こころの時代「己を知る」 盛永宗興 先日、こころの時代「己を知る」 一九八六年放送(盛永宗興)の再放送をNHK教育で放映していた。前から盛永宗興氏の著作を読んでいたが、お顔を拝見するのは今回初めてのことであった。また肉声も初めて、自分の生い立ちを語りながら「いのち」 とはいかなるものか、人間とはいかなるものか、老師とは思えぬ迫力、非常にわかりやすい説明、たとえ話等を交えながら淡々と語られる姿に、後光が差しているような思いで聴いた。 究極のところ人生とは「自分のバカさ加減に気が付くこと」気づかされること。ところが人間には馬鹿な知恵、知識がじゃまをして、なかなかこの馬鹿さ加減に気づかず、思い上がってしまっている。いろいろな場面で気づきを得るチャンスがあるにも関わらず、それに気づくことなく思い煩い、不幸せだ、と不平不満ばかりに関心が向いている。 足を知ること。(知足)自分に充分与えられたものを大切に、大事にすること。彼岸ばかりに目を向けないで脚下を見ること。「いのち」は一つから始まった、永遠に続くもの(続けさせないといけないもの)そんなメッセージを体全体から受け取ったような気がする。盛永宗興の著書の中で述べている一つ一つの言葉がびしびしと伝わってきた。そんな番組であった。時間が瞬時に過ぎたような、いや永遠の中にいたような非常に不思議な感覚にとらわれた。 盛永宗興 元花園大学学長 大正十四年に富山の魚津市に生まれる。大徳寺専門道場で修行。昭和六十一年より花園大学学長。平成七年遷化。師は旧制高校のころに一度に両親を失ってしまいました。その後召集されて戦争。そして敗戦。価値観の逆転。相続税、財産税、農地解放、インフレ。高等学校卒業後に出家。大徳寺で修行。妙心寺大珠院住職。 著書「見よ見よ」「禅・空っぽのままに生きる」「 命のかがやき」「お前は誰か」「子育てのこころ」「禅と生命科学」「無生死の道」 見よ見よ―若き人びとへ 盛永 宗興 (著) より 「あの頃は自分のバカさ加減に気が付くことの連続だった。」 ”老師はいつも最終講義だと思ってやってきた” ”特別の場所、時で修行するものではない、どこにあっても道場である” ”自分の思い通りになるのが幸福ではない。つらいことも、いいことも傷つくことも、汚れもしないリフレッシュして繰り返し脱皮していくことを身につける心、強い心を持つ事が幸福になる力だ” ”教えてもらたのではなく(教えてもらう人等いない)目覚めたから身につく” 「自分の目でよく見て、それから素直に受け入れなさい。自分の心で、素直に痛みや喜びを感じなさい。自分の言葉で、素直に表現しなさい。土足であなたに踏み入ってくる情報や知識を最も警戒しなさい」 岡田節人氏、盛永宗興氏対談集より 『いのち』とはいかなるものか 発生生物学者の岡田節人博士は、「『いのち』というのは、いまだかつて一度も途切れたことのないもの」「死とは、細胞同士の話し合いが途絶えるとき、それを死ということができるかも知れない。」「実証はされておりませんけれども、『いのち』というものはただ一つ、一回しか生まれたことがないという認識は、今日、発生学のほうでは常識になってきております。」といわれた。 この発言を受けて、盛永宗興老師は、次のように解説しておられる。 仏教では、二千五百年前、釈尊の直感によって、また歴代の祖師たちの直感によって、『唯一のいのち』の自覚が、伝えられてきました。歴代の祖師に限りません。こうした『いのち』の自覚に達した人々は、数多くいたのです。 有名になった人もいれば、無名のまま、ひっそりと生涯を過ごした人もいたのでしょうが、こうした多くの人々によって、『いのち』の自覚は人から人へと伝えられ、まわりにいる人々は、その『いのち』の香りを感じたのです。 『いのち』の自覚に達した人には、ある種の雰囲気が生まれます。そして、それは、まわりの人々に自然に影響を与えます。 その『いのち』の自覚というものが、ずっと伝えられてきた。次から次へと自覚する人が出ることによって、それは失われることなく続いてきたのです。 