BUCKNUBER・・・・・・ 【前頁に戻る】   


【2010年3月のコラム】鍋料理
 私が子どもの頃は、鍋物と言えば水炊きでした。鶏の骨付きぶつ切りを鶏がらスープで煮て、野菜を入れほとんど味をつけないで薬味の美味しさをプラスして食べるのが普通でした。九州では、それがごく普通の鍋物です。高校のとき、修学旅行の宿で食べた水炊きもまさに我が家と同じ味でした。
●結婚して夫の親戚のうちに遊びに行った時、たまたま鍋料理が出され、そのだし汁に味がついていたのには驚きました。料理上手のおばさんの味付けは絶品です。そのとき、初めて味のついた鍋料理を食べたのです。そしていろんな鍋の味があることを知ったのです。それまで私の作る水炊きを、夫の家族は文句も言わず食べてくれていましたが、きっと物足りなかったことでしょう。
●それからは、味噌味やしょうゆ味など、薄味をつけていろんな肉や魚や貝類などで鍋を作るようになりました。
●今でこそ、TVの食べ歩きで全国各地の味が紹介されていますが、西と東そして北の食文化の違いは、まだまだあるのです。


【2010年2月のコラム】節分
まもなく節分、子ども達は鬼を見て本気で怖がり、大人たちはそんな子どもを楽しそうに見てはからかい、家族や地域が一つになる立春の前のひと時です。
子どもたちが小さい頃から、我が家では大きな声で「鬼はー外、福はー内」と窓を大きく開けて叫ぶのが慣わしでした。節分でも近所からはそんな声があまり聞こえることも無く、ちょっと恥ずかしかったものです。翌日の庭には、豆を見つけて野鳩が来ていました。
今からちょうど10年前の2月の初め、私の両親と子どもたちで鎌倉までちょっと遊びに行きました。たまたまその日が節分だったので、鎌倉駅のそばで昼食を食べた後、鶴岡八幡宮に寄ってみました。午後2時から豆まきがあるとの事で、静御前が舞を披露した舞台の前に行くと、大勢の人たちが集まっています。年男・年女が豆まきを始めると、みんな真剣に和紙の小袋に入った豆を拾いますが、なかなか拾うことが出来ません。フード付きの上着を着ていた娘が、必死に豆を追い、幾つか拾うことが出来ました。大学入試の発表を待っていた息子にとって、幸を手にしたと感じた瞬間でした。八幡宮の豆の袋には印がつけてあって、当たりの商品があるのです。残念ながら我が家の豆は当たりませんでしたが、後日息子は大学に合格、福を手にすることができました。
その2週間後、母は余命宣告を受け、八幡宮でのあの節分の思い出が、ずっと忘れられない楽しい一日になりました。
今では、家から離れて暮らしている娘も、自宅で大声で豆をまいているとのこと、今年も頑張って福を呼び込んで欲しいものです。  Akiko.K


【2009年11月のコラム】チャイナ服
 
私は、チャイナカラーの洋服が大好きです。夏のブラウスやワンピースの襟元など、チャイナテイストの漂うあの曲線が気に入っています。
それを知っている娘がシンガポールから買って着てくれた赤い生地に刺繍のついたスリムなチャイナブラスは、大好きです。
最近ふと思い出したのですが、その原点は遠い昔の学芸会にあったのです。長崎は以前にも書いたとおり異国人の多く暮らす町、中華街があり、ちゃんぽんや皿うどん、卓袱料理など中国の文化が漂っています。◇小学1年生の学芸会で踊ったのが、チャイナ娘の曲でした。ピンクのサテン生地で作った本格的なチャイナパンツと上着を着て、お下げ髪のつけ毛を着けてポーズをとった写真が確かあったはずです。
数名のこのチャイナ服は、叔母が作ったものなのです。専門家だけあって、飾りボタンまで手作りで全員のものを一人で作ってくれました。たぶんそのときの嬉しさが、私のどこかにずっと残っているのでしょう。
最近、趣味のコーラスで新しいコスチュームを作ることになった時、迷わず選んだパターンがチャイナ服でした。まだ完成していませんが、来春このコスチュームを着て歌うのが楽しみです。   Akiko.A


【2009年10月のコラム】 10月になると
10月Octoberのこえをきくと、思い出す光景があります。
40年もまえのこと、9月の中旬から10月にかけて、私の学生生活は教育実習で夢中な時期でした。日々授業の準備に追われ、自分の実習の時間が終るたびにほっとしていたものです。ある日、クラスの女の子が大きな丸いケーキを学校に持ってきました。ケーキといっても、フルーツのたっぷりと入った硬めのパウンドケーキのようなものです。デコレーションの代わりに上面はたっぷりのフルーツや甘い砂糖のペイントで飾られて、今まで見たことの無いものでした。ケーキ全体からシナモンの香りが漂います。その女の子は、9月にドイツから帰国して、私の実習を受け持ったクラスに転入したばかりでした。
大きな丸いケーキを、切り分けて食べることになりました。算数の教え方を勉強していた私に、担当教官が「これは浜崎先生(私の旧姓)にみんな同じ大きさになるように切り分けてもらいましょう。」といったのです。四十数人分に切り分けるのに、ドキドキでした。何よりも驚いたのは、ドイツでは10月になるとOctober Festivalという大きなお祭りがあり、その大きなケーキを切り分けながらひと月以上も食べて楽しむそうです。そんなに長持ちするお菓子に驚いたのと、初めて味わうシナモンのケーキの美味しかったこと。そして、そのときの女の子が、私がその後しばらく一緒に勉強することになったケストナーをドイツ語で読んでいたRちゃんなのです。 Akiko


【2009年7月のコラム】 家の間取り図

横須賀に暮らして30年ほどになりますが、長崎に生まれてから今まで8軒目の住まいです。長崎・因島6区・因島4区・川崎・横須賀・横浜(尾道向島・大崎上島)・横須賀と、小さい住まいからテラスハウスや、旅館のように大きな社宅、そして自宅まで、どこの間取りもはっきりと覚えています。
中学1年の時、技術家庭の授業で間取り図の描き方を勉強しました。技術の教科書が何故か大好きで、教科書の隅々まで勉強するというよりも眺めていました。自分の暮らしている場所が、平面のノートに描かれた瞬間から、それが立体に見えてくる魅力に取り付かれたのでしょう。大人になるまでそのことに気付かなかったのですが、二十歳前後に自宅を建てると決まった時、今までに暮らした家や、訪問した友人宅など、いいなと思っていた様々な間取りが、図面になって頭を駆け巡り、父にいろんな提案をした時、私ってこんなことが好きだったんだなと再認識したのです。
それ以来、新聞のチラシの中に、住宅案内やマンションの間取りが入ると、まとめておいてゆっくり眺めて楽しんでいます。
これを機に、今までの暮らした家の間取り、忘れないうちに書き留めておこうかなと思います。 Akiko.A


【2009年6月のコラム】

私が生まれた母の家は、水道が無くすべての生活水は、家の前にある大きな井戸でまかなっていました。海のそばでしたが、とても美味しいお水が湧いていました。祖父は、朝早く大きな甕に一日に使う水を井戸から汲みため、そのあと五右衛門風呂に水を一杯に張ります。甕は、私が入ることの出来るくらい大きなものが3つほど台所にありました。井戸は、柄杓で汲むことができるほど水量が豊富でしたが、一度にたくさん汲むために、つるべもありました。井戸の周りには広く石が敷いてあって、祖母は、野菜を洗うのもお魚をおろすのも井戸端でした。井戸はとても大切に扱われていて、使わないときは板で蓋がしてあり、お正月には御餅をお供えしました。
瀬戸内で過ごした子ども時代、水はとても貴重で、祖父母の家の甕の代わりに我が家には大きなブリキのバケツが2つありました。レストランで使う寸胴鍋のような形のバケツです。雨の少ない瀬戸内は、夏の時間断水は当たり前です。母は、水の出るうちに台所仕事をまとめて済ませ、大きなバケツにたっぷりの水をため、それでもたりないので、定期的に回ってくる給水車から、どのうちでもバケツをかついて水を運びます。昔からある家には井戸があったので、たりない時は快く分けてくれていました。
神奈川に引っ越して、母は水道料金が安いので間違いではないかと思ったそうです。私も、水道料金が住む場所の事情で違いのあることを初めて知りました。
お水を買う時代になりましたが、私の住む横須賀は水のとても美味しい町、水のありがたみを子供のころから身にしみて感じて育った私は、水道水で美味しいご飯もお茶も楽しんでいます。   Akiko.A


【2009年5月のコラム】先 生

私が小学生の頃は、毎年クラス替えがあり6年間に6人の先生が担任になります。そして今のように専科がなく、男の先生と女の先生のクラスが交代で家庭科を教えたり音楽を教えたりしていました。
そんな中で、5年の時の担任のO先生は、子供にとってはスーパーマンのような先生でした。近所の公舎に暮らしていたので、学校以外でもよく見かけるのですが、学校にいるときの先生は、輝いて見えました。
最初に驚いたのは、体育の授業での「走り高跳び」、短パンにランニング姿で、子どもの背丈をゆうに飛び越して飛んで見せたのです。みんな歓声を上げて大喜び、男子はあんなに高い棒も飛び越せることを知り、何度も飛ぶ練習をしていました。私は、ただただおどろくばかりです。今なら、オリンピックや世界陸上のスポーツ中継で、見慣れた高さですが、今でも自分で見本を見せられる先生は、そんなにいないでしょう。
スポーツ万能で、町の運動会では、成年の部で必ずリレーのアンカー、どんなポジションでバトンを受け取っても、ゴボウ抜きでゴールです。町のヒーローでもありました。
そしてもう一つ、私の大好きな歌がとても上手かったことです。若い日の藤山一郎のようなハリのある歌い方で、音楽の教科書にある歌を歌ってくれました。ますます私は、歌が好きになりました。
5年の12月、祖母が危篤で熊本に行くため2週間ほど学校を休みました。帰ったらすぐに2学期の終わりです。疲れの出た母は、始めてクラスの懇談会に出られず、私は先生のお宅まで通知表を貰いに行きました。「お母さん、具合悪いの?」と、母の体調を気遣ってくれた言葉は、今も忘れません。
島を離れてから、先生の子どもさんが事故で亡くなられたと聞きました。あんな素適な先生が、その後幸せな人生を送られたらと思います。         Akiko.A


