。鍬万能で田を作り、畑を開墾し耕し道を創ってきた。その苦労を思うと大変なことだと思う。 その土台の元に生まれ育った我々は、先人の苦労と歴史をどう消化するか。歴史を引き継ぐ者となるか、歴史を断ち切る者となるか、そこが問われる今ではないだろうか。

(編集後記)
 ちょっと一服のような時間がありました。何分にもそれぞれの都合というものがあるというか。八月の予定が延びてしまったので、内容がちぐはぐなところがあるやも。ご容赦いただきたい。・・・

俺にも言わせろ!第十六号・無限塾 01.7.23
1,知り馬鹿知らず馬鹿(その12)        藤田長男
2,日本は真の民主主義国家になれるのか  無着成恭
4,たぬき                       原茂之
5,おかしな国日本(その1)            高柳功 
 知り馬鹿知らず馬鹿(その十二)
                         藤田 長男
 先月号で長興院さんが摂理というものを説いてくださいました。。そして又、追い打ちをかけるようにして無着先生が、ものにはわけがあると息んでくださいました。わしはホルモンバランスに引っかけて見たが、結果的にそういう奴らもまた摂理なのだなあ、と背伸びして肩を並べることにした。しかしよく考えてみると近頃はそれが摂理なのやら異常なのやらとんと分からなくなってきやがった。コレステロールじゃねえが摂理の野郎にも善玉と悪玉があるような気がしてならねえのだ。
 近頃わしの家でも嬉しい出来事がある。柚子の野郎が実を付けたのだ。七年もかかった、柚子の馬鹿は十八年かかると昔から言われてはいたのだが、成っていたやつを引っこ抜いてきたのに、全く馬鹿だ。まあ成るという摂理が舞い込んできたということじゃろうが、はな垂れガキの様にただ指をくわえていた訳じゃあねえのだが、婆ちゃんが近所から柚子をもらってきてトゲに刺したりした、母ちゃんも鏡をぶら下げたりした、良いと言うことはやってみた。
 わしもノコギリをかつぎ出してガリンコと傷をつけてやった。枝にロープを結んで倒したりしてみた。まあそんなこんなみんなで食いてい一心で一生懸命やったのが功を奏したと言うことじゃろが、何がどう摂理とやらに引っかかったのやら腐れ頭にはわからねえが、一生懸命、努力すれば摂理という奴もついてくるのだろうか。
 永田町の長屋じゃあ。純ちゃんや真紀子おばさんが一生懸命努力しているのだからちゃんと摂理がまわってくるといいのだが・・・・・が、もしかしたら「梨屋の親父も今年は霜をくらっちまってしょげているからせめて今年だけでも成ってやっか!」等と恩情をかけてくれたのかも知らねえな、世知辛い世の中だでよ、そう思いていやね。
 空を仰いでみると今日も底の抜けた青空だ、もういいよと言いてえ処だ。梅雨がこねいのも摂理とやらだべえか。こいつは嫌な方の摂理だ。今年は天気がいいので落下生の発芽が上々だ、茎も一丁前にふさがったのだが、困ったことに花が咲かねえのだ。花の咲かない枯れススキー と、くらあ歌の文句にも成る事だが、花の咲かねえ落下生じゃあ様にならねえやね!菜っ葉の代わりに塩漬けというわけにもいくめえ。何が摂理で何が異変やらちっとも分からねえご時世になっちまったでよ!
 やだねったら!やだねえだ!       


