執筆者◆ 川 村 史 記


【序  文】
 比喩的な表現になるが、歴史を人格化するなら、当然、我々日本人の歴史にも、幼児期があったであろう。諺に言う『三つ子の魂百まで』の意味するところのパソナリティーの形成が、民族の歴史的経過の中にいかに現れているかは、我々にとって興味深い問題である。
 今日のごとく、東西の文化的交流が盛んになると、確かに『人類』とか『人間』とかいう、普遍的な語感に促されて、かなりの程度まで、異種民族が理解を深めあえるということが強調される傾向にある。事実このことは、全く否定されるべきではないし、私自身もある程度納得できる。しかし、交通機関の発達、マス・コミの著しい展開等々の要因によって、拡げられて行く相互の民族間の理解は、それ故にまた、その各々の文化の理解の困難な面や、今もって理解以前の種々のものを露呈していると言えないであろうか。我々は単に異国語を話せるということだけでは、この問題を容易に解決し得ないであろう。
 評論家の江藤淳氏がこの間の事情を次のように表現している。
 『------習慣と努力によって、私は自分の不完全な英語をかなり完全なものにすることが出来るかもしれない。---略---。しかし、リチャード・ブラックマーが沈黙の言語と呼ぶところのもの−思考が形をなす前の淵によどむものは、私の場合あくまでも日本語でしかない。---略---。この沈黙の部分を通して、私は日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながっているからである。』
 江藤氏の右の如き説明は興味深い。まさに我々は誕生と同時に運命的に『日本語』の内に生活を始めるのである。その言語は我々が漠然と想定するところの広域社会、相対的意味においてであるとしても、一つの全体となろうとしている、そしてなっている、いわゆる全体社会、我々日本人にとっての全体社会を満たしてきているのである。こう考えてくると、我々が一応の区画を持って境界をめぐらす、日本国と呼ぶ一つの体制を持った全体社会は、当然、独特の文化的社会的『三つ子の魂百まで』のパソナリティーを持っているといえるであろう。過去は捨て去られるものではなくて、色々な側面に止揚されていると思われるからである。かかる意味において、その形成の基底にあって働きかけている日本人のエートスを探ることは必要なことであると考える。
 それでは我々日本人にとっての全体社会、すなわち、日本国にあって内的な起動力となったものを、いかなる存在にみようとしているのか?この場合に私は、『村』が考えられるべきであると確信している。鈴木栄太郎博士が、『村』を全体社会の縮図としているのは、まことに先駆者の深き洞察である。それは顕在的な意味においても、潜在的な意味においても、全体社会の基本的な要因として、脈々と息づいて来た日本民族のエートスではなかったか。私は農村社会学の微視的な考察としてこれを扱うのではなくして、巨視的な視覚から扱うことによって、日本民族のノスタルジアを探らんと試みる者である。もちろん、このことにあたっては、社会学の前提である科学的なアプローチを忘れてはなるまい。ただ私は社会学の入り口にたたずむ人間に過ぎないから、およそ自信とは程遠く五里霧中であり、杖の無い盲人が進む如き覚束なさである。しかし、ままよ書いてみるばかりである。単に自分は何がわかっていないかを知るためにも、書くということはそれなりの意義を持った学習になるであろう。
 幸いにして、我々のまわりには多くの偉大な諸先輩の業績があまた存在する。これらを手掛かりに、自分なりの理解度でまとめてみたい。その点で社会科学に絶対的に必要な理論と実証の相補的重要性に照らせば、あまりにも誤謬多き観念的考察に陥るであろうことは、いとも明白であるが、ただただ私個人の学習行為として論ずるばかりである。

 考察するに当たって、私は『論』の全体を四つの部分に分けることにする。すなわち、次の通りである。

第一章 社会変動と全体社会の概念
第二章 村の歴史からみた二つの位置
第三章 全体社会の体制と村の性格
第四章 日本民族のエートス

 第一章においては『社会変動と全体社会概念』と題して、まず第一に歴史的側面を否定し得ない社会のその変動が、いかなる要因によってなされるかを、蔵内博士の理論を中心に考え、後にその変動の主体であるところの全体社会の概念を説明する。『村』を巨視的な立場から扱うのには、それを包括しているところの全体社会がいかなるものであるかを規定することは重要なことであろう。そうして最後に全体社会と部分社会の関係を見るおりに、理念型的な思考が要求される点について少々考えてみたい。
 第二章においては本論の始めとして、歴史的考察から窺い得る『村』の位置を、『体制』との関係から二つに集約して述べることにより、第三章への入り口としたい。
 第三章においては、『全体社会の体制と村の性格』として、第一章で扱った変動の要因を担う時代の異なった三つの村の姿を役割集団・前集団・後集団の概念で考えてみる。それはとりもなおさず、第二章で扱った村の性格的位置の変化をさらに掘り下げることである。
 第4章は『日本民族のエートス』という題目のもとに、この『論』の著者(私)の動機であった『村』の日本民族にとっての意義を結論的に述べるであろう。


