◆自ら考える役者の育成−渋沢やこ一人芝居『花いちもんめ』によせて−
川村史記(ノンフィクション作家・ジャーナリスト)
日本における場合、演劇は専門家といわれる人々の間でのみ語られる傾向があります。そして、そうした専門家諸氏はTVをはじめとする各種のメディアに登場するタレントや役者にのみスポットを当て、可もなく不可もない批評に終始するのが日常的です。こうした傾向と並行して、メディアに登場することが役者の登竜門であるかのような錯覚を与える商業主義が演劇の深化および進化を阻んでいるというのも懸念されるところです。
今回、福島 康が制作・演出する宮本 件作の戯曲『花いちもんめ』は、演劇という表現行為に喜びや楽しみを見出してきた福島自身の、純粋に“自ら考える”役者を育てたいという熱意が具体的に動き出した試行の第一歩です。
頭でっかちにならず、生活者としての等身大の感性を持ち、けっしておごらず、ひたすら演技を通じて自己の開発と進化を遂げていく役者たちの群像が演劇の未来を切り開くとの信念にもとづき、残留孤児問題をテーマに、時代の実像および時代を超えた人間および社会のさまざまな課題を『演ずる者』と『観る者』へ突きつけている今回の舞台は、市井に渦巻く条理や不条理に向き合ってきた教育者でもある福島 康の面目躍如たる取り組みにもなっています。
◆教育現場から遠のく芸術と創造性への取り組み
今、教育現場では数学・英語・国語・理科が記述の順序に重要科目で、社会科はつけたし、その他の科目、とりわけ音楽・図工・体育などは意識の片隅に追いやられたマイナー科目となっています。といっても、体育は昔からの根性を鍛えるメンタリティーから抜け出せない指導員の"いつかきた道『富国強兵』"につながりかねない声高な自己目的化やオリンピック競技等の下支え領域として、音楽・図工・芸術鑑賞よりは意識的に優遇されている感もあります。しかし、一般的に受験と関わりが薄い音楽や図工等はこれまた陳腐な情操教育の枠内に閉じ込められて、創造性や芸術性を育むといった視点からの積極的教育論は交わされないのが現実です。
以上のような状況を見ると、各都道府県単位で行われている年に一度の各種演劇発表会は地域によっての活発・不活発はあるにしても、まさに『行われることに意義がある』行事には違いありませんが、その内容に充実した取り組みが少ないのも確かです。各地域から選ばれた演目すべての上演が終わって、専門家の批評が行われるととりあえず全作品に対する素晴らしい賛辞と教師・保護者・協力機関に対する謝辞が贈られますが、観客や批評家達の心からの感嘆を引き出すような内容の上演がほとんどないというのが大方の演劇発表会の実情であることを危機感を持って受け止めねばなりません。
それはもちろんプロの演劇集団のようなレベルの演劇に達していないということに対する不満ではなく、演劇を介して学び取る表現能力の基本指導がまことに低迷しているということです。そのためか筆者等が観劇した発表会の最終批評では、学校教育の場で行われる演劇の専門的コーディネーターや批評家が『プロの劇団や役者のアドバイスを機会あるごとに導入すべきだ』という提言を多くし始めていました。それはとりもなおさずプロの演劇集団や役者に学校教育の現場へもっと使命感と勇気を持って、積極的に入っていって欲しいという切なる要望でもあります。
確かに、筆者が最近観た神奈川県の小学校演劇発表会ではこうしたプロ集団から派遣された演出家達の指導成果が遺憾なく発揮され、子ども達の演劇を見る楽しさと演ずる子ども達からの感動が伝わってきました。ちなみに、その学校は神奈川県の愛甲郡にある清川村立宮ケ瀬小学校です。全校生徒総数10名という小規模学校ですが、そのホームページを閲覧してみると、会場でお会いした荻田 誠校長先生のつぎのような挨拶文が掲載されています。