【2009年4月のコラム】読書の始まり

  前回の本の記憶を紐解くうちに、私の読書の記憶もよみがえってきました。
東京の中学に転校して、本好きの友人に出合いました。まず手に取ったのが「赤毛のアン」誰もが手にするものですが、読み進めるうちに次々に続編にもすすんで、とても読みやすかった気がしますが、内容はあまり覚えていません。それからは、「図書室」で、手当たり次第読みあさり、その中でもケストナーの児童文学にすっかりはまりました。『点子ちゃんとアントン』『二人のロッテ』など、どれもとてもおもしろいものでした。
高校に入ってからも、また本好きの友人とめぐり合い、彼女は海外の冒険小説好き、いろんな本を次々に貸してくれました。私もすぐに影響を受け『モンテクリスト伯』シリーズを読破しました。それからは、自分の気分の向くまま本を読み続け、現在に至っています。
大学生の時、ドイツから帰国した小学生Rちゃんのお宅で勉強のお相手をしていました。本箱には、いろんな本が並んでいましたが、『二人のロッテ』をドイツ語で読んでる彼女をみて、とても懐かしくそして同じ内容を共用している私たちに、不思議な共通点を見たおもいでした。
そして今、私がお気楽な読書の合間に手にしているのが『Anne of Qreen Gables』原点に戻って、忘れてしまったアンの生活に易しい英語で触れています。   Akiko.A


【2009年4月のコラム】本との出会い
  私が3歳くらいだったと思いますが、父が因島の造船所に職を得て、長崎から引っ越しました。新しい社宅の建設中で出来上がるまでの間、近くのYさん宅の2階に仮住まいをしていました。母の病気も小康状態、私も生まれてから初めての家族3人での暮らしだったと思います。Yさんのお家は、昔からの名のあるお宅で2階には立派な床の間がありました。間借りなので、台所もトイレも全て下の階で借りる生活、おばあさまがとても料理好きで、母も色々教えていただき、私もかわいがってもらいました。
そんなある日、父が私に絵本を買ってきてくれました。「ももたろう」か「はなさかじいさん」、小さな私の記憶では、鮮やかな表紙の薄い本です。嬉しくて嬉しくて、何度も何度も読んでもらっていました。いつも放さず持っていたその本、ある時、偶然にも運悪く床の間の小さな隙間に入り込んでしまいました。取り出そうとするとどんどん入り込んで、どうしても取り出すことができません。その後のことはよく覚えてないのですが、かなり長い間あきらめることができなかったのではないかと思います。「家を壊すまで、取り出せないね」と、私に父と母は言いました。確かにそのとおりです。
私の記憶にある初めて出会った本は、そんなわけで私の幼い記憶の中に、表紙の鮮やかな絵とともに消えないで残っているのです。
Akiko.K


【2009年3月のコラム】私の祖父
母の父、つまり私の祖父は長崎に暮らしていました。生まれてからの数年、祖父母の元で暮らした私は、祖父母が大好きでした。とりわけ祖父を尊敬していました。
兄弟姉妹の多かった母は、「とても厳しい父」といつも話していましたが、私はしかられたことがありません。五右衛門風呂に入るときは、火傷をしないようにいつも湯加減を見てくれたり、胃腸の弱い私のことを心配して、びわの実も甘煮にしてくれるような祖父でした。
長崎市内に出かける時は、ソフト帽をかぶりステッキを持って、まるでイギリスの紳士のようでした。私の使うものは、ほとんど祖父が選んでくれました。とてもセンスがいいのです。聞いたところによると、母たちの持ち物も見立ては祖父だったとのことです。菊作り、と歌を聴くのが趣味で、箱型の電蓄でいろんなレコードを聴いていましたが、私も「上海帰りのリル」を何度もきいているうちにすっかり覚えて、よく一緒に歌ったものです。
不思議なことに、祖父はいつも家にいて、職業が何かを知りません。ただ、自宅ではしょっちゅう人が集まり、おばさんたちが御詠歌を歌いにきたり、ある時は、おばさんが、やいと(お灸)を持って来て、家族の頭に焙烙をかぶせてその上にもぐさを置いて火をつけたり、今では意味の分からないことがたくさんあった暮らしでした。
長生きでしたが、最後までニコニコした顔を私に見せてくれました。私の性格形成にとてもいい方向付けをしてくれた祖父です。     Akiko.K


【2009年2月のコラム】駅弁
出張の多かった父は、必ずお土産を買ってきてくれました。その中でも島にいると縁のない駅弁は最高のお土産でした。当時は駅弁といえば幕の内弁当、経木の折り箱に入ったご飯や煮物は、独特のいいにおいがして、旅の気分が味わえたものです。
そのなごりか、各地のデパートで催される『駅弁大会』は、毎年はずせません。川崎に住んでいた高校生の頃は、そんなに盛んではなく新宿の『京王デパート』まで母と出かけていました。3人家族なのでたくさん買いたいものがあってもせいぜい4個です。〔八戸の小唄寿し〕、そして〔森のいかめし〕は、はずせません。〔小唄寿し〕は三味線のバチの形をしたへらで、押し寿司を切り分けて食べるのです。今でもあるのでしょうか。そのうちに横浜でも開催されるようになり、出かけやすくなりました。
駅弁も流行があって、釜飯がはやったり、二段重ねのお弁当が目立ったり、キャラクターのお弁当箱に入っていたり、肉弁当が各地で作られたり、海鮮もので競ったりと、眺めるだけで、作る人たちの影の努力が見て取れるものばかりです。食べること以上にそれが魅力なのかも知れません。
結婚してからは、子供たちとお正月に出かけて10個ほど抱えて帰ったものです。そのうちに地元のデパートでも『駅弁大会』が恒例となり、チラシを見ながら好きなお弁当をチェック、電話予約して、楽しみました。そんな日々が長く続きましたが、今年は子どもたちが独立し、3人暮らしになったので、買ったお弁当は4個です。思えば私と駅弁とのかかわりは50年近く続いています。
家族構成が変わっても、私の駅弁へのこだわりは、一生続くことでしょう。
 Akiko.K


【2009年1月のコラム】辛子蓮根
我が家のおせち料理に定番ののり巻き、そのほかにも我が家では必ずお正月用に作る料理があります。それは辛子蓮根、蓮根の穴に辛子と練り味噌を混ぜたものを詰めて、てんぷらのように揚げたものです。食べる時は、それを薄く輪切りにします。
熊本で育った父は、これが大好物、でも手間がかかるし大きな蓮根を一節そのまま上げるのですから、なかなか家庭では作らないものです。熊本で食べていた味が忘れられないらしく、母が見よう見まねで作り始めたのがそもそもの始まりです。一度食べたものの味を再現できるという母の器用な料理好きがなければ、辛子蓮根は熊本のお土産でしか食べることはできなかったでしょう。
市販のものは、衣が黄色くて蓮根に張り付いています。これは衣にソラマメの粉を使うとの事、でも私は小麦粉でてんぷらのように揚げたちょっと穴から出てきた味噌が焦げていそうな我が家の辛子蓮根が大好きです。
物産展などで売られている物を見ると、値段も高くまるで保存食のように硬い衣で覆われています。手作りの味に、私も来年こそは挑戦してみたいと思います。 Akiko.K


【2008年11月のコラム】里の秋
〜♪〜しーずかーなあ しーずかな さーとのあーき〜♪〜
わたしの大好きな歌の一つです。
この歌を初めて聴いたのは、今から50年以上も前、長崎県香焼島の公民館のようなところの板張りの大きな部屋でした。きっと、子供のための集会だったのでしょうか。お楽しみのいろんな催しがあり、その中で高校生くらいのお姉さんが、ア・カペラでこの歌を歌ってくれました。「なんてきれいなメロディーなんだろう」と、1年生の私は思いました。難しい言葉もたくさんあったけれど、小さいながらも秋の空気を感じることが出来ました。
何よりも、お姉さんの歌がとびっきり上手かったのです。あんなに上手く歌ってみたいなとそれからずっと思い続けていました。それは今も変わりません。
昭和30年、戦後まだ10年しか経ってないのです。2番も3番も、戦地にいったお父さんの無事をお母さんと娘が祈るという内容、歌ったお姉さんは、心当たりがあったのかも知れません。そんな歌詞の意味をしみじみと感じたのは、ずっと大人になってからのことです。
秋になると口ずさむこの歌、聞いたころのこと、そして歌ってくれたお姉さんのこと、公民館の板のいろまで、一枚の写真のように思い出します。      Akiko.K



【2008年10月のコラム】雨降り
 雨が降ると思い出すことがあります。長靴を履いて、水溜りを探しながらピチピチチャプチャプと歩くと、時間のたつのも忘れてしまうほど、子供の私にとって雨は魅力的でした。
 でも水溜りの出来るような凹みは、歩く人や自転車で通勤・通学する人たちにとっては厄介なものです。転んだりハンドルを取られたり、そこで自宅の前にそんな凹みが出来ると、みんな工夫をして平坦にします。そんな時に活躍したのが、アサリやニシなどの貝殻です。貝を食べた後の殻は大切なもの、大きめなものは適当に足でつぶして、気になる穴に埋めます。そして、その上から平らになるように踏みつけてならします。雨の日は、好んでそんな水溜りを歩くと、貝殻のつぶれるシャリシャリとした音を楽しんだものです。
 また、学校にいる間に雨が降ると、家族が傘を持ってきてくれたものです。隣近所の子のぶんまで引き受けて、何本もの傘を持って、学校中を回るお母さんもいました。一日に何度も「コンコン」と、教室のドアをノックしても、教師は笑顔で傘を受け渡してくれたものです。ちょっとした授業の中断に子供たちは、ほっと息抜きしたりして・・・。
 最近、庭や公園、河川敷それに街路樹の植えてある小さなスペースを除くと、ほとんどの場所が舗装されて土を見ることがなくなりつつあります。水溜りが出来るようなでこぼこ道がなくなってしまいました。折りたたみの傘を置傘して、傘を届けることもほとんどなくなりました。ぴかぴかの原色の長靴を履く楽しみも子供たちにはないのかなと思うと、「あめふり」の歌詞もなんだか遠い昔の情景のようです。         Akiko.K