それは禅者としての生活実感である、といってもよい。つまり、これは単なる理論や理屈ではなく、はっきりと感じることのできる事実なのです。ですから、二十世紀も終わろうとする時期になって、この五十年来発達してきた生命科学、発生生物学の分野において、「『いのち』というのは、ただ一回、一つだけ生まれたということが、共通の認識になっている」と岡田博士が断言されたのは、非常に興味深いことでした。 宗教も、自然科学も、 『いのち』と呼ぶことのできるものは、ただ一つであり、そのただ一つの『いのち』が、ありとあらゆる存在となって現れてきている、という認識に達しているのです。 自己の内なる『いのち』を自覚することなく、いくら知識をひけらかし、データを掻き集め、論理を積み重ねても、それは風に舞う塵のように、はかなく、意味のないものです。さらにいうなら、それは必ず混乱を深め、対立を助長し、一つの策を適用すれば、その副作用として、無数の難題が生じてくるという性質を持っているからです。 いま、我々に求められているのは、我々自身の内にある、大いなる力、『いのち』そのものに気づくことです。これなしには、いかなる政治も、いかなる学問も、究極的には意味のないものです。 『白隠禅師座禅和讃』 布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、其品多き諸善行、皆この中に帰するなり。 他に施しをしたり、自分に厳しく戒を守ったりする仏教の実践(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜)。あるいは念仏を唱えたり、自分の行いを懺悔したり、身をもって仏道の修行をするなど、種類さまざまな諸々の仏道の実践も、結局はこの禅定(座禅)というもののなかで成就されるのである。(西村恵信師訳) 布施という言葉は、今日でいうボランティアというのと同じです。ボランティアといわずに布施行といえばよいのですが、一般には「お布施」といえば、葬式や法事の時僧侶に出すお金のことと思ってしまいます。これも布施には違いありませんが、布施の一つにすぎません。これは財産の布施ですから「財施」といいます。 これに対してお釈迦様は「無財の七施」ということを説いておられます。 誰にでも例外なくできる七つの布施、人を積極的に喜ばせる方法といってよいでしょう。 この七つを順次見ていきます。 一.『和顔施』 どんなに苦しくても一生懸命生きている人はすばらしい顔をしています。 人を引きつけ、喜ばせる笑顔の持ち主です。 二.『眼施』 「目は口ほどにものを言い」とも、「目は心の窓」とも言います。目はストレートにその人を表眼します。感謝、愛情の目は、人に対して大きな施しとなります。 三.『言辞施』 言葉の持つ力は大きいものがあります。それだけに感謝の言葉、また、素直に謝ることも、その言葉は「布施」となります。しかし目も言葉もその力が大きいだけに人を傷つけることにも成りますので注意が必要です。 四.『心施』 心がなければ目にも顔にも言葉にも出せないわけで、心はすべての根本ですが、「心の施し」というのは、人のために祈ることも含まれています。 人が人のためにしてあげられることには限界があります。「どうか立ち直ってくれますように」などと心から祈る、これも大切な布施です。 五.『身施』 体を使ってすること。これはたくさんあります。 六.『牀座施』 座席を替わる、あるいはここが空いていますよと呼ぶのも好意であり布施になります。 七.『房舎施』 家に泊めてあげることです。人を泊めることは、様々な面で本当に献身的な努力が必要となります。 「理想的な社会になってほしい」というのはすべての人たちが願うところです。しかし、理想的な世界、仏教で言う『彼岸』に到達するためには、何をしなければならないのか、何が欠けているのか、できることでありながら実践せずに、逆に地獄を作る手伝いをしていたことがいかに多かったか、自分の生活に照らして考えなくてはなりません。 (参考 故盛永宗興老師の著書)