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『20の瞳が輝く学校』
緑豊かな山々、水のきれいな宮ヶ瀬湖というすばらしい自然環境に恵まれた本校は、児童数は10名の小規模校です。子どもたちも明るく素直で学校全体は一つの学級のようであり、また家庭のような雰囲気があります。
このような地域や学校の実態をふまえ、「一人ひとりが豊かな心をもち互いに友だちと助け合い、支え合いながら自己の目標に向かって努力する児童の育成」を学校教育目標として、小規模校の特性を生かした活動に取り組み、家庭・地域の皆様の期待に応えられるように努力していきたいと思います。
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そしてこの言葉をそのまま反映するかのように、学校活動を紹介する演劇の欄に以下のような紹介記事が載っています。
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『宮ヶ瀬小学校の演劇について』
宮ヶ瀬小学校では,毎年秋に中学校と合同で「宮ヶ瀬ふれあい文化祭」が開かれます。この文化祭は,地域の方にも参加を呼びかけ,盛大に行われます。その中で,ステージ発表の内容として演劇活動に取り組んできました。子ども達も地域の方々も,伝統的になったこの演劇発表を楽しみにしています。
この活動は,国語の「話すこと・聞くこと」「読むこと」,音楽の「表現」の領域として,また地域に根ざした活動の一つとして生活科や総合的な学習の時間の時間に取り組んできました。さらに,平成13年度からは,文化祭だけでなく,神奈川県の演劇発表会に参加するようになり,本校の教育活動の特色の一つとなってきました。
全校で取り組むこの演劇活動は,表現力だけでなく,一人ひとりの存在感や充実感の大きさ,幅広い年齢層の中での深め合いなど,様々なものを得ることができます。全校児童9人というメリットを生かして,子ども達一人ひとりの心の底からわき上がるエネルギーを最大限に引き出し,「ことば」「からだ」「心」を育てる豊かな表現活動を追究していきたいと思います。
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まさに今の義務教育から欠落してしまった大切な視点をしっかりと教育思想と活動に具体化している素晴らしい小学校です。
この宮ケ瀬小学校が今回の演劇発表会で上演したのは誰もがよく知っている民話『かさじぞう』でした。小学2年生から6年生まで総勢10人が村の子ども達やおじいさん、おばあさん、複数のお地蔵さんの役割を分担して生き生きとした舞台を展開しました。よく知られた民話なのでその筋立ては省略しますが、まず子ども達の演技で驚くことは、
○ 発声が明確でしっかりしていること
○ 子ども達の演劇にありがちな手足を含めた所在無い(いい換えれば、無駄な)動きがないこと。
○ 相手の役割の演技をしっかり理解し、観察して自分の演技を行っていること
○ 筋立てに沿った演技の変化の中で必要な間(ま)がとれていること
○ 舞台全体を左右前後の動きで全面的に十分活用していること
等々です。しかも、大道具や小道具は教師達が子ども達や保護者達と相談したり協力したりして作り上げたのがありありとわかる工夫に富んだシンプルなもので、物語の世界を引き立てる十分な存在感を示していました。照明の操作や暗転、効果音も舞台美術とよく調和していたのはこうした取り組みに学校が長い間努力を重ねてきたなによりの証でしょう。
また、笠をかぶせてもらったお礼にお地蔵さん達が食物や財宝を運んできて去っていく過程ではそのお地蔵さん達の足運びに能狂言の所作を取り入れて見せ場を作っていましたし、遠くに去っていく彼等を感謝して見送るおじいさんとおばあさんのまなざしと、そのまうしろの舞台奥で歩み続けるお地蔵さん達の行列の折り重なった光景が本当の距離感としての感動を呼び起こしていました。