【2008年9月のコラム】発明少年
 小学校の頃、近所には異年齢の集団がありました。それも十数名の大集団です。集団登校をしていたわけではないのに、徒歩圏内の子供たちは全員が友達です。今思えば、すごく幸せなことです。
 遊びの内容によって、自然に小さな集団に分かれます。その中で、ちょっと変わった少年がいました。一緒に遊ぶ仲間というよりも、周りの子供たちから尊敬の気持ちで見られていたような気がします。近所の大きな蓮田を持っているお宅の少し年上の男の子、活発ではないのですが、その少年が外にいると、皆が周りを囲むのです。
 いろんなことを考えるのが好きで、特に電気に強く、自分で扇風機を作ってみたり、あるときは、モーターを回してホースでごみを吸い取る掃除機のようなものを作って、皆に見せてくれたりと、それはそれは見事なものでした。あの頃は、冷蔵庫も氷式、洗濯機も珍しく、テレビは限られた家にしかありませんでした。電気製品の王様はラジオでしょうか。
 そんな時代に、モーターを使った見たこともないようないろんな品物をどんな風に作っていたのでしょう。あの頃はすごく年上のお兄さんのような気がしていましたが、冷静に記憶をたどると、小学校高学年だったと思います。その後どんな人生を生きてきたのか、聴いてみたいものです。 Akiko.K


【2008年8月のコラム】盆踊り
私の父は、盆踊りといえば炭鉱節、子供のころよく教えてもらったものです。
 因島の盆踊りは、ちょっとその辺では見られないようなすごく賑やかなお祭りでした。盆踊りを行なう中学校の校庭は、とても広くて体育教師が国体に出るために槍投げの練習をしていたほどのものです。
 その真ん中にやぐらが作られ、提灯が四方に張られて、お店も周りにたくさん揃います。ここまでは、どこにでもあるような盆踊りの準備風景、ところが本番が始まると、やぐらの上では太鼓をたたいて踊りの上手い人たちが楽しそうに踊り、下の輪も二重三重に回ります。そして子供も大人も浴衣を着て、楽しそうに踊ります。
 メインは、浴衣姿に混じって行なわれる仮装です。芝居の格好をした大人や、猿や犬の手作り着ぐるみをきた子供など、見ているだけでとても楽しいものです。そして最後には審査が行なわれ、その年の仮装大賞のようなものが決まるのです。
 私の友人は、小学生ですが踊りがとても上手く、日本舞踊を習っていました。その子が毎年いろんな格好をして、上手い踊りを披露します。同じ盆踊りとは思えないほどです。
 今でも覚えているのは角兵獅子、頭に被り物をして手甲きゃはんをきりりと締めて、踊る姿は、だれが見ても一等です。彼女の一家は、毎年かっこよく盆踊りを盛り上げてくれました。
 大人になって会った時、小学校の教師になったと聞きました。得意の踊りを披露する機会があったのか聞きたいものです。  Akiko.K


【2008年7月のコラム】ペット−その2
 木の上の猫も、木の下の犬もたっぷりと粘り、犬があきらめたところでやっと子猫が駆け降りて落着です。
 その日から、子猫は毎日我が家の庭で過ごすようになりました。道を一本隔てただけの飲み屋さんの猫なので、いつでも自分の家に帰ることが出来るのですが、日中いっぱい過ごしそのうち帰らなくなってしまいました。仕方ないので、連れて行くとすぐにまた戻ってしまいます。毎晩お店からは流しのお兄さんがギターを弾きながら歌う演歌が聞こえてきますが、しらんぷりです。「かわいがってくれるならあげるよ」とのおばさんの一言で、我が家の一員に。
 飲み屋さんで飼ってただけあって、口が肥えています。ネコマンマなんて見向きもしません。色々ためした挙句、駅前の魚屋から買ってきてたマグロのあらと血合いをまとめて煮ておいて、少しずつ与えることにしました。
 名前を色々考えましたが、初めについていたのが〔チーコ〕なのでそれ以外は受け付けませんでした。一番のお気に入りは、餌をくれる母、そして私、母と私が留守の時だけ父の足に擦り寄ったそうです。8年ほどの命でしたが、彼なりにとてもかわいがられて、私たちを幸せな日々を、たくさんくれました。
 ネコの後は、また鳥、今度はセキセイインコです。羽根の色がきれいで、人にもなれてこの鳥は、引越しもクリアして、尾道や大崎上島で暮らし、横須賀に戻る直前、朝起きたら籠の中で冷たくなっていたと母から聞きました。
 その後、子供たちと一緒に虫やハムスターなど色々飼いましたが、大人の世話に手がかかりペットどころではない生活が続いています。そのうち夫の好きな犬を飼える日が来るかなと思っているのですが・・・。                Akiko.K


【2008年6月のコラム】ペット−その1
 私が小さい頃は、そばにいつも猫がいました。昔は、三毛猫が一番人気だったらしく、当然のように祖父母の家にいたのも三毛猫でした。ペットというほど、今のように面倒を見ていたのではなく、人の生活に溶け込んで一緒に暮らしていたという記憶があります。食べるものも人が食べた残り物で、よく骨を喉に引っ掛けて取るのに苦労していたものです。
 両親と暮らしていた頃は、3人の生活が全てでしたが、母がちょっと寝込んだある日、知人が十姉妹のつがいを持ってきてくれました。お見舞いに生き物というのも珍しいのですが、当然その日から鳥を飼うことになりました。当面のえさと籠も一緒に頂いたので、世話の仕方を教わり、必要以上に手を掛けてかわいがりました。そのうち、手乗りになり、名前のとおり、何度も卵を産みました。頂いたのは、ちょっと薄い茶色の毛が混じったものと、黒い模様の2羽でしたが、雛は、真っ白や黒の多いもの、茶と黒の混ざっている三毛猫のようなものなど、模様の出方もおもしろいものでした。
 それから、すっかり鳥好きになりましたが、転勤のため広島から神奈川まで一泊二日で鳥を連れてくることも出来ず、近所の方に飼っていただくことにして、鳥たちと別れました。
 川崎で暮らし始めて1年ほど経った頃、我が家の庭の木に、となりの犬に追いかけられた近所の猫が登ったまま、下りられなくなってしまいました。悪い犬ではないのですが、よくほえておまけに猫はまだ子猫、ぶるぶる震えて大変です。猫好きの私の家族は、気が気ではありません。その猫の運命やいかに? 次回に続きます。    Akiko.K


【2008年5月のコラム】柏餅
  端午の節句もまもなくというある日、友人からとてもおいしい柏餅をいただきました。小さな町の和菓子屋さんのもので、草餅を若い柏の塩漬けでくるんでありました。滑らかなこしあんがちょうどいい甘さです。
  柏の葉、とても変わった形をしています。初めてこの葉っぱを見た時、これは作り物では思ったほどです。私が育った瀬戸内でも、両親のふるさと九州でもこんな葉を見たことはありません。私が子供のころから親しんでいる柏餅の葉は、大人の手のひらサイズで、つやのある緑の丸い葉っぱでした。ずっとこれが本物と信じていました。
  関東の人は、そんなこと信じられないでしょうね。後で知ったことですが、私が柏と思っていたのは、「サルトリイバラ(殺菌効果があるのは柏の葉と同じです)」の葉だったのです。柏の木は、日本中どこにでもあるわけではないので、代用品で作っていたのでしょう。
  日本中を1日で駆け巡るほどの流通がスムーズになった今では、きっと全国で同じタイプの柏餅が作られていることでしょう。子供のころ食べた丸くて平たい柏餅を食べてみたくなります。
 
雛の節句の桜餅も、関東と関西では名前が違います。 Akiko.K


【2008年4月のコラム】お花見
 3月の中ごろ咲き始めた桜が満開、みんないろんな仲間といろんな場所でお花見を楽しんでいます。いつ頃からこんなにお花見が盛んになっのでしょうか。
 江戸の昔、吉宗が庶民に楽しみを提供して世の中の不平不満を薄めるために染井吉野をいたるところに植えて花見の名所を作ったという話は有名ですが、私が子供のころは、お花見の経験がありません。家の近くに見事な桜が咲いていた記憶もないのです。
 春になると、お弁当を持って、土筆やツワブキを摘みに出かけたものですが、そのときもお花見は目的になかった気がします。
  40年前の4月の中旬、少し遅い大学の入学式の日、東門からの長い山桜のトンネルを通ったとき、初めて桜の素晴しさを実感しました。とても遅いお花見の記憶です。花が白っぽくそして若葉が花の間から黄緑の柔らかい色を覗かせて、なんともいえない素晴しい光景でした。 
 そして社会人になった日、多摩川台公園でお花見の仲間に加わり、お花見も春の行事の一つになりました。
 8年前の2月、世の中で河津桜が少しずつ知られるようになった頃、母が「一度見てみたいわね」とTVを見ながら話しました。私は、なんだかせかされるように、両親と子供たちと伊豆の河津に出かけ、満開の河津桜に出会うことが出来ました。母とのお花見は、これが最後になりましたが、それ以来、何度も河津の桜に会いに出かけています。
 子供のころは記憶にないほど自然に目の前にあったかもしれない桜、今は一つ一つの花を観察するように眺めている私です。 Akiko.