日本は真の民主主義国になれるのか。                          無着成恭
 @最初にお釈迦様の言葉を言っておきたい。
「そうなったわけがある。わけのないことは一つもない」
 六月八日に起きた児童殺傷事件を始めとして、多発している殺人事件のほとんどは国家権力の強圧に負けてしまった弱者の怨みのはらし方だと私は見る。弱者は国家に対して、自殺か殺人の方法であだを討つ。犠牲になった子ども達には申し訳ないが、そしてそれは逆恨みかも知れないが、弱者の心は出口のない闇の中に潜り込む。
 A「怨みは怨みによってやむことなし。怨みを捨ててこそ始めてやむ。これ萬古不易の法なり」(法句経)
 弱者は怨むことでしか生きられない。このお経のように生きるためには、それ相当の修行を積む必要がある。怨みを捨てる、恨みを忘れる、心に受けた傷を水に流すーーそういうことができる人は大人なのだ。弱者とか子どもは怨恨をはらす方向へと沈んでいく。それを心の闇という。閉塞感である。
 B、@とAを頭に置いて、八名の子どもを殺し、三〇数名を傷つけた宅間守という殺人犯を考えてみよう。この容疑者は精神障害者だから自分と違う人間だ。自分は正常な人間だからこういう事件は起こさない。こういう前提に立ってしまうと「こんな精神障害者を野放しにしておくからこんな事件が起こるのだ。死刑にしてしまえ!」ということになるだろう。
 そうではなくて、宅間守がやらなければこの俺がやったかも知れない。宅間守は精神が弱いから切れてしまったけれど、この俺だっていつ発狂するかわからないぞ!!と思えばぞっとする。つまり日本人の心の奥底にはみんなそういう条件が整っているのだーーと私は見る。
 C日本人は今、みんなそんな危機一髪の条件の中に生きているのだーと私は見ている。選挙の投票率の悪いのはその証拠。出口のない閉塞感でうっ屈している。その理由の一つは選挙で誰を選んでも政治は変わらないからだ。官僚が政治を支配しているからだ。
 官僚は国民から選ばれた政治家の命令通り動かなければならないのに、この国では国民から選ばれた政治家が官僚の思い通りになっているという現実だからだ。これは明治維新以来作られてきた体制で、一九四五年の敗戦でも崩れずに、アメリカが日本を支配するために利用したものだ。 「絶対神」と「官僚体制」この二つが、具体的には「終身雇用制」と「年功序列型賃金制」と言う姿で、民主主義を拒んだ。
 Dつまり、本当の民主主義というのは憲法で謳われている「主権在民」「基本的人権」「平和主義」が国民一人一人の生活の中で保証されると言うことだ。ところが「絶対神」「官僚体制」の温存は、国民一人一人の直接的な民主主義を拒んできたため、権力の側にいる人々の民主主義ではあっても 一般国民の民主主義になり得なかった。
 Eところがバブルの崩壊は、「終身雇用制」「年功序列方賃金制」を崩壊させてしまった。つまり実質が崩壊したため、そこにしがみついていた国民が放り出されてしまった。それなのに形骸としてだけの体制だけが残っている。その強圧にあえぐ弱者の最も弱い部分がうらみつらみを自殺とか人殺し と言う形であふれだした。
 つまり、「終身雇用制」と「年功序列」の崩壊以後発生している自殺と殺人事件の多くは、いわば「弱い者の怨みのはらし方」と見ることができる。事件はその時代を写す鏡なのだ。
 F「ハンセン病」「ミナマタ」「森永砒素ミルク」「カネミ油」「エイズ」等々これらは国家対国民の事件なので個々の殺人事件などと区別されているが、実は強者が(国家が)弱者(国民)を虐殺したと言う点で、児童殺傷事件などと比べものにならない程凶悪なのだ。
 G殺された子どもはいうまでもなく、その親たちの悲しみに対して慰める言葉もないーーのは当然のことだが、それにつけても出口のない閉塞状況を作り出している強者を、一日も早くはねのけることが大事だ。弱い者ほど、自分より弱い者を滅茶苦茶に刺すのだから。強者は一刀両断だ。
 Hしかし私は「熊本地裁のハンセン病国家賠償訴訟判決」と、それの小泉の対応を見て、日本にも本当の民主主義が実現するかな?と言う思いでいる。そのためには、官僚支配体制の崩壊がなければならないだろう。官僚支配体制が総崩れになって、政治が弱者の者となったとき、日本の農業も生きかえるのだと思う。
 でもまだわからない。・・・・・
(この稿は第一五号で書かれたものですが一部しか配信できませんでしたので再度掲載しました。)