また、さらに感動したことは、劇中でお地蔵さん達が運んできた荷物をその後の演技に効果的であるように一定の形に積み上げていく場面で、一人の上級生の置いた積荷が置いた後にしばらくして転がってしまったおり、その後に続くお地蔵さん役の小さな女の子(おそらく2年生くらい)が自分の荷物を置いた後で、転がった荷物もあるべき位置にきちんと整えて次のお地蔵さんに出番を用意したことです。「こんなことはプロの役者でもできない者が少なくない」とは福島 康氏(役者・演出家・表現能力指導者)の感嘆の言葉でした。宮ケ瀬小学校の上演はわずか25分程度のものでしたが、その充実した舞台に見入った観客は少なくなかったにちがいありません。
実はこの小学校は劇団風の子との交流が深く、劇団の演出家である内藤克紀氏の基本指導も行われていたとのことです。この日にたまたま出くわした内藤氏から宮ケ瀬小学校の別の上演作品を撮影したビデオテープ『一人ぼっちのオオカミと七ひきの子ヤギ』を拝借し今回の上演同様、彼の演技指導の本質がうかがえる素晴らしい舞台を再び間接体験することができました。その内藤氏が語っていたことで心に残っているのは、「発声や舞台での身体動作、および刻々と変わっていく舞台での役相互の位置関係等々については、気合を入れて指導しますが、台詞については棒読みであっても過度に指導しません」という言葉でした。つまり、台詞に臨場感をもたせようとして欲張った指導をすると、子ども達の身体活動と全員の調和が劣化してしまうというのです。確かに『かさじぞう』の舞台を振り返ると、こまっちゃくれた台詞まわしはなく、棒読みに近いのですが、子どもの身体動作が演ずることの本質としての感動を喚起するため、そのことが気にならずむしろ素朴な演劇を観ている快感に包まれるのです。
おそらく年齢や力量に応じた表現の確かさを引き出すことの重要性を内藤氏はよく理解しているにちがいありません。それはまたこの小学校の演劇紹介欄の記述にもあった『この演劇活動は,表現力だけでなく,一人ひとりの存在感や充実感の大きさ,幅広い年齢層の中での深め合いなど,様々なものを得る』という目標に合致した実践学習の本質そのものでもあるのでしょう。こうした指導の実際やそれに触発された舞台を見ていると、教育界でマイナー扱いされている創造・芸術の学習分野にルネッサンスをもたらさなければならないと考えるのは筆者等だけではないはずです。
◆本を書くことの意義◆
私はジャーナリスティックな視点で捉えた教育分野の現状や提言をノンフィクションの形態で書籍化し続けていますが、ある課題を追求し書籍にまとめるということは、世の中の来し方行く末を自分の目で概観・洞察するということで、結果的には、その時点での自分自身と社会の関わりを確認することにつながります。
ですから、ある年齢に到達した折、肩の力を抜いて自分の人生を再確認してみたいと思う人は誰でも、自分の身近な興味ある課題や自分史等を書籍化することを楽しめばよいでしょう。多くの人はそうした書籍化の作業を通じて新たな自分を発見し、大好きになった自分と一緒に、その後の人生を歩み出すことができるはずです。
【書評・日本再生の切り札ができた・坂本隆司(碧天舎)】コミュニケーションを通じて人々が理解し合うのに、論理(logic)と理論(theory)の調和ある結び付きは必要条件です。しかし、この必要条件にとらわれすぎると理解しあうための議論の場で、論理と理論の対象となる事実や真実の検証が不十分なまま放置されたり、無視されたりしかねません。特に近代科学の領域では学者諸氏の実践を無視したいわゆる既存の知識内でのかたくなな論理が『事実を通した真実の追究』を鈍らせることはありがちです。