【2008年3月のコラム】映画−その2
 「ファンタジア」が再放映されると聞き、迷うことなく家族で横浜の映画館に出かけました。一番初めにこの映画を見たのは、私が小学生の頃でした。町に一つの洋画のロードショーを上映する映画館へ、父母と出かけました。行くまではどんな映画を見るのかは分かりません。始まるとまずオーケストラの音楽の厚みと映像に合わせて踊るディズニーの仲間の動きに驚き、目が離せなくなりました。今はキャラクターと言いますが、その頃は、魔法使いのミッキーも、きのこの踊り子も、まるで生きもののように感じました。影絵で登場するレオポルド・ストコフスキーの華麗な指揮、全てが今までの映画とは違う感動を覚えたことをわすれません。台詞があるわけではないのに、こんなに不思議な映画はありませんでした。
 それから、ウィーン少年合唱団の歌が全編に流れる「野ばら」「菩提樹」、ア・カペラのハーモニーの素晴しさ、私の音楽好きの原点は、このときの感動とともに生まれたのです。
 その後、数々のミュージカルに酔いしれ、父の好きなオードリーヘップバーンの魔力に私もすっかり取り付かれ、大人になって友人と見る映画も、子供のころと同じ傾向でした。
 映画音楽=全編に流れるテーマ曲ということではなく、映画の中から見つけた自分の大好きなハーモニーやリズム、そしてメロディー、そんな断片的な音楽の知識が積み重なって、今の私の何でもありの音楽大好き生活があるのです。       Akiko.K


【2008年2月のコラム】映画−その1
 我が家では、子供が小学生までは、暮れの忙しい時期に映画を見るのが恒例になっていました。お正月になって気持ちも新たに出かければと思われるでしょうが、暮れのほうが映画館はすいているのです。それに、皆が忙しく大掃除をしている時に、ちょっとオシャレをして出かけるのはとても気分のよいものです。
 まずは、大人も子供も、それぞれ早めに手早く大掃除に取り掛かります。12月に入ると、網戸洗いから障子貼りまで計画を立て、休みの日には子供の手をたっぷりと借りて、全ては暮れの映画見物の日まで頑張ります。さて、12月27〜29日あたり、ちょうど掃除が終り、御節を作るには早すぎるので、毎年このあたりに照準を絞り、ほとんど計画通り掃除が進むのです。
 近所にも映画館はあるのですが、非日常を求めて横浜まで出かけます。近所ならオシャレをする必要もありませんが、横浜までとなると少しこぎれいな格好が似合います。見る映画は、子供がうんと小さい頃は、変身物やドラえもん、少し大きくなると、洋画です。今のように日本語吹き替えがないので、みんなの邪魔にならない席に座って、字幕を読んであげます。読んでるこちらは、見た気がしないまま終わることもありますが、皆で見られたという喜びのほうが大きいのです。
 あるとき、ディズニーの「ファンタジア」が、再放映されました。この映画にはとても懐かしい思い出があります。今から50年も前、私が幼い頃、あまりの美しさと魔法使いの弟子に扮したミッキーの生きているような振る舞い、そして全編に流れるスケールの大きな音楽に心を奪われ、夢にまで見た記憶があります。映画の好きな父の影響が、ずっと受け継がれているきっかけが「ファンタジア」なのです。(次回へつづく)  Akiko.K


【2007年12月のコラム】母のおやつ

母は、手作りのおやつが得意でした。といっても駄菓子以外はすべて手作りでなければ食べられないような田舎暮らしですから、必要に迫られたからでしょうか。豚饅頭・電気釜のスポンジケーキ・ホットケーキにミルクセーキetc…

豚饅頭は、父も大好物で町のパン屋さんからイースト菌を分けてもらってこたつで発酵させて作っていました。そしてホットケーキは、アメリカで育った父の懐かしい忘れられないおやつなのです。父は、私が作るホットケーキを、今でもハッツケーキといって喜んで食べます。
ちょっと季節外れな話題ですが、私が一番好きだったのは、ミルクセーキです。氷のジャーに入れる新鮮な氷が配達されてくると、その一部をアイスピックで大きく削り、それを根気よく1cm角位まで割っていきます。今ならミキサーでひと回しすれば出来ることですが、当時は氷を砕くだけでもひと仕事です。小さくなった氷に卵と牛乳とそれにお砂糖を加えて、泡だて器でよく混ぜ合わせます。その過程を見ながら待っている時間がまた楽しいのです。出来上がったミルクセーキを友達と飲む時の幸せな時間、母は本当に何でも出来るなとちょっと得意にもなり、感心したものです。今私がミルクセーキを作っても、こんなに丁寧な仕事は出来ないでしょう。いくつになっても母の手仕事の見事さには追いつけません。
 そして、電気釜で作るケーキ、おやつというより日曜の昼食によく登場しました。15cmくらいの高さに膨らんだ今のシフォンケーキのような感じです。出来立ての暖かいケーキ、いい香りがしました。創り方を聞くことも出来ないままになってしまったのが、とても残念です。 Akiko.K


【2007年11月のコラム】 ごみの収集(生ごみ

私の暮らす横須賀では、ごみの分別方法が細かく決められています。生ごみ・容器包装プラスチック・不燃ごみ・ビン・缶・ペットボトル・布・紙ダンボールetc・・・分別が始まった頃はとても煩雑な作業でこんなことが続くのかしらと思いましたが、今では自然と日常の家事に組み込まれています。
○何故こんなに細かい分別が必要なのか、燃やすと害のあるガスの問題、資源のリサイクル、埋立地の限界など様々な問題を含んでいます。
○私が子供のころは、こんなに切実な問題はありませんでした。自宅の前には、コンクリートで出来た箱型のゴミ箱が置かれていて、木のふたが付いています。ごみと思われるものはこの中に捨てます。新聞は今のように分厚い広告で太ってなく、スリムで朝刊のみ、お醤油や酢それに酒はビンを持って買いにいく時代ですからペットボトルはありません。お肉屋さんで買い物をすると経木に包んでくれて、八百屋や魚屋で使っているのは、いまでは石焼芋屋さんしか使ってないような新聞紙のリサイクル袋です。ポリ袋もなく、買い物籠を皆が使っていたのですから、一週間のごみも生ごみをのぞくとごくわずかです。
○問題の生ごみですが、集合住宅の一角に一斗缶が数個置かれていて、各家庭で出た野菜くずなどはざるで水を切って、その中に捨てます。夕方になると、養豚農家が豚のえさにするために集めてまわるのです。究極のリユースです。夏はスイカの皮ですぐに一杯になってしまいます。豚も季節感のあるえさを食べていたものです。

○便利になった今の時代、少し前の時代に戻っていろんな暮らしを思い出し、「昔は良かった」との感想にとどまることなく、一歩進んで次の世代に便利ではないけれどスリムな暮らしの大切さを伝えることが必要かなと思います。


【2007年9月のコラム】 船で暮らす子供たち

○私が小学生のころ、隣町にはたくさんの漁師の人たちが暮らしていました。バスから見える港にはあまり大きくない漁船がいつもたくさん停泊していました。晴れた日には、甲板に洗濯物が揺れています。
私の組にも漁師の子供がいました。弟や妹を連れて登校する子、あまり学校に姿を見せない子など、いろんな事情を抱えていました。
ある日、先生と一緒にお休みしているクラスメイトを訪ねたことがあります。病気でもなく、学校に行きたくないわけでもないのです。学校を休んで、親の仕事を手伝っているのです。その子の家は漁船、家族みんなで船で暮らしているのです。学校ではほとんどしゃべらないその子は、船の上では実に明るく、イキイキとしているのを見て、驚いたものです。
本当は学校に行きたかったのかも知れませんが、親と一緒に一日中過ごして、見方によっては親の愛情いっぱいに育っているように思えます。
きっと今頃は、いい漁師さんになっているかしらと、みんなが生活に追われていたあの頃を懐かしく思います。 Akiko.


【2007年8月のコラム】 大久野島

 夏休み、子ども会主催のキャンプが恒例でした。鍋に飯ごう、お米に食材を手分けして持参し、かなりの大人数です。ある年、船で大久野島に新しく出来たキャンプ場に出かけました。この島は、ふだんから毒ガスの島といわれていました。
新しくキャンプ場として整備され、普通の人が行けるようになったばかりです。澄んだ池があり、とてもきれいな場所でした。池で泳いだり、大きな鍋でたくさんのカレーを煮込んだり、楽しい時間を過ごしました。
この島が、昭和の始めから終戦直前まで、本当に毒ガスを作ってそれを日本が使用したと知ったのは、ずっとあとになってからのことです。近所に住んでいた私たちでさえ知らなかったこと、きっと日本人の多くが知らない事実なのでしょう。今では、以前よりもずっときれいに整備され、宿泊施設も完備されていると聞きました。この島がなぜ毒ガスの島と言われていたのか、当時なんの疑問も持たなかった自分の幼さを、いまさらながら恥じています。
3人家族だった我が家では、当時キャンプのために特大の鍋を買いました。私が結婚をして実家に子供をつれて帰ると、母が必ずその鍋でたくさんのおでんを煮てくれていました。四十数年経った今でも、その鍋は竹の子を茹でるのに重宝しています。 Akiko.


2007年7月のコラム】桟 橋

 私が生まれた長崎、そして育った瀬戸内の島、桟橋はいつも身近に感じる場所です。父が学校を出ですぐに設計したのも桟橋だと聞きました。
 しっかりと広い地面があるのにぷかぷかと海に浮かんでいて、乗り換えのある港の大きなものになると、屋根も付いていて、いくつかの大きな箱が電車のように連結しています。
 桟橋は、私が大人になってから実家に帰る“はしけ(艀)”の出るところ、下をのぞくと、網ですくえそうなくらいにたくさんの小魚の群れ、ちょっと遠くの石垣には、なまこが岩そっくりに張り付いていたり、小さなイイダコが泳いでいたり、漁師の叔父さんが、バケツ一杯100円のシャコを売っていたり、単に船が着くところ以上の存在感のある場所です。
 潮が引いていても満ちていても変わりなく、一定の高さで広い地面を確保、通勤や通学のたくさんの人たちが歩いても、安定感を保ちながらも、みんなあまり意識することなく通り過ぎていきます。
 私は、桟橋に立つのも好きですが、船上から見える海に浮かんでいる桟橋の姿が大好きです。そこには、誰かを見送るおばさんの姿や、もやい縄を丸く積み上げて働く船着場のおじさんの姿がとても高い位置に見えます。
 先日、久しぶりに尾道の“はしけ”をTVで見たら、たまらなく桟橋に立ちたくなりました。             Akiko.K