 たぬき
                         原 茂之
 3月下旬から、ほぼ十日おきに種をまき、水をやり、温度管理をしながら苗を育て、畑に植えてから、草取りをし、3ヶ月かかって、ようやく食べごろにまで行き着いたとうもろこしが、たぬきに食べられています。
 たぬきは、「明日あたり、ちょうど収穫時だなぁ」というもろこしだけを食べていきます。「たぬきも同じ生き物…」なんて悠長なことは言ってられません。お客さんにとうもろこしを届けられないばかりか、僕が食べられません。
 わなを借りました。足などで重さがかかると、はさむやつです。自分の手をはさんでしまいましたが、かなり痛いです。
 たぬきは夜行性なので、日が暮れるころ、わなの近くにソーセージをぶら下げたりして、食べごろに近いもろこしのところにセットしました。
 わなを仕掛けて4日目くらいでしょうか。朝、畑に行ってみると、たぬきがワナにかかっていました。
困りました。ワナを貸してくれたベテラン農家のところに行き、どうしたらいいか聞くと、「殺すしかないな。」
 畑に戻り、木の棒を用意しました。棒を頭の上に振りかぶりました。「このまま逃がしたら、またとうもろこしを食べにくるだろうな。死んでもらうしかないのかなぁ。」
 保健所に引き取りに来てもらおうかとも考えましたが、僕が仕掛けたワナです。殺すなら僕の手で…。それが責任だと考え、保健所に連絡するのはやめました。
たぬきはじーっと僕を見ています。ワナにかかった痛さ?この先の運命を予測してのあきらめ?哀願?恨み?怒り?恐怖?…じーっと見ています。
 「畑の周りの山と谷が、残土埋め立てで削られてしまって、住むところも食べるものもなくなり、畑に出てきたんだろうな。たぬきは自然の法則の中で、食べ物を求めただけ、ただそれだけなのに…。」
 涙があふれてきました。この涙はどういう意味なのか。人間の開発行為が他の動物を虐げていることに対して?経済行為のために、僕がたぬきの命を奪おうとしていることに?…
 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…。」苦しまないように一撃で決める。覚悟して、脳天に振り下ろしました。
 さっきまで動いていたたぬきは、もう動きません。じーっと見ていた目は閉じられています。僕は涙もしゃっくりも止まらなくなってしまいました。
 食べるために殺したのなら、その命をいただき、生かそうとすることはできます。でもこのたぬきについては、そうではありません。普段、作物についている虫を殺すのと同じといえば同じです。何で涙が止まらないのか。同じ赤い血を持つものを、自分のエゴのために殺したからでしょうか。故意に、意図的に、自分の意思で、自分の手で…。
 たぬきの足をワナからはずし、畑の隅のほうに持っていきました。穴を掘り、埋めて、お墓を作りました。
その後、ジャガイモの収穫作業をしました。泣きっぱなしです。翌日の田の草取りでも、たぬきのことが頭から離れません。
毎日、畑に来ては、お墓に手を合わせています。勝手ですよね。殺しておいて、手を合わせて…。
 暑さの中のすがすがしい風、食べ物のおいしさを感じること、生きていることを実感するたびに、考えてしまいます。「あのたぬきは、もう感じることができないんだよなぁ、僕のせいで。」
 「僕は何をやっているんだろう。なぜ生きているんだろう。何のために…。」根本的な問題を自問しながら、当分の間、ブルーな時が続きそうです。
(追記)
 たぬきを退治してしまってから数日後、また6〜7本、もろこしが取られていました。しかし、今度は、取られ方が違っていました。
 木は倒されていないで、葉も切れておらず、何より、取られた場が、ぜんぜん荒れていません。「そりゃぁ、人だな」ベテラン農家が口を揃えていいます。
 翌朝、頭の中は、真っ白になりました。収穫間際の六十数本が、なくなっています。たぬきは、そんなに取ってはいきません。
 狸が人に化けて、取っていったのでしょうか。これって、たたり?



おかしな国日本・その一
(限度数量から予定計画出荷基準数量へ)
              高柳 功
 と書いても何のことか分からないだろう。
 今年の我が家には、お米の販売数量通知書が届いた。数量は0である。要するにあなたのお米は一俵も買えませんよ、ということである。 私は、この国がお米を輸入する事を決めた年からいわゆる減反には協力しないできた。お米が余るからと減反政策が始まり、既に三〇年近くになる。事態は改善されるどころか、筋の通らぬ、言葉のごまかしで推移している。
 この国が信用できなくなったのは、国の最高意志決定機関と言われる国会で、お米は日本農業を守る上で輸入しない、と決議しながら一官僚がわざわざ交渉?に出向き簡単に輸入することを決めたからだ。衆参両院の全議員が国会で一度ならず三度決議したにもかかわらずである。
 ウソの始まりは、国会は国の最高意志決定機関である、と言うことに異論のある人はいないと思うが、実体はそうでない、ということ。いわば口で言うことと行動が違うのである。言行不一致そのものなのである。
 その政策を実行するにあたり、実に様々な言い回しをしてきた。最初が減反、そして水田利用再編対策、そして食管法が改正され、表題のようになっているが、その実体は変わっていない。要するに、如何にお米を作らせないか、の一点で一貫している。
 農家でない人のために、我が家にきた通知書の内容を紹介しよう。
    ・・・・・以下・・・・・                        
 平成一三年度米国の予定計画出荷基準数量通知書
                     平成一三年七月九日
 大栄町伊能2306 高柳功様
                   大栄町長佐藤末勝 印
 主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律施行令第九条第一項の規定により、あなたの生産される平成一三年産米国の予定計画出荷期純量を下記の通り定めましたので、通知します。