つまり、様々な分野の各種未解決な課題が権威を持った特定の専門家の見解や学説にがんじがらめに縛られてしまい、人々の自由な発想やそこから生まれるユニークな発見について発言する機会や場を奪ってしまうのです。日本人の優れた発明や発見がまず欧米で評価され、それを知った日本の権威筋が慌てふためいてその高い評価を追認するなどという醜態は枚挙にいとまがない状況ですが、そうした事例は既存の理論(あるいは持論)に囚われすぎる専門家達の固陋頑迷をなによりもよく表わしています。ましてや、学者という肩書きのない一市民のユニークな発想や発見がサイエンスの分野において認知される道筋は受難(パッション)といっていいほどけわしいものでしょう。
こんな思いにかられたのは、出版社『碧天舎』から最近発行された書籍『日本再生の切り札ができた』を一読した後のことでした。この本の著者の坂本隆司氏は茨城県つくば市に拠点を置く『株式会社つくし』および同社傘下の『アロエミネラル研究所』の代表で、レストラン経営・ビジネスホテル経営・健康食品製造販売等を展開すると同時に、環境浄化の研究と実践に膨大なエネルギーと巨額の資金を投じてきた人物らしいのです。「らしい」というのは当然ながら、読者の一人である私が坂本隆司氏とは一面識もないから、そのように表現するほかないというだけのことです。しかし、この書籍を読むことで読者の脳裏に浮かび上がってくる著者の人物像はなかなかに魅力的です。その魅力の根幹は現代人の失った感性を高い濃度で保持しているという事実にあります。
著書の中で坂本氏は自らを『動植物の匠』『調理の匠』『水作りの匠』と位置づけていますが、動植物の育成・調理の工夫・水に対する研究分野の技術開発に長年取り組むうち、おそらく至芸の域(別の言葉でいえば、感性の極まるところ)に達しているという自負が自然に生まれたのでしょう。読み手を引き込むのはそうした真摯な生活者としての日常活動の修練を介して、著者が次々とイメージし発見する有形無形の素材と、それら素材を組み合わせた調理から生まれる多種多様な『秘密のタレ』の不思議な存在感およびその目覚しい効果です。生き物や環境に特化されたこれらのタレは昆虫の生命力や産卵を旺盛にし、アロワナ等の魚を何匹も巨大かつ長寿化し、家畜の生命を救済し、人間の難病を克服させ、汚染した河川の浄化に大きな効果をあげるといいます。そのいちいちの効能は読者にとって、キツネにつままれたような驚きなのですが、不思議になんらかのケレンを感ずることはありません。確かに、そうした奇跡のような事実への到達を一連の説得的な理論として展開する論理的記述にはいささか不足はみてとれるのですが、行間から浮かびあがってくる『地べたに足をしっかりとつけた生活者』としての著者の実像は、現代の科学ではいまだ解き明かせない真実がいかに多いかという人間社会の現実を一人ひとりの読者に突きつけてきます。それは随所に挿入されている『坂本語録』の箴言(堕落した社会に対する戒めの言の葉)とともに読者を先へ先へと読み進ませる原動力にもなっているのです。
不思議なことですが、この本を読んでいる最中、私の脳裏には生まれてから七年間を過ごした茨城県の疎開地(戦争末期の混乱を避けて過ごしていた母親の郷里)の奥深い森での生活が蘇っていました。深遠な自然や精霊と対話するあらゆる感性が目覚めていた幼児から少年期に、森で渓流の水を飲み、自家栽培の野菜の他、様々な小動物や季節の山菜を食事のご馳走としていた頃、粗末な食事ではあっても、あまり病気もしませんでした。そしてたまに病気になったとしても薬に頼ることなく医食同源さながらの療法で母が治してくれた生活が思いだされます。そこではまさにこの本に書かれているような母の調理するさまざまなタレが私の健康を守ってくれていたのだと思います。そういえば、著者の坂本隆司氏が環境問題や生命の養生に関する研究の糸口になったのも、息子さんや父上の病が契機であると書かれていました。薬漬けの療法しか知らない医療の現場への疑問から発した坂本隆司氏の生命養生への取り組みが家族への愛に端を発し、より普遍的な人間愛を育む地球環境の浄化に発展していく心情は感ずる心を持つすべての者の視野に『観得る(著者が文中でよく使っているキーワード)』真実の種を撒いてくれているように思えるのです。