2007年6月のコラム】ぶんぶん

  縫い物の得意な母のお針箱は、私にとって宝物です。便利な道具がたくさん詰まっていて、とてもきちんと整理されています。
そんな中でも、一番私が好きなものはボタン、空き瓶の中に大きさ別に分けて分厚いものから、足の付いたもの、2つ穴・4つ穴、実に様々な形と色のボタンが入っています。  
雨の日の子供の遊びは、もっぱら身近なもので遊ぶことでした。ボタンもその一つです。手ごろな大きさと厚みと重みのあるものに、ちょっと太目の糸を通して結び、両手に振り分けて持って、数回まわし続け、両手を引っ張ると、不思議なことに反動で引き寄せられたり引っ張られたりして、まるで糸がゴムに変身したかのように伸び縮みします。そのときの手の感触がなんともいえない気持ちのよさで、子供たちはいろんなボタンを親から貰って、競い合って引っ張り続けたものです。最後には、糸が擦り切れてしまうほどです。 
こんな遊びは、だれでも知っているものと思ってました。ところが最近友人数名とこの「ぶんぶん」の話になり、ほとんどの人がその存在すら知らないのです。こんな楽しいもの、是非お孫さんに教えてあげてと、まるで新しく生み出された遊び道具のごとく、友人と一緒に作ったのです。
昔の遊びは、身近なもので飽きの来ないものが多くあります。このまま忘れ去られるのはとてももったいないこと、これからも折に触れ思い出して見たいと思います。Akiko.K


2007年4月のコラム】鉛筆削り−その

  私が4年生のころ、ナイフではない鉛筆削り器が話題になりました。鉛筆をかませて、ハンドルを回すと、実にきれいに芯の長さのそろった鉛筆が削れる機械です。
  私は、それが欲しくて、お小遣いをずっとためていました。そのころのお小遣いがいくらだったか覚えていませんが、5円のくじ付きガムを買って満足していたころですから、鉛筆削り器を買えるまでには、きっとかなり我慢したと思います。
  900円たまったところで、母とバスに乗って島で一番賑やかな土生という町の文具店に行きました。ありました。くすんだピンクとくすんだ緑のボディーのコーリンの鉛筆削り器です。定価970円、70円の不足分だけ母に出してもらい、ピンクのものを買い求めました。
  帰ってから家中の鉛筆を使っては削り、母のものまで削り、立場逆転です。すごくうれしかったことを覚えています。鉛筆をかませる部分が、金属の歯になっているので、削るたびに鉛筆に歯型のような傷が付き、友達から、鉛筆をかむ癖があるのではと思われたものです。
  あれから50年近くたった今も、たくさんの引越しを経て、まだ現役で私の鉛筆を削り続けてくれています。買ってからしばらくして、私が初めて紙やすりを使って木を磨いた時、何を思ったのか金属の鉛筆削り器のボディーまで磨いてしまい、傷だらけのコーリン君です。 Akiko.K


2007年3月のコラム】鉛筆削り−その1

 セルロイドの筆箱に削りたての鉛筆をそろえるのが、私と母の夕食後の日課でした。今のようにいろんな筆記用具のない時代ですから、母は、自分の使う鉛筆を削るついでに私のものも削ってくれていたのです。
宿題を済ませると、母が紙と肥後の守とよばれるナイフを取り出して、私の鉛筆を削り始めます。母はとても器用で、料理も縫い物も仕上げの美しさは惚れ惚れとするほどです。
 鉛筆の削り方も、ナイフで削った褐色の木の部分がほとんど15ミリの長さにそろっていて、丸みも滑らか、そして芯を研ぐ時は鉛筆を手前から向こう側に角度を変えて、サッサッサと心地よい音をたてながら、1センチほどにそろえてくれます。そして筆箱に納めると、皆並んでとても美しいのです。
私が削ると、まず木の部分が均一に削れず、どうしても15ミリまでの長さに削れません。だから、芯の部分も短くなって、使うとすぐにちびてしまいます(短く減ってしまいます)。肥後の守を使って、鉛筆だけでなく木の枝やかまぼこ板など、いろんなもので練習しましたが、鉛筆削りの腕はちっとも上がりませんでした。
母の鉛筆を削る音は、私が10歳の冬に、卒業です。 Akiko.K


2007年2月のコラム】修学旅行-その2

 東京の中学に転校してからの修学旅行、そして都立高校での修学旅行は、奈良・京都方面でした。
 修学旅行専用車『ひので号』、向い合わせの席の中央にテーブルがあり、学生の旅行にはとても便利に作られている特別列車です。旅行の前、体育館での説明会の内容は忘れてしまいましたが、<♪〜ひのではーはしーるよ、うたごえーもさわやかに〜♪>という『ひので号の歌』は、同じ時代に都心で過ごした友人共通の思い出ではないでしょうか。
 中学は、往復ひので号と観光バスの旅でした。いろは旅館の水炊きは、久しぶりに西の味を思い出させてくれるものでした。
 同じ京都・奈良方面に行った高校時代、行きは3年前にできたばかりの新幹線、帰りはひので号でした。いつも食べ物とともに私の思い出はあるのですが、夕食のすき焼き、女生徒は、「おいしいね」と味わって食べたのですが、男生徒の部屋では、肉をめぐる熾烈な争いが繰り広げられていたようです。まず、出てきた肉の量では物足らず、肉屋で追加分を購入、鍋に肉を入れたら煮えるまでは箸を離すわけにはいかないという、まるでアフリカ肉食獣の食事風景です。これは、後に書かれた作文の回し読みで知った事実です。
 高校の時に流行っていた「君といつまでも」、そして帰りのひので号で聴いた「亀井勝一郎の死」、秋の萌えるような京都の紅葉とともによみがえります。Akiko.K


2007年1月のコラム】 ローストチキン

 子供のころ誕生日になると、母の作るローストチキンが楽しみで、私のお友達が集まってくれます。鶏ももの骨付き、おいしい照り焼きにして、人参のグラッセとインゲンが付いています。今思えば、これもきっと『今日の料理』の村上信夫シェフのレシピでしょう。

料理上手で丁寧な母の一皿は、まるでレストランの味のようにハイカラなものでした。
大人になってからは、アメリカ生まれの父のために、私が鶏一羽でローストチキンをつくっています。
私の会ったことのない父方の祖父は、コックとしてアメリカに移民、その後小さなペンションを開き、クリスマスになると家族のためにキッチンにこもり、ターキーのお腹にたっぷりの野菜を詰めて、ガスオーブンでおいしく焼いてご馳走してくれたそうです。私は、食べたことの無い味を想像しながら、30年近くその味を再現し続けています。
今年もクリスマスに大きなローストチキンを作りましたが、夫や子どもたちの予想通り「今年の鶏が一番旨い!」と、いつもの父の感想です。
 我が家で普段から鶏料理が多いのは、そんな私と父のこだわりにあるのかもしれません。


【2006年12月のコラム】 修学旅行-その1

車で週に一度通る鎌倉長谷は、今頃になると狭い通りが修学旅行生でいっぱいになります。駐車場のバスのナンバープレートも地方色豊かで、それを眺めながらの運転は、渋滞も気にならないほどの癒し効果があります。
私が初めての修学旅行を経験したのは、今から四十数年前の小学6年のこと、船と汽車を使っての山陰の旅でした。汽車に乗るのが初めての友人も多く、当日を迎えるまでの準備に日数をかけた覚えがあります。昭和30年中ごろとはいえ、まだまだ暮らしは質素で、旅行のために特別な買い物をすることを強く先生方に止められました。カバンは、中学に行くために用意した通学カバンを一足お先に使います。靴の裏まで点検して、はき慣れた靴であることを確認するのです。
靴では、忘れられないことがあります。母が買ってくれた白い合成皮革の紐靴、私の好きなチェックの生地が一部に縫いこまれたとてもオシャレなものでした。修学旅行に行く時のために、あまりはかないで大切に取っておいたため、靴底は新品、案の定先生の目を潜り抜けることは出来ませんでした。今思えば、仕方の無いことです。
お米も各自持参です。最近、友人たちとの会話で、お米持参の世代の話はポピューラーではないことを始めて知りました。
二泊三日の一泊目は、荒金屋という大きな旅館でした。大広間の箱膳の食事も大きなお櫃も珍しくて、自分の座った位置は、今でもはっきりと覚えているほどです。
鳥取砂丘や傘踊り、出雲大社に日の御崎燈台、そしてガイドさんが教えてくれた有難うという意味の方言『べたべただんだ』、写真以上の記憶を私の中に焼き付けてくれた初めての修学旅行でした。 Akiko.K


【2006年11月のコラム】 つんばなとスイバ 

 山道で遊んでいると、食べられる木の実や草がたくさんあります。誰から教えられたわけでもないのですが、一緒に遊んでいる上級生の真似をしながら、草摘みをしたものです。
春は、『つんばな』と呼んでいたちがやの芽、ちがやの株の根元に小さく顔を出している葉っぱの芯の部分をそっと摘み取ると、ふんわりとした綿毛になる一歩手前のきらきらと光った銀色の若芽が顔を覗かせます。それを幾つか集めてガムのようにかむと、なんとも甘いいい香りのおやつになります。見つけるのが上手い子がいるもので、太くておいしそうなものばかり狙って摘み取っていきます。動物的な本能のように本当に上手いのです。
夏のころになると、『スイバ』と呼んでいたタデの大木のような茎を集めて、薄皮をむき、ちょっと塩をつけて食べます。皮をむいたときに、ポキッと軽い音を立てて折れるのが、瑞々しくてちょうどいい水分と酸味を含んだ食べごろのものです。駄菓子屋さんもあり、ガムのくじを当てるのも楽しいのですが、それよりも自然のおやつは何か魅力を感じたものです。 Akiko.K


【2006年10月のコラム】 

牛に追いかけられて、殺されるかと思うほど怖かった経験があります。
 小学校の4年生の時、通学路が田んぼのあぜ道でした。いつものようにのんきな気持ちで歩いていると、ちょっと危険な気配、大きな、毛並みのつややかな真っ黒い牛と遭遇したのです。いつもは、農家の庭先につながれて、仕事の出番を待っているのに、その日に限って放し飼い状態でした。

私は一目散に走りましたが、運の悪いことに牛の行きたい方向と同じ、どこまでも着いてくるのです。
牛には、追いかけているという気持ちはまったくなかったのでしょう。着いた先は、牛の家の庭先、家の人が笑いながら「大丈夫、大丈夫」と言っているのを、とても腹立たしく聴いた記憶があります。
今思えば、のんきな農耕牛、子どもを踏み殺すような闘争心は微塵もなかったでしょう。
でも、一生忘れることの出来ない、恐怖の体験でした。      