  うるち玄米   〇俵
  もち玄米    〇俵
(ご注意)
1 上記の予定計画出荷基準数量が、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律第五条第一項の規定により、計画出荷米として売り渡し又は売り渡しの委託をしなければならない米穀の数量となります。
なお、上記の予定計画出荷基準数量については、同令第一〇条第一項の規定に元好き、変更を申し出ることができます。
 2 この通知にかかる予定計画出荷基準数量について不服があるときは、当該通知を受けた日の翌日から起算して三〇日以内に、当該通知をおこなった市町村長に対して異議を申し立てることができます。
           ・・・・・
 以上の内容となっている。
 いかにも役人の作った文章であり、熟語を五つ六つも並べないと説明できないような内容であり、だから何なのだ?と聞きたくなる文体でもある。
 そして、お米の輸入は年々増加させつつ、転作面積は増加している。お米の輸入はWT0の推進する貿易自由化のためと言うが、何が自由化なのだ!と思う。
 自由化というならば、自由に作らせ自由に販売したらいい。その結果、価格が高くなろうが安くなろうが、採算が合わなければやらないものはやらないだろう。野菜と同じと思えばよい。
 私にはこの状況を正しく子ども達に伝えることはできない。余りにも矛盾しているからだ。
@ 自由化と言いながら。何故自由に作らせないのか?
A 自由化と言いながら、それを推進する行政が、あなたのは販売   できる数量はこれだけです、と何故指示するのか?。
B 国会が最高議決機関というのに、では誰が政策決定者なのか? 

 そうした問に納得できる答えを見出すことができない。自由化がどうの、景気対策のどうの、と言った議論が盛んだが、自由化や景気のために生きているわけでもあるまい、と思うのだがどうだろうか。
 今、参院選の真っ最中である。小泉首相の人気が報道されているが、京都議定書の問題やミサイル問題を見るとき、結局小泉さんもアメリカの下僕なのか、と言った感がする。地球温暖化と言った地球的課題の解決のため、或いは世界平和のために日本がリーダーシップを発揮できれば独立国としてアメリカ以外の各国から評価されるだろう。矛盾した米政策と同じような道をたどるように思えてならない。


∧編集後記∨
 今回は、急ぎすぎた感があります。常連の宮下さんが書けませんでした。少しゆっくりと行きましょう。民主主義は時間が必要です。
高柳・記

俺にも言わせろ! 第十五号・無限塾
二千一年六月二十三日・長興院にて

知り馬鹿知らず馬鹿(その十一)
                       藤田長男
 何時もなら下手くそな鶯のさえずりを聞かされ乍も、るんるん気分で摘果をしている処なのだが、今年の梨屋は青菜に塩である。漬け物なら食べ頃という処だ。生活をかけ、手塩にかけてきたものにとっては予期せぬ招かざる客と言うところだ。
 四月二十三日の晩霜である、わしらが百姓を始めて以来の大霜だ、朝寝坊常習犯のわしは霜の降りたことすら知らなかった。朝、田んぼに行き、代かきしようと水揚げポンプのヤンマー発動機を回したのだが、手に豆ができるほど廻したのだが、パカッともかからねいのである。いよいよポンコツだあーと諦めて家に帰ってきたら、梨仲間から電話が入った。藤田さん!梨やられちまったよう〃何食らったんだあ、と聞くと今朝の大霜だという。
 薬かけをやろうとして用水のバルブを開けたら氷が飛び出してきた、というのだ。気温零度以下になったのは間違いがねえと言う。どおりでポンコツヤンマーがかからねえ訳だ、と笑ったが。時間が経つにつれ霜害は現実の問題としてその正体を現してきた。
 大豆くらいに育った豊水の実が、縦に何本もの割れが入っちまった。受粉の終わった幸水は日増しに黄色くなり生理落下を始めた。低地の畑は全滅と言う処だ。なんと言うことだ!天災は忘れた頃にやってくると言うがこんな被害は初めてである。何の因果か知らねいが、これも又、環境破壊がもたらす天誅と言うことなのだろうか。わし一人が車を乗り回している分けじゃあねえじゃねえか〃ぼやきながら天に唾を吐いてやったが、手前の顔に戻ってきゃがって様にならねえ。こんな年には蛇や蛙のように息を殺して土に潜っているしかねえのである、と言う処じゃろう。
 大根や菜っ葉ならまき直せばいいのだが、梨はそうはいかねえのである。戦後二十世紀という梨の王様を追い抜き、その地位を思うがままに独占した幸水という梨は一番作り難い梨なのである。二年も三年も準備してやっと花芽が確保されるのである。言うなれば樹体のホルモンバランスを保つのが難しい梨と言うことだ。だから傷梨をもいでしまうわけにはいかねえのだ。おかげで網もかけにゃあいけねえし、薬もかけにゃあいけねえということだ。来年の花芽を確保するために一銭にもならねえ梨の木にだ。
 女をやめてしまったお母さん達が卵巣ホルモンのバランスを崩し、更年期障害になっちまうように,傷梨をもいでしまうとオーキシンという成長ホルモンが活性化して花芽が付かなくなっちまうのだ。梨も人間も同じようなものだ。有る学者先生が言っておられたが、不倫に励んでおられる人妻は更年期障害を知らずに過ぎてしまう、とのことだ。何事も適当な負荷がかかっていると言うことは大事なことなのよ〃たまにゃあ父ちゃんにからみつくことも大事だと言うことなのじゃよ〃やたらかみつかれても困るがよ〃。
 一晩にして農作物がパーになっちまう様な不安定な綱渡りをしながら、その天の深き恩恵にどっぷりと身をあずけてきた百姓なれど、この神秘なる生命体とも言える農作物を〃我々は単なる換金作物として浅はかに取り扱っていいのだろうか。人間の拙いおごりに今少し振り替える心の雫が欲しい、と思う昨今のわしじゃがのう〃ーーー。