文化祭とは、『学校においては児童・生徒(大学の場合は学生)が、地域においては住民が、そして組織においては従業員が自分達で主題を設定し、各種の展示や音楽、あるいは演劇等の形をかり、自分達の表現を発表する祭典の場である』とでも言うのが、一般的な共通認識であろうか。もっとも、文化祭という表現祭りの場には或る柔らかな特質があるのも確かである。それは完璧をひたすら求める厳しいビジネスとしての発表の舞台では味わうことのない、『参加者一人ひとりが自分磨きの発展途上にあることをお互いに許容する』寛大さと、共に生きる者達が共通のテーマを軸に時と場所を共有し、刺激しあい、楽しみあう空気の和やかさである。その意味では、西暦2004年12月27日(月曜日)に東京都八王子市の風の子センターで開催された年末押し詰まっての文化祭はまさに、『文化祭』と呼ぶにふさわしい要件を満たしていたといえよう。
オムニバス形式の寸劇あり、ベテラン俳優による百姓一揆の顛末をしみじみと大熱演した『一人語り』あり、生と死のやり場のない喜怒哀楽から若者の今日的横顔を彫りだそうとしたみずみずしい試作演劇ありで、全体を通して6時間を越える熱演は、劇団の新年に向けた可能性を一人ひとりが噛みしめるに十分な素材を提供したに違いない。
こうした成果を前に、ある特定の作品をことさらに取り上げる必要があるのかどうか、若干の迷いも感じながら、それでもやはり感想を記述しておきたい誘惑に駆られるのが福島康演出(舞台監督・信坂みどり、演奏・大森靖枝、装置・田中亨)の作品『友達』である。
この作品は昭和42年に大江健三郎の『万延元年のフットボール』とともに 第3回谷崎潤一郎賞に輝いた安部公房(1924〜1993)の戯曲である。昭和42年というと、筆者等がちょうど大学生生活まっさかりのころで、70年安保闘争をにらみながら、『過激』な学生運動を背景に、とめどなく展開する左翼運動の雰囲気にどっぷりつかっていた記憶があり、そうした中で安部公房の作風にひかれていく実存主義かぶれの友人達も多くいたのを思い出す。といっても本稿では、大脳生理学を念頭に置いた東大医学部卒の変り種ともいえる天才作家・安部公房についての論評をするつもりはない。もっと正確に言えば筆者自身にそんな力はない。そんなわけで、この戯曲の内容を作家とはとりあえず切り離して扱い、風の子の中の『ちゃらんけ(アイヌ語で談合のこと)』という研修集団が、この戯曲の持つ不条理の世界を風の子文化祭にぶつけてきたチャレンジ精神に敬意を払うという思いで、いささかの劇評らしき試みをしてみようと思う。
ではとりあえず、この『友達』という戯曲で演じられていく不条理の世界の驚きをあなた自身にふりかかったらと想定して概説しよう。
婚約者との結婚をひかえた『あなた(男)』がようやく見つけ出した新居になるはずのアパートで暮らし始めていると或る日突然、7人もの見知らぬ『家族』が部屋の中に押し入ってくるのである。排除しようとする『あなた』に、侵入者達は一人暮らしをしている『あなた』を助け、皆で共生するためにやってきたのだと侵入した理由の正当性を論証しはじめる。『あなた』は驚き、怒り、あきれ、おそれ、苛立つが、侵入家族の練り上げられた詭弁を突破する弁舌と威圧感を持たない『あなた』はただただ防戦一方に終始する。『あなた』の常識と侵入家族の常識がまったく噛み合わぬまま、やがてどうしようもない論戦にノイローゼに陥っていく『あなた』は多勢に無勢の例えどおり、侵入家族の常識の論理の枠組みに囚われてゆく。