【2006年9月のコラム】お子様ランチ

昭和20年代の終りごろ、私の暮らしていた長崎は、活気のある町でした。山が、海のそばまで迫っている市内の繁華街、細長い商店街には、浜屋と岡政という大きなデパートが二軒ありました。今思えば、原爆投下で焼け野が原になった町が、素晴しい勢いで復興した直後のころだつたでしょう。
私は、祖父や叔母と一緒によく町まで連れて行ってもらいました。叔母が作ってくれたおしゃれなワンピースに、いつも帽子をかぶっていた記憶があります。祖父は、昔にしては背が高く、羽根のついた帽子をかぶり、杖ではなくステッキを持っていました。
どんな買い物をしたのかは、記憶にないのですが、私のお楽しみは、デパートの食堂で食べるお子様ランチです。メニューは今のものと変わらず、必ずご飯の上には旗がたっていました。小食の私でしたが、これだけは大好きで今でも絵にかけるほど、鮮明に覚えています。
岡政で買った、唯一覚えている買い物は、私のランドセル、A.Hとイニシャルを入れてもらって、飛び上がるほどの嬉しさでした。そのときも勿論、お子様ランチを食べたのです。広島の田舎町に転校してからも、イニシャルのランドセルは自慢の品でした。         Akiko.K


【2006年7月のコラム】 少女フレンドとマーガレット

  出張の多かった父のお土産は、おもちゃと本でした。月に一冊単位で、面白そうな本が増えていきます。そのほかに月刊誌を本屋さんから届けてもらっていたので、田舎にいても本に囲まれた生活でした。

月刊誌の楽しみは、推理小説と世界中の不思議な話、本屋さんから届けてもらうのが待ちきれなくて、直接買いに行ったことも何度もありました。その本屋さんは、小学校の前の文房具屋さんを兼ねた小さな店です。なので、本屋でいろんな本を眺めながら好きなものを探すという楽しみ方が本の世界にあることを知るよしもありません。

瀬戸内を離れ転勤で神奈川に向う夏、寝台車の停車時間に熱海の駅で、「少女フレンド」と「マーガレット」を買いました。漫画といえば「りぼん」しか知らなかった私には、その2冊が夢の世界のようにすばらしく思えました。表紙を飾るかわいらしい外国人の少女、中の漫画と記事も、女の子の好きなものの数々、これからたくさん受けることになるカルチャーショックの始まりです。その強烈で新鮮な驚きは、今でも忘れません。2冊の少女週刊誌から、私の多方面にわたる読書の世界がスタートしたのです。      Akiko.K


【2006年6月のコラム】 銭 湯

 私が子供の頃は、自宅にお風呂のある家は珍しく、その代わり町のいろんなところに銭湯がありました。小さい頃は、父が帰宅してから夕食を食べて、家族3人で出かけました。父は、カラスの行水で、とても出るのが早く、「明子ちゃん、もう上がるよ」と、男湯から声がかかります。私と母は、いつものことなので、特にあわてることもなく、当然のように父を待たせます。小学生の中学年位になると、友達同志で声を掛け合って、銭湯に出かけました。私は、いつも同年代か少し年上の人と行った覚えがあります。その時は、夕食の前なので、あたりもまだ明るく、まるで遊びのような感覚で入ったものです。
 そして、入っている人の観察も楽しいものでした。赤ちゃんを連れたお母さんは、まず赤ちゃんを良く洗ったら、脱衣場で待っている近所のおばさんにそのまま赤ちゃんを託します。おばさんは、湯上げタオル(バスタオルのことをこう呼んでいた)をゆったり拡げて、湯気でポカポカした赤ちゃんを受け取り、きれいに拭いて肌着を着せて、お母さんが上がるのを待ちます。こんな手の貸し方も、とても自然にできていました。
 少し行くのが遅くなる時があります。そんなときは、学校の先生によく会います。学校では、二コリともしないとても厳しい先生が、子供を連れて銭湯にいると、とても不思議な感じがしたものです。
私のように家族が少なくても、一日のうちで大勢の中にいるという時間が必ずあったものです。そんな中からも、きっと自然に社会性を身につけていったのかなと、今思います。  



【2006年5月のコラム】 
つわぶき

 子供のころ、家族でお弁当を持って出かけるところが何箇所かありましたが、かんのん山とせんげん山もその一つでした。学校の遠足でも必ず行く山でしたが、2つの山がつながっていて、どちらかが高いので、たしか高学年と低学年に分かれて登った気がします。
 今行けばたいしたこともないのかもしれませんが、細いあぜ道、野道、山道をテクテクと歩いてかなりの高さがあったように記憶しています。
 山までの道は、つわぶきの宝庫でした。春になると、古い株の中心から、たくさんの柔らかい新芽がにょきにょきと顔を出します。日曜日の晴れた朝、父の一声で、つわぶきをとりに出かけます。朝から母はお弁当を作り、姉妹のいない私は、2つ年上の友達や社宅の隣の親友を誘います。父は、頭にタオルを巻いて、一番張り切っています。
 陽が高くなった頃、用意したお弁当を持って、出発です。自宅から何分も歩かないうちに、もうつわぶきが現れます。一番おいしいのは、茎にふかふかとした毛が密集していて、上についている葉も、まだ開ききらない若い茎です。子供の力でもスポンと面白いように抜けるので、株をかきわけながら、みんなで夢中になって採り続けます。あっという間に、持ってきた袋が一杯になり、満足して頂上まで上り、お弁当を頬張るのです。
 たくさんあるようでも、茹でて皮をむき、佃煮にすると、ほんの少しになってしまいます。短い季節だけのおいしい自然の恵み、日曜ごとに採りに出かけたものです。
 今、我が家の庭に、観賞用のつわぶきがあります。秋になると近所のものはきれいな黄色い花をつけていますが、我が家のものはちっとも花が咲きません。子供の頃の味が懐かしくて、新芽を食べていたからということにやっと気づきました。今年は、摘むのを我慢しているので、きっと秋には花が楽しめるのではと、期待しているのですが・・・。          Akiko.K


【2006年4月のコラム】 お遍路さん

 春の陽射しが気持ちよく感じられるころになると、思い出す風景があります。田んぼのあぜ道を行く、白い装束に手甲姿のお遍路さんの列です。
四国八十八箇所をまわるお遍路さんは良く知られていますが、瀬戸内の島には、島の中の八十八箇所を回ることの出来る遍路道がありました。私が育った因島もそんな中のひとつでした。
 四国の遍路道を全部回るのはとても大変なことです。仕事を持っている人にとっては、リタイアしてからの楽しみとしてとっておく人も多いことでしょう。
 今から50年ほど前の春、農作業が忙しくなる前の短い期間に、島の内外からたくさんのおじさんおばさんたちが白い姿で歩く姿は、まるで外の星から来た人を思わせるような雰囲気を漂わせていました。杖を突きながら、ただ黙々と歩いています。
 道の途中には、暖かい春の光あふれる広い縁側のお家があります。ピカピカに磨いた縁側に腰掛けて、お遍路さんたちがお茶を飲んでいます。おいしそうなお茶菓子が添えられています。
 私たち子供は、まったく知らないお宅の縁側で、色とりどりの干菓子を半紙に包んでもらって喜んで駆けていきます。ちょっぴり生姜の香りのする小さなお煎餅の味は、駄菓子屋では買うことの出来ないとてもおいしいものでした。来る人はだれでも歓迎というおおらかさが、子供の頃の思い出の中に鮮明に残っています。         Akiko.K



【2006年3月のコラム】お稲荷さんといなり寿司

 私の父は、お稲荷さんが大好きで、今でも外出先でお稲荷さんを見つけると必ずお土産に買ってきます。でもそれは、いなり寿司なのです。
 私にとってのお稲荷さんは、四角い油揚げを斜め半分に切って、三角の袋にばら寿司(五目ちらし寿司のこと)をつめたものです。
関西と関東の油揚げは、形がまったく違います。全国的にも長方形が主流ですが、私の思い出のあげは、ほぼ正方形で少し厚めです。したがって揚げで作るお稲荷さんも形が違ってくるわけです。三角で作るお稲荷さんは、寿司飯をつめても白い顔がはっきりと見えるので、寿司飯にも具をたくさん入れてきれいな顔に作ります。そして、揚げの味もほんのり甘い程度の薄味です。ところがいなり寿司は、袋にご飯を詰めてくるんでしまうので、中の寿司飯はシンプルで、その代わり揚げの味を主張します。
お稲荷さんといなり寿司の話をするときに、皆が共通の絵を頭に思い描いているとは限らないわけです。
同じような事が、メロンパンでもいえます。私の思い出のメロンパンは、マクワウリのようなラグビーボール型で、縞模様です。にたような違いが、長い日本列島のあたらこちらで見つけられれば、面白いものです。              Akiko.K


【2006年2月のコラム】のり巻き

 我が家のご馳走は、なんと言ってものり巻き、それも太巻きです。お正月には、たくさんののり巻きを作って、おせち料理と一緒にいただきます。来客の時も、必ず作ります。
 のり巻きといえば、忘れられない出来事があります。もう40年以上も前のこと、広島から引っ越してまもなく、中学校の遠足で、城ヶ島に行くことになりました。前日、出かける予定のあった母は、私のお弁当にと、近所のおすし屋さんに、のり巻きの折を注文しました。私は、そのお弁当を持って遠足に出かけ、お昼に折を開いてそののり巻きを見たときの驚きといったら、なんと表現したらいいのか分かりません。中には、とてもシンプルなかんぴょうの細巻きが、お行儀欲並んでいたのです。
 そのときから、こちらでは、のり巻きは細巻きのことと理解しました。そして、私の思っているのり巻きは、太巻きと言われていることも後になって分かったことです。
 私は、具をたくさん巻き込んだ我が家ののり巻きの味を、受け継いでいかなければと真剣に思いました。そして、母から巻き方のコツを習い、機会あるごとに巻き続けました。そして、具の味のつけ方を自然に習得し、学生時代には、母と同じ味ののり巻きを作ることができるようになりました。
 節分に、その年の方角を向いてのり巻きを大きいまま頬張るという風習が、最近では全国的になってきています。
 私は、我が家のあの太くてカラフルでおいしいのり巻きの味を、子供たちにも覚えていて欲しいと思っています。 