 摂    理
                       宮下陽祐
 大阪の児童惨殺事件を聞いて末期的症状を感じます。何れにしても、被害者の皆様と御遺族に哀悼お悔やみを申し上げます。テレビで評論家がアメリカ的事件だと言っていたが、日本は戦後アメリカ的国家作りを目指してきたのだから、こうゆう事件が起きても何の不思議もない。犯罪はどんどんアメリカ的になるといわれていたのだが、事件が起きてみなければ解決策を考えられないのは悲しいことです。
 成熟した近代国家を構築してゆくには、アメリカに学ぶことは大変多いが、表面的物真似は影の部分の問題を見落としてしまいがちであります。資本主義あるいは経済主義はどうしても損か得かが前提になってくるから、切り捨てられてゆく人々がこれまたどんどん出てくることになります。それにアメリカと対等に付き合ってあってゆく為には、思うことを対等に対話することは大切であると思います。
 外務大臣が防衛問題について発言したことは、間違っていないと思います。確かに安全保障条約が約束の前提になつて今日まで積み重ねによって外交してきたのであるから、突然アメリカとの関係も見なおすことも必要であると、言われれば、ォィ、ォィ、一寸待ってくれという人がいるだろうけれども、私は大変勇気ある発言であったと思います。
 今度のミサイル防衛問題、特にABM制限条約等は大変な問題を含んでいるように思います。なんでもアメリカとの関係でアメリカの言うことに賛成するべきだとという事は、国民をばかにした話です。外務大臣が合わなかった人は何の話をしにきたかといえば、日本の民間機、特に、JAL ANAの海外便に非常時に軍事物資をいつでも搭載させたい為に、その要求が大きな目的であったようです。
 外務大臣が会ったかどうかを問題にするより、要人が何の目的できて、誰に合って何の話をしていったのかの報道のほうが大切だと思いませんか。
 外務省の内輪もめにうつつをぬかしていると、国民は大切なものを聞き落としてしまいます。まさにアメリカの思う壷です。外交とは、いかに相手の国民を手玉に取るかである。大変表現の悪い−−言い方で失礼ですが、もっと巧妙な手段で相手を攻めるのが外交だということは知っていなければと思います。
 閉塞的情況の中で、明るく元気な小泉さんに、人気があるのはいかに今日本が末期状態にあるかを物語っているように思います。
 さて、今年はお寺の梅の実の収穫はゼロでした、受粉期にあの季節はずれの大雪でしたから仕方がありません。昨年は豊作でしたから沢山漬けてありますからいいのですが、今年は梅肉エキスを作る予定でしたから一寸残念です。これが「摂理」です。本来摂理とは、すべてを治めること、代わって処理することを言いますが、特にキリスト教或いは日本の古い宗教的考え方として、神やホトケ或いは精霊が人々の利益を思い計って、世のことすべてを導き治めることをいいます。
 今年梅の実が実らなかったのは、ホトケか精霊が私たち家族の利益を考えて実らせなかったのだと考えると、これ又有り難い、今年来年位は充分戴けるだけある、そして何より古い木である。ここ数年大変よく実ってくれた、肥やしもまったくやっていないのだから木のためにも、今年休むのは良いことです。年なりするとか、申年はどうとか、花が下を向いて咲いた時はどうとかと言い伝えがあるが、これも摂理のなせる業である。
 ここの所を最近考えなくなってしまいました。科学が摂理を越えて人々の欲望に応えることに専念したためと、ある程度は事実摂理を越えたために生活は豊かになったような気がします。しかし、ニュートンが万有引力の法則を発見したからリンゴが木から落ちるようになつたのではありません、リンゴは法則の発見に関係なく無く昔から落ちていたのです。
 科学が進みすぎると錯覚してしまうのです。摂理に従つていたのでは経済主義は成立しないかも知れませんが、きっと破綻の時を迎えるような気がします。
 もう少し摂理に従って生活することを考えてもいいのではないでしょうか、お互いに少し科学と経済優先生活に疲れていませんか。毎日おこるこの所の事件は完全に末期的事件のように思います。政治も経済もそしてお互いの生活も間もなくガラガラと音をたてて崩れる様に思います。それも何年も先でなく、すぐ近い将来のような気がします。
 科学も文明も摂理を越えて存在することは出来ないのだと思います。今年も又新ジャガを戴きました、苦竹(マダケ)も勢い良く伸びています、食事は天然のもので豊かで有り難いのですが、山は竹に占拠されそうですがこれも摂理なのでしょうかネ。