そこで『あなた』の常識の後ろ盾になってくれる(言葉を言い換えると、正義の味方)と考えていた者達にすがって、『あなた』の常識を取り戻し、侵入家族を追い払おうとするが、正義の味方であるはずの警官は自分の組織の常識から一歩も踏み出さず及び腰であり、もう一人の正義の味方であるはずのマスメディアの記者もたちまち洗脳され、被害者をバッシングするありさまである。こうして自ら思考する回路を断たれた『あなた』は給料も家財も恋人もすべて奪われて、ささいな言葉尻をとらえられた結果、侵入家族の規定する規律の中で違反者となり、縛られ拘束され、あたかも家畜のような扱いに甘んずる存在に転落する。そして或る日、侵入家族の姉妹の『あなた』という男に固執する愛憎劇の中で、貞淑な装いのその妹により毒殺されてしまう。その後『あなた』の死を見届けた侵入家族は、全員がうち揃って『あなた』の家を出てゆき、新たな居場所となる新たな『あなた』を求めて旅立ってゆくのである。
この芝居の上演時間は1時間40分を超え、休み時間を設けずに一気に演じられた。底冷えのする会場のなかで、誰もが上演前には、やれやれ長い芝居を観なければならないと覚悟したはずだし、上演時間がアナウンスされると小さなどよめきが起こった。それはまさに『ながすぎる』というどよめきであり、筆者もその一人であつたように覚えている。しかし、実際に芝居が始まってみると、会場全体が、演じる役者達のエネルギーに取り込まれていったのは演出家・福島康や舞台監督・信坂みどりの思惑どおりだったにちがいない。出演者全員での練習時間も足りず、台詞も覚えきれない場面もあるので、プロンプトもありの舞台展開なのだが、それがマイナスに感じられない、いやもっと正確にいうと、そのマイナスを凌駕する説得力のある表現能力が観る者の心をじわじわと浸してくるのである。しかも、それは快い感動ではなく、心に重くのしかかる不条理の問題であり、自分の現存在(実存主義的に言えば、dasein: ダザイン)の問題である。日常的にはわかっているつもりでいた自分という存在がいったい何なのか、ありえないような現実のなかで、のたうちまわる自分をさらに自分の手でもがきかきわけていくと、そこではシュールレアリズムとしかいいようのない得体のしれないヌエ(現実)にぶちあたっていく。筆者はそんなようなおぞましい気持ちでこの芝居を観続けた。それは、かつての70年安保闘争末期の学生運動、とりわけ赤軍派事件などにも連動する現代人のあやうい心の闇でもあろう。
しかし、当時も本当にわかっていたかどうかは別として、そうしたニヒリズムや実存主義哲学を声高に叫んでいた青春時代からは随分ととうざかっている若い今日の役者達が、なぜこうした人間存在を問いかける実験的芝居を上演しえたのだろうか。ここで、私は福島康が常日ごろから口癖のように言い続けている言葉を思い出す。「芝居ではいろいろ大事なことがありますが、台本(ほん)読みはとても大切です。本読みを徹底しなければなりません。」
つまり、芝居全体の中で、自分が何を表現し、どう演じなければならないかを徹底的に一人ひとりの役者が学習しなければならないということなのだろう。それは芝居というものが台本の役割を単に分担し、その細切れをつないでゆけばドラマになるといった昨今のテレビ番組のようであってはならないということであろうか。福島康の言う『役を演ずる』という行為は、どうやら単なる個人のパフォーマンスではなさそうだ。だから役者が役になりきるといっても、それは我を忘れて役にのめり込むというのとも少しちがうはずだ。或る意味では、その違いがどのようなものかを一人ひとりが自問自答し学び続けるなかで、役者が表現するということの重大事を認識し、役者として一人前に育っていくプロセスがあるような気さえする。そうした意味では、文化祭という実験の場になりうるイベントのあり方は風の子の抱える今日的課題を解きほぐしていく上でも大きな機能を果たすのではないかと思う。ともあれ、今回『ちゃらんけ』が上演した芝居では、この台本読みの効果が随分と発揮されていて、一人ひとりの役者が自分の役割を生きていたのにいたく感動した。