【2006年1月のコラム】餅つき

 餅つきの音を聞くと、広場に大人が大勢集まって、なんとなくわくわくした子供の頃を思い出します。餅つきが、子ども会や○○フェスティバルのメインイベントになってからどのぐらいになるでしょうか。
 木枯らしが吹く頃、暮れも押し詰まった日曜になると、あちらこちらから、もち米を蒸す蒸篭や臼・杵を手入れするおばさんたちの忙しい光景が、子供たちの遊ぶ目のはしにも、入り込んできます。
 そして、大きな家を中心に幾つかのグループに分かれた餅つきが、行事としてではなく暮れの準備として行なわれます。
 私が暮らしていた社宅でも、同じ会社の人たちが集まって、地元の人たちの協力を得ながらのお餅つきがありました。大人の男の人たちは、汗が落ちないように頭に手ぬぐいをまいて、女の人たちは割烹着をきて、朝からテラスハウスの中ほどに集合です。子供たちは、何も用がないのですが、忙しそうな空気の流れにわくわくしながら、周りを取り囲みます。
 お餅がつきあがると、皆で鏡餅と丸餅に仕上げていきます。丸もちの中には、餡を入れて丸めたものもあり、それはお正月前に食べる楽しみなお餅です。関東のようにのし餅というものはありません。すべてつき終わると、それぞれの家で持ってきたもろぶたという名の、杉材で作った大きなバットのような入れ物に並べて、持ち帰ります。今のように密封容器のない時代の、とても便利な容器です。
 一年中お餅を食べられる今の時代でも、暮れからお正月にかけて食べるお餅は、特別の味がします。

;Akiko.K 


【2005年12月のコラム】魚屋の店先

 今暮らしている三浦半島の代表的な魚は、なんといってもマグロ、そして外食でお刺身というと、マグロは欠かせません。私がマグロの刺身を見たときの第一印象は、こんな真赤なお刺身、信じられないの一言です。
 瀬戸内では、魚といえば、水槽に泳いでいる鯛、チヌ(黒鯛)、ギザミ(赤ベラ・青ベラ)キス、オコゼ、それになんと言っても生きている蛸とシャコです。蛸が、道路まで這い出てくることも珍しくありません。水槽で泳いでいる魚が少しでも横向きになると、もう魚屋の叔母さんは決して勧めません。それらはすべて尾頭付き、買う時にさばいてくれますが、私の母は、そのまま買ってきて見事にさばいていました。したがって、お刺身は、ほとんどが透明感のある白です。それを刺身醤油で頂くのですから、魚の味がとても生きてきます。
 シャコは、バケツ一杯でいくらという買い方をして、すぐにゆでます。ご存知のように甲殻類は、大きくなる時に必ず一皮ずつ脱皮して外套を着替えます。脱皮直後のものは、殻がとても柔らかく、茹でてもうまく剥けませんが、それも時期があるようです。茹でたての味は、カニと同格といってもよいでしょう。
 もう一つ、切り身というものはまったく店先には並びません。マグロと切り身、そして、刺身醤油のしょっぱさも、西と東の文化の違いでしょうか。今では、輸送技術や情報伝達の早さにより、食文化もだんだん住み分けがなくなりました。
 そして、お寿司やお刺身のマグロは、今では我が家に欠かせない魚です。   Akiko.K 


【2005年10-11月のコラム】異国の香り

 私は、長崎に生まれ、7歳まで瀬戸内と長崎を行ったり来たりの生活が続きました。そのうち4年間を、祖父母や叔母たちと長崎で暮らしました。
 市内の短大に通う叔母は、週末帰ってくると、賛美歌をたくさん教えてくれて、子供用の緑の表紙の賛美歌の本をプレゼントしてくれました。父に買ってもらった卓上ピアノで、覚えたての曲を弾くのが、とても楽しみでした。その中には、わけもわからない外国の歌もあり、意味もわからず覚えていました。
 母のすぐ下の妹にあたる叔母は、療養中の母に代わり、私を祖父母と一緒に育ててくれました。叔母がお休みの日は、市内に出かけるお供をします。その中でも一番楽しみだったのは、『東京堂』という美容院に行く時でした。当時のパーマは、今のように薬で処理するのと違い、熱で焼き付けるので、とても時間がかかります。その間、美容院の2階に上がって、そこの子供と一緒に遊びます。その時に教えてもらったのが、長崎ではポピュラーな囃子言葉、
「あっかとバイ! きれかとバイ! オランダさんからもろたとバイ!」
とても覚えやすいリズムと音程で、耳に付くと離れません。この言葉は、最近さだまさしさんのエッセイに登場し、懐かしく思ったものです。
 また、小学校の学芸会の演目の中にも、中国の踊りが登場、有名な10月のお祭り「おくんち」のように、チャイナ服をきて踊ります。洋裁を仕事にしていた叔母が、ピンクのサテン生地で、8人の女の子のチャイナ服をとてもかわいらしく作ってくれました。
 幼い頃しか暮らしていない町ですが、長崎は、東洋と西洋の文化が日本文化の中に自然に溶け込んで、音楽、建物、着るものや食べ物にも、他の土地にはない独特の香りを感じさせる町でした。  Akiko.K 


【2005年9月のコラム】セ ミ

 セミがミーン、ミーンと鳴くなんて、一体誰が決めたのでしょう。子供の頃聞いたセミの声は、ゼイゼイゼイゼイ、ミーンミーンなんて鳴くセミなど見たことも聞いたこともありませんでした。
 私が子供の頃は、夏休みの勉強が終ると、みんな長い竹竿と虫かごを持って、外に出て行きます。そしてもう一つ、とりもちのついた油紙、これはきっとハエを捕るのに使うものなのでしょうが、子供にとっては、それはセミ捕りの必需品です。油紙を力いっぱい開いて、そこに竹の棒の先をまきつけます。すると、べたべたとしたものが竿について、そこを触ったものは何でも捕らえてしまいます。虫取り網などというものは使いません。
 そのべたべたした竿で、木にまるで生(な)っているようにびっしりと止まっているセミを手当たり次第捕まえてかごに放り込みます。佃煮にしてもいいくらい籠いっぱいになると、その中から一番元気のいいクマゼミを捕まえて、丈夫な木綿糸をお腹に巻きつけ、片方を手に巻きつけて、飛ばすのです。木綿糸のように軽いものでも、身体につけられたセミは、まるで思い荷物を背負っているように、鈍く飛び回ります。オレンジ色のお腹をしたオスが一番力持ちでした。
 今の子供たちが、お店で買ったクワガタやカブトを大事に育てていますが、昔のクマゼミは、カブトやクワガタよりも黒くつややかで、惚れ惚れとするような輝く存在でした。
 そんなセミが、実は西日本から九州にかけてしかいないと知ったのは、関東に引っ越してからのことです。
 引越しの日、広島から川崎まで荷物が着くまで日にちがかかったので、熱海の会社の保養所で一泊、その朝、聞こえてきたせみの声が「ミーン、ミーン」というまさに漫画に出てくるあの声だったのです。それ以来、ゼイゼイというクマゼミの声は、聞かれなくなってしまいました。
 年に一度だけ、夏の広島と長崎の原爆慰霊祭の中継の折、テレビから聞こえてくるのは、なんと懐かしいクマゼミの声なのです。
 昨年あたりから、あのクマゼミが関東にも進出、声を聞けるのはうれしいのですが、これも温暖化によるものとなると、喜べない現実です。Akiko.


【2005年8月のコラム】くさ遊び

 家のそばには、原っぱがたくさんありました。原っぱといっても道路と田んぼ、それに建物のある場所以外は、全部原っぱなのです。
 春から夏に掛けて、その原っぱの草丈が、50センチほどにぐんぐん成長します。その草をかきわけながら歩いていくと、いたるところからバッタが飛び出してきます。そして、着ている洋服には、草の実がたくさん付いてきます。そんな中を飛び跳ねる私たちにとって、原っぱは、大きな風呂敷を広げたような大切な場所でした。寝転んで空を眺めたり、踏みならしてままごと遊びの部屋になったり、自由自在に想像を膨らませる場所でも在りました。
 そんな中でも一番の楽しみは、一握りの草を両手にとって結び合わせ、わなを作ることと、棒切れで深いと思われるくらいの穴を掘って、その上をわからないほどの草で覆い、落とし穴を作ることでした。何も知らない友達が向こうからやってくると、わざと大きな声で名前を呼んで、結んでいる草のわなを通るように仕向け、転んであわてるのを見ることは、とても楽しい遊びでした。もちろん私も別のわなに同じように引っかかったり、あるときは、自分で作ったわなに引っかかってしまったり、時間を忘れるほどのひと時でした。落とし穴も、同じように使います。でも、みんな同じことをして遊んでいる仲間は、なかなか引っかからないものでした。
 わなや落とし穴は、遊び終わると必ず元通りに戻して帰るのですが、うっかり忘れてそのままになったことがあっても、誰も足を怪我したという話は聞きませんでした。
 今思えば、引っかかればすぐに解けてしまうくらいの結び具合だったのでしょう。何でも遊具にしてしまう子供のころの知恵は、いつまでも失いたくない財産です。 Akiko.K


【2005年7月のコラム】 体育館

 小学校には体育館というものがなく、雨の日の体育は、廊下や教室、体育倉庫で行ないました。ですから、ひたすらうさぎ跳びや駆け足ばかり、やれることも限られてしまいます。
 そんな状態ですから、梅雨時などは、雨の日が続くと、先生の手持ちもどんどん少なくなり、ついには歌合戦まで始まってしまいます。
 クラスの中で、小さくて静かな女の子がいました。少し年上のお姉さんがいたような気がします。ある雨の日、いつものように体育倉庫での歌合戦が始まりました。みんな学校で習った歌や、ラジオやテレビから流れる子供の唄を歌うのですが、その子は、その頃とてもはやっていたいわゆる流行歌を歌ったのです。〜♪あーかくさーくーはーな、あーおいいはーなー、こーのよにさーくはな〜♪、みんなびっくりです。いつも目立たない子が、島倉千代子そっくりの歌い方で、見事に大人の歌を歌ったのです。私は、家で流行歌を聴くことがほとんどなかったので、大人の歌の歌い方をするその子が、急にませて見えました。
 6年になると校庭の端っこで工事が始まり、天井がかまぼこ型の体育館が出来上がりました。皆でぬか袋を作って、床をぴかぴかに磨き上げ、雨の日の体育も心配なくできるようになりました。
 島倉千代子の歌を聴くと、体育倉庫のマットの埃っぽいにおいが思い出されますAkiko.K