  違法でなく、罪悪感のない罪
                      原 茂之
小泉内閣の支持率が80%代と人気を博しているようですが、皆さんはどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。
「聖域なき構造改革」のスローガンのもと、様々な分野で改革案が出されています。新聞等のマスメディアは、各案の内容、案の出し方や発言(パフォーマンス)に、いいとか悪いとか評価していますが、小泉首相のペースにはめられちゃっているというか、日本のメディアのレベルが現れているというか、底の浅さを露呈しているように思います。
自民党の体質を変えようという意気や、財政赤字を減らそうと行政のムダを洗い出し、官僚にも(ほんの一部のようだけど)手を入れようとしている施策、政策立案の際、民間から知恵を学ぼうとする姿勢など、やる気はうかがえると思います。
しかし、メディアも国民も、大きなものを見失っているような気がします。それは、そもそも何のための改革なのかということです。
改革の先に見据えていることは、不況からの脱出、景気回復、最終的には、経済の立て直しです。
そもそも「経済」とは何でしょうか。調べてみたところ、「経世済民」「経国済民」の略語で、意味は「筋道をつけて世(国)をおさめ、人々の苦しみを救うこと」だそうです。
「経済」本来の意味が忘れられ、お金のやり取りという意味のみで使われてしまっているように思います。福祉や介護の制度化についても、マネー経済の効果を狙っての一施策のようで、とても残念です。
話は国政から少々ずれますが、十四日の新聞に「遺伝子組み替え作物三十四道府県が研究開発」とありました。どの地域が何の開発に取り組んでいるかはさておき、気になったのは、そもそも研究開発がなぜ必要なのかということについての各自治体の言。「産地間競争の激化や輸入農産物の急増で、収量や品質の優れた品種開発が必要」とのこと。
健康への影響に対する一部の消費者の懸念に配慮し、商品化の予定はないとのことですが、研究が進むにつれ、厚生省あたりから「健康への影響なし」など、かつての公害やごみ焼却とダイオキシンの問題、電磁波問題に対するセリフを言ってのけ、海外では販売禁止でも、商品化されることが容易に想像できます。
商品化にゴーサインが出されればあきれてしまいますが、それを購入(利用・支持)する国民が出ると思うと情けなくもなります。
安けりゃいい、健康(命)は二の次というマーケット(国民)で経済が潤えばいいという国の姿勢に、国民はバカにされているのに…。
需要があるから供給体制が生まれる。消費者の意識と行動が国を動かしていることを自覚し、責任を感じるべきだと思います。
なんだか少々過激な論調になってきてしまいましたが、過激ついでにもうひとつ。安ければいいという消費活動について。
たとえば、安いからという理由で、輸入材で住宅を家を建てるということが、世界の森林をガンガン伐採し、森に住む住民を追い出し、現地の生態系を狂わしているということ。
衣料品をはじめ、安い逆輸入品等の海外生産品が売れている(国民が購入・消費している)ということが、日本の技術を低下させ、伝統を断ち切り、雇用を無くす一方、人件費が安いという理由から、自給・循環している、いわゆる「未開発地域」に生産工場を建て、「雇用の創出」などとうたいながら環境を破壊していること。
そして進出地域の生活水準が向上してくると、人件費も上昇してきて、企業としてはペイしなくなり、再び、他の人件費が安い地域に進出する。残されるのは、失業者と元工場という名の巨大なごみと、戻らない環境。
このような大きな犠牲の上に「安かろう、よかろう」のマネー経済、私たちの生活が成り立っているのです。
企業も経済も、法律的に見れば、違法ではないでしょう。
「みんながしていることだから…」と罪悪感もないでしょう。
「私は変なことをしていないわ…」って、不作為だというかもしれません。
しかし、海を越えたところの人たちの笑顔を、自分が奪っているということは、事実です。安さを過剰に求めるということが、多くの人を犠牲にしているということは、事実です。立派な「作為犯」です。
見えにくいから見ない、都合が悪いから耳を傾けない、便利さに依存して手間をかけない…、自分の欲求のみを満たそうとするのでなく、人の立場になり、考え、判断し、行動のできる「大人」になりたいものです。(年齢や肉体の成長は進んでも、いつまでも大人になりきれない人も見受けられますが…)
そして、幼い子供、お孫さんたちに、生き方を教え、導くことが、「大人」としての役割であり、それが急務なのではないでしょうか。
社会は自分の心の現れだと思うんです。自分が変われば、社会も変わる。すべては自分の責任だと自覚して、皆さんと一緒に、何が幸せなのか考え、そして幸せを求め、生きていきたいと思います。