具体的には『自滅していく男』役の城戸智大が演じた葛藤と惨めさはなかなかの出来映えであったし、侵入家族の父親役・田中亨の狂言回しとしての確かさと、その常識を語るふてぶてしさ、長男役・大隈勝利の演じたにこやかな悪党ぶり、そこらじゅうにあふれている中高年女のご都合主義と身勝手を典型的に演じきった母親役の仁科愛と祖母役の佐多美樹の熱演、自分の思うままに生きていこうとする長女役を演じた大越文の、日常の彼女の横顔からは想像だにできなかった、孤立感と色気と優しさの意外性に溢れた表現、そして挫折の人間模様、さらには愛しく清楚にさえ見える次女役の河野真理子が見せた『実は恐い女』のインパクトと視線のぶれがない堂々たる演技等々、若い役者達のやればできる潜在力を十分にかいまみることができた。しかも、市民を護れないし、護ろうともしない警官の在り様をデフォルメされた形で演じた加藤悦子・高橋祐司の軽妙さ、メディアに巣食う者の根無し草的な無節操を一発極端に表現した田中美和の陽気さは、重苦しい舞台の笑い薬として随分と効果的であった。また、自称『家族』を名乗る『侵入した者達』の疑わしさを、『やはり本当に家族なのだ』と観客が納得するうえでかかせない、末娘のやんちゃぶりや、男の描いていたはずの平凡な人生設計とその未来像を悲しく印象づける婚約者役伊藤久美子の『なにがあっても傷つかない美しい装いと日常性』の表現も、随分と工夫のあとが感じられた。そして、現実を淡々と受け入れながら、家賃さえいただければと、『見まい』『聞くまい』『話すまい』を決め込むアパートの管理人役・野田ちひろの燻し銀のような演技力と都市の人間模様の象徴的表現も芝居の見事な縁取りとなっていて面白かった。
『ちゃらんけ』は戯曲選びから全員参加で行い、商業演出家主導にありがちな独裁性とは異なる学習の場を提供しえたことは福島康の面目躍如たるところであろう。福島の指導のもとに、筆者の顧問先である学習塾でも、教師達の失われた表現能力を回復するリハビリ的プログラムを二年間にわたって実施したことがあり、そうした成果の現実を踏まえ、福島康・川村史記共著の『子どもと親と先生のための表現能力育成法』も生まれた。おそらく、台本読みという課題に長い時間をかけて取り組んだ今回の成果に続く課題は、台本読みとともに、身体的な表現能力を一人ひとりがどのように向上させていくかということであろう、つまり、柔らかい心と柔らかい身体を持って、台本読みで得た戯曲を舞台の上の芝居に昇華させていくことである。
なお、最後になったが、今回の『友達』という芝居の中で、舞台空間創りに使われたロープの役割は印象に残るものであった。或る場面では、街中の電線網にも見え、ある場面では間仕切りのある部屋のアウトラインともなり、ついには、ちょっとした紐掛けの移動だけで、ハンモックのイメージや拘束の縛り綱、そして囚われの人の牢獄になったりもした。簡便で工夫に富んだこうした手法は、かつての風の子では随所に見られたものではなかったろうか。
とにもかくにも、安部公房の戯曲の決して古くならない人間テーマの本質を突きつけられたこの1時間40分以上にわたる上演時間の芝居は、一人の人間の破滅を決定づける死体となった男の上に、舞台に張りめぐられたロープのネットが天が落ちるようにいっきに落ち、侵入家族が旅出つシーンで幕のない終わりとなった。それは筆者には、幕引きのない演劇集団の今後の取り組み課題を暗示するようにも思えた。
以上、思うがままに観劇の雑感を述べたが、西暦2005年の文化祭では、ぜひこの果てしなきストーリーの新たな展開を期待したいものである。(西暦2005年1月7日 川村史記)