2005年6月のコラム】 海は最高の遊び場

 島で暮らす私にとって、夏の海は、小学校の校庭のようなもの、友人と一日過ごす場所でした。
 夏休みになると、早々に宿題を済ませ、毎日、数人で海に出かけて行きます。泳ぐ楽しみはもちろんですが、そのほかにも海は魅力的な場所です。潮の引いた岩場には、ニシがたくさんしがみついています。大小さまざまですが、地元の子供たちは小さなものには見向きもしません。『ぶんだい』という直径が2〜3cmもあるような大きなニシだけを探すのです。これは、茹でて食べると磯の香りがぷんとして、大きくて食べごたえがあるのです。袋いっぱいに詰め込んで家に持って帰るときの満足感は、言いようもなくうれしいものです。
 貝とりに飽きたら、海でひと泳ぎ、平泳ぎでもクロールでもなく横泳ぎのような、名前のない海草のように漂う泳ぎ方です。これなら何時間水の中にいても、ちっとも疲れません。そのときに欠かせないのが『揚げソラマメ』、子供たちの水着には、一人残らず布のポケットが縫い付けてあります。その中に、揚げた硬いソラマメをたくさん詰め込んで、海水に浸ってほどよい軟らかさになったところで、遊びながらそれを食べるのです。
 ニシにしても揚げソラマメにしても、今ではビールのつまみのようなものを、子供たちが好んで食べていたわけですから、おやつも随分今とは違っていたわけです。 Akiko.K


2005年5月のコラム】 農繁休暇

 私が育った因島は造船の島、暮らす人々の職業は、造船所に勤めているか、農業か、または兼業でした。小学校のクラスメイトの半分ほどは兼業農家です。したがって、学校に行く途中には、田んぼがたくさんあり、農耕牛やヤギも人と一緒に暮らしていました。
 普段は、田で働く人の姿はまばらですが、春、田植えの季節になると、静かだった田んぼに、働く人の姿がたくさん見られるようになります。ヒルのたくさん吸い付いた足を気にもせず、田の草取りをしているおじさんの姿や、頑丈な足の牛を子供のいる場所に出して、怖がらせて面白がる大人、ヤギの乳をビンに詰めて配る人など、いろんな人の働く姿を思い出します。
 こんな季節になると、それまでおたまじゃくしを捕まえて遊んでいた子供たちにも、仕事が回ってくるのです。田植えで忙しい大人に、お弁当を届けたり、小さな弟や妹の面倒を見たり、猫の手よりはましです。子供たちの働く環境を整える意味で、学校には農繁休暇がありました。一日たっぷり休むわけではなく、数日の間、午前中だけの勉強で学校は終わり、下校して農家の子供は家の仕事を手伝うわけです。
 父の仕事は造船所の技術者でしたから、農繁期とは直接かかわりなく、私にとってはこんなお休みは大歓迎でした。しかも外で遊ぶにも、とても気持ちがいいので、陽の高いうちから思いきり遊べる田植えの時期が大好きでした。こんなステキな時間が当然秋の稲刈りの時にもあったわけですから、たっぷりあそべた幸せな子ども時代でした。

Akiko.K 


2005年4月のコラム】 行商のおじさんやおばさん

 車で出かければ、食べ物から雑貨・家具・電化製品に至るまで一度に買い物のできる今では、とても考えられないことですが、私の子どもの頃は、品物は専門の人から買うもの、そして、店にないものは、行商のおじさんやおばさんから買うことが普通でした。
 瀬戸内の魚売りの行商人は有名ですが、そのほかにも、スイカ、イチジク、ジャーの中に入れて肉などを保存するのに使う氷、干し柿用のしぶ柿、そしてなんと言っても魅力なのは、下駄木を売りに来るおじさんです。
 当時の燃料は、まきでした。自宅でまき割りをする人も多くいましたが、私の暮らしていた社宅では、定期的にやってくるおじさんから下駄木を買ってそれを燃料に使っていました。広島県は、下駄の生産で有名です。下駄を作るときには、歯を作るために切られた四角柱の積み木のように形のそろったたくさんの廃材が生まれます。それは、見事に形も色もそろった燃やすにはもったいないものなのです。 おじさんがやってくると、たくさんの下駄木を買い、それを円筒形に積み上げていくのです。風がとおってよく乾燥するように、隙間を空けながら、倒れないように少しずつ上の直径を狭めながら1メートルほどの高さまで積み上げます。その作業を手伝うのが大好きな私でした。隙間を開け過ぎると次の段の木がうまくわたらないので、ちょっと頭を使う仕事です。きれいなまるが上に積み上げられていくのをながめながらする作業は、とても楽しいものでした。
 その木を上から順番にかまどに使いながら、また時には、人形ごっこ遊びの間取りつくりに使いながら、そろそろ心細くなったころ、また下駄木売りのおじさんがやってきます。
 庭のたたきには、どのうちにも同じ位の木の輪が積み上げられていた光景が、ちょっと湿った木の香りと共に懐かしく思い出されます。              Akiko.K


2005年3月のコラム】 昼休みの楽しみ

世の中に給食というものがあることを知ったのは、中二で東京都内の学校に転校したときです。といっても、完全給食ではなく、20分休みに飲む脱脂粉乳のミルク、なんだかこってりしていて妙にお腹にもたれる飲み物でした。
私が小・中学校の頃の昼食は、一般的にはお弁当です。その頃の学区域はとても広く、バス通学の友達もたくさんいました。遠くから通ってくる子は、弁当が普通ですが、幸い私は、学校の近くに住んでいたので、お昼休みになると、校庭に近所の数人が集合して、田んぼのあぜ道を並んで自宅へと向います。そして、暖かい昼ご飯を母と一緒に食べていたのです。今思えば、昼に欠かさず母親が在宅していることは、自分の時間をかなり犠牲にしていたのかなと思いますが、今では確かめようもありません。特に寒い冬、コタツで食べるおうどんの味は忘れられません。そんなのんびりとした昼食の後は、またみんなと集まって、学校に帰っていくのです。それでもまだ昼休みはたっぷりあって、汗だくになって遊びまわる時間は残っていました。

皆が同じと考えていた昼休みの過ごし方に、こんなに大きな違いがあるとは、子供の知っている世界なんてとても狭いものなのですね。
学校が自由に出入りできるほっとする場所でなくなった今、一度登校したら下校するまでいろんな人の目を気にしなければならなくなった子供たちが、気の毒です。 Akiko.K


2005年2月のコラム】 てんびんばかり

 子どもの頃のお店屋さんは、小売店ばかりでどの店も今で言う対面販売、バナナ一本、魚一匹から気軽に買える時代でした。そのときに活躍するのが、長い竿の天秤ばかりです。
 黒光りのする長い竿の中心よりもちょっと片方に寄った位置に持ち手の紐がついていて、端には物を引っ掛けるための丈夫な鉤(かぎ)、そして、持ち手の紐を挟んだ微妙な位置に、分銅がぶら下がっています。単位は、1(もんめ)1貫目(かんめ)、買う品物を鉤にぶら下げた金属の皿に載せ、紐を持って分銅を左右に微妙にずらし、棒が水平になる位置を決めて値段が決まるのです。
瀬戸内の生きた小魚を売りに来る魚屋のおばさんの竿にはうろこが光っていて、貫禄があり、秤を操る手さばきも、子どもの目からは名人芸のように思われました。
つりあっているものや積み木で高くバランスを取ることに興味のあった私は、そのはかりがほしくてたまりません。今なら長い棒も針金もホームセンターに行けば簡単に手に入りますが、私の子どもの頃は均等な棒を探すのも大変です。母が使っているハタキが古くなって新しいものと取り替えるのを今か今かと待っているのです。そのときは、すかさず棒をもらい、見つけておいた手ごろな石を紐にくくりつけ、片方にはの代りに皿をつるすための紐を結びつけ、適当にメモリをつけて、はかりまがいの物が出来上がります。
手持ちの人形やおもちゃを片っ端から紐にぶら下げて、石の分銅を左右に微妙にずらしながら、バランスを取るときのあのわくわくするような満足感は、今でもはっきり覚えています。
基礎学力をつけなければとか、今の学習が将来どのように役立つかとかを考えることよりも、子どもが家庭や社会のなかで、いろんなものや現象をみて、無意識に自分の足りない知識を何とか補う努力をしたり、またそのための自発的な学習をする環境を作ることのほうが、問題解決の糸口になるような気がします。 Akiko.K


【2005年1 月のコラム】 まりつきとお好み焼き

 子供の頃のお正月一番の楽しみは、ゴムまりを買ってもらうことでした。私が育った瀬戸内の島では、女の子の冬の遊びの一番人気は、大勢で競い合うまりつき、大晦日までは使い古した色あせたまりですが、お正月になると、一回り大きな鮮やかな色のものをみんな持ち寄って、ちょっと背伸びした技まで挑戦するのです。

 場所は、社宅の浄化槽の上、といっても6畳ぐらいの広さはありました。見渡す限り土の地面ですが、唯一そこだけがコンクリートで、どんな技にも耐えられる水平を保っているのです。高く上げたマリを拾いやすいように、ギャザーのたくさん入ったスカートをはいて、『一匁(もんめ)のいーすけさん、一の字が大好きで・・・』という十番まである手まり歌にあわせて、まりをつき続けます。引っかかったら次の人にバトンタッチ、一番早く十番までたどりついた人が勝ちです。6歳から12歳くらいまでの女の子が、つねに8人くらいで挑戦し、運動神経に自信のない私は、いつも中くらいでしたが、暗くなるまで飽きもせずやっていたのですから、よっぽど面白かったのでしょう。
 もう一つの楽しみは、友達と一緒に行くお好み焼きやさん、まりつきと同様に、小さな子からちょっとお姉さんまで一緒にお年玉を持って、新しいカレンダーを見ながら、うどん入りの大きなお好み焼きが焼けるのを待っているのは、とても楽しい時間でした。皆でお金を出し合って食べたのでしょう。 親とは別の子どもだけの社会が、そんな風にして自然に育っていく時代でした。   Akiko.K