 ウイルス汚染顛末記
高柳 功
 わたしのパソコンがウイルスに汚染されてしまった。おかげさま農場の事務に使っていたパソコンなのだが、全てのデータが失われてしまった。まさか自分のパソコンが世間並にウイルスに侵入されるとは思わなかった。遠い誰かのことだと思っていたのが間違いであった。
 ことの始まりはわからないが、メールを送っていた人から、もしかしたらウイルスに犯されているかも知れない、という注告があり、ウイルススキャンというソフトでスキャンをかけたら「ウイルスがあります」というメッセージがあり、駆除ボタンをクリックしたものの、「駆除できません」というメッセージが出て、これではしょうがないと思い、ファイルの削除というボタンを押したら画面が真っ青になってしまった。
 で、これではしょうがないと思い何度も電源を切ったり、入れたりして出きるだけの事を試みたがダメ。製造元に電話し、せめてデータだけでも取り出したいとその操作手順を聞くと、それはやめた方がいいという。なぜならそのデータ自体が汚染されている可能性が高い、とのこと。 でも執拗にその方法を聞き試みたが結局コピーできなかった。で翌日全てを諦め全てを消すことにした。ところがまたこれがやっかいで、元に復旧するためには時間がかかる。私が使っていたのは、ワープロ、表計算、インターネット、画像処理などだが、初期画面とワープロ、表計算は比較的容易に出きるようになった。だが、インターネットその他がなかなかつながらない。結局一日かけてようやくつながるようになったのだが、まだ以前のように全てとはいかないでいる。
 データコピーも時々していたつもりが、結局去年の七月までしかコピーしてなかったのであった。おろかといえば愚かである。まめにコピーをしてください、と言われていたのだができなかった。 
 コンピューターを使い始めておよそ十年になるが、その進歩はあまりに早い。加速度的に進化?してきた。わたしの使い始めはMSD0Sと言うコマンドと呼ばれる時代に始まり、ハードディスクはなかった。それがハードディスクと言うものができ、便利さが飛躍的に向上した。最初は、二十メガから始まったのだが、今はその千倍以上のハードディスクはあたりまえである。CPUの高速化もその上をいく。
 便利になったはいいが、一瞬の内に何もかもなくなると言う経験をしてみると、まさに現代は虚構の中に住んでいるのではないか、と思える。現代を象徴する経験のような気もする。
 ここ三十年の歴史は、モノと金の追求の時代であったように思えるが、実は虚構の世界であって、過ぎてみれば何のことはない、まぼろしの世界であった、残るのは夢を見た残りカスのゴミや廃棄物であり、生存環境の破壊であった、などと言うことがあるかも知れない。

∧編集後記∨
 私達は生態系の中に生きている。人間もその生態系の一員である。生態系を離れて生きてはいけない。気の毒だが、藤田さんの経験はその一つの貴重な経験であると思う。宮下さんの言われる摂理が人間の意志を超えて存在する。そこでどうするか、が問われている時代の様に思える。
高柳・記
・・・おれにも言わせろ!第一五号・その2・・・

日本は真の民主主義国になれるのか。
                          無着成恭
 @最初にお釈迦様の言葉を言っておきたい。
「そうなったわけがある。わけのないことは一つもない」
 六月八日に起きた児童殺傷事件を始めとして、多発している殺人事件のほとんどは国家権力の強圧に負けてしまった弱者の怨みのはらし方だと私は見る。弱者は国家に対して、自殺か殺人の方法であだを討つ。犠牲になった子ども達には申し訳ないが、そしてそれは逆恨みかも知れないが、弱者の心は出口のない闇の中に潜り込む。
 A「怨みは怨みによってやむことなし。怨みを捨ててこそ始めてやむ。これ萬古不易の法なり」(法句経)
 弱者は怨むことでしか生きられない。このお経のように生きるためには、それ相当の修行を積む必要がある。怨みを捨てる、恨みを忘れる、心に受けた傷を水に流すーーそういうことができる人は大人なのだ。弱者とか子どもは怨恨をはらす方向へと沈んでいく。それを心の闇という。閉塞感である。
 B、@とAを頭に置いて、八名の子どもを殺し、三〇数名を傷つけた宅間守という殺人犯を考えてみよう。この容疑者は精神障害者だから自分と違う人間だ。自分は正常な人間だからこういう事件は起こさない。こういう前提に立ってしまうと「こんな精神障害者を野放しにしておくからこんな事件が起こるのだ。死刑にしてしまえ!」ということになるだろう。
 そうではなくて、宅間守がやらなければこの俺がやったかも知れない。宅間守は精神が弱いから切れてしまったけれど、この俺だっていつ発狂するかわからないぞ!!と思えばぞっとする。つまり日本人の心の奥底にはみんなそういう条件が整っているのだーーと私は見る。
 C日本人は今、みんなそんな危機一髪の条件の中に生きているのだーと私は見ている。選挙の投票率の悪いのはその証拠。出口のない閉塞感でうっ屈している。その理由の一つは選挙で誰を選んでも政治は変わらないからだ。官僚が政治を支配しているからだ。
 官僚は国民から選ばれた政治家の命令通り動かなければならないのに、この国では国民から選ばれた政治家が官僚の思い通りになっているという現実だからだ。これは明治維新以来作られてきた体制で、一九四五年の敗戦でも崩れずに、アメリカが日本を支配するために利用したものだ。 「絶対神」と「官僚体制」この二つが、具体的には「終身雇用制」と「年功序列型賃金制」と言う姿で、民主主義を拒んだ。
 Dつまり、本当の民主主義というのは憲法で謳われている「主権在民」「基本的人権」「平和主義」が国民一人一人の生活の中で保証されると言うことだ。ところが「絶対神」「官僚体制」の温存は、国民一人一人の直接的な民主主義を拒んできたため、権力の側にいる人々の民主主義ではあっても 一般国民の民主主義になり得なかった。
 Eところがバブルの崩壊は、「終身雇用制」「年功序列方賃金制」を崩壊させてしまった。つまり実質が崩壊したため、そこにしがみついていた国民が放り出されてしまった。それなのに形骸としてだけの体制だけが残っている。その強圧にあえぐ弱者の最も弱い部分がうらみつらみを自殺とか人殺し と言う形であふれだした。
 つまり、「終身雇用制」と「年功序列」の崩壊以後発生している自殺と殺人事件の多くは、いわば「弱い者の怨みのはらし方」と見ることができる。事件はその時代を写す鏡なのだ。
 F「ハンセン病」「ミナマタ」「森永砒素ミルク」「カネミ油」「エイズ」等々これらは国家対国民の事件なので個々の殺人事件などと区別されているが、実は強者が(国家が)弱者(国民)を虐殺したと言う点で、児童殺傷事件などと比べものにならない程凶悪なのだ。
 G殺された子どもはいうまでもなく、その親たちの悲しみに対して慰める言葉もないーーのは当然のことだが、それにつけても出口のない閉塞状況を作り出している強者を、一日も早くはねのけることが大事だ。弱い者ほど、自分より弱い者を滅茶苦茶に刺すのだから。強者は一刀両断だ。
 Hしかし私は「熊本地裁のハンセン病国家賠償訴訟判決」と、それの小泉の対応を見て、日本にも本当の民主主義が実現するかな?と言う思いでいる。そのためには、官僚支配体制の崩壊がなければならないだろう。官僚支配体制が総崩れになって、政治が弱者の者となったとき、日本の農業も生きかえるのだと思う。
 でもまだわからない。・・・・・


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