[目次]
第一章 社会変動と全体社会概念

    第一節 社会変動思考の必要性
    第二節 全体社会概念の必要性
    第三節 理念型思考の必要性

第二章 村の歴史からみた二つの位置

    第一節 体制を浮かべる村
    第二節 体制と緊張関係にある村

第三章 全体社会の体制と村の性格

    第一節 封建主義体制と村
    第二節 絶対主義体制と村
    第三節 資本主義体制と村

第四章 日本民族のエートス

    第一節 神道について
    第二節 農村の基本的単位

第一章 社会変動と全体社会概念

第一節 社会変動思考の必要性

 日本の古典『方丈記』の冒頭に曰く。『ゆく川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまることなし。』
 世人が遁世という形で俗世を捨てて、山間に文筆の花を咲かせたこの時代はまた、日本的な運命感が如実に表現された時勢でもあった。乱世の相は世に満々ていたからである。ここでは『ゆく川のながれ』は歴史の潮流を表現し、その水に関して『しかももとの水にあらず』と言い放っている。そこには循環的な思考は含まれていない。世は世であるが、しかし元の世ではない。なんらかの変化がそこには洞察されている。『かつ消えかつ結びて、久しくとどまることな』き水泡、それは全体社会の中に生成消滅し、その全体社会のダイナミックな変化の要因を担う様々な集団の姿に似ている。この有名な方丈記の一節が、今日に至るまで、我国の人々の脳裏に普遍的な真理・理法として映っている。この限りで、この動的な変化としての変動という考え方を社会なる人間係数的(註1)な世界は必要としていると言い得るのではないだろうか。日本人の人生観の中にある聖人は、俗世にあって俗世の動揺を生む要因に、心を煩わされない人を指しているようである。それは次の文で表現された聖人の境地が示している。

  四不闘 (島崎藤村『東方の門』より)

 不與命闘 (命と闘わず)
 不與法闘 (法と闘わず)
 不與勢闘 (勢と闘わず)
 不與理闘 (理と闘わず)

 この不闘の対象となっている『理』『法』『勢』『命』の四つの要因に煩わされないところに聖人たる由縁があるなら、その四つの要因に煩わされ、圧迫されている俗人が感じている無常こそが、現実の社会の姿であろう。そうして、社会を有為転変の渦に巻き込み、個々人をして変動を意識せしめる要因として、理・法・勢・命を観るところに、蔵内数太博士の変動の理論があるように思われる。それでは、この四つの要因はいかなる性格のものであろうか?まずこの点を考えてみよう。
 このことを考えるに際して基本的なる命題ともいうべきものは『元来社会的な統一体は成員間の自我意識の融合と全体の各成員に対する規制とを相補的要因としている・・・(註2)』ということである。この社会的な統一体を全体社会の概念に当て嵌めると(全体社会の説明を次の節でなすであろう)自我意識の融合即ちwe-feelingにはコミュニケーションが、全体の各成員に対する規制には分化と統合がそれぞれ対応するであろう。そしてこの我々意識を持っているコミュニケーションは、『我々』が時空的に広がれば広がるほど、社会的に承認された勢力となる可能性を、いわゆる時代的な潮流を持つところの『勢』を生み出すことになる。他方、分化と統合は全体からの各成員に対する要求的規制と、成員からの支持の調和的接点における制度として、『法』を生み出すのである。この『法』が生み出されるところに、より大きくふくれあがった自我意識の融合体は、現実社会における機能性を高め、組織として『勢』を具現的な形姿にすることができるであろう。これら『勢』と『法』とはデュルケムのいう社会的事実(註3)として、社会の成員それぞれに外的に迫ってくることになる。
 以上、二つ『勢』と『法』はあくまでも社会に内在する要因であった。しかし社会に働きかけるのは内在的力ばかりではない。そこには当然、社会に外在的な力が想像されうるし、また現に存在する。出生にまつわる人的・物的・地域的・時空的情況や性別等は選択不可能な先天的、その意味で運命的な要因である。また、理性が探ることにより発見し認識しうる理法は、宇宙の法則等を考えれば明らかなように、人間が気づくと気づかざるとにかかわらず社会外的に存在している。即ち、前者は四つの要因の内の『命』であり、後者は『理』に対応するものである。しかし、外在的な力が単に外在的な力に止まるなら、変動の要因とは成り得ない。それが社会内存在となるところに重大な意味があるのである。即ち、運命は内在化されて、或る全体社会特有の宗教観や文化観、といった『・・・観』に代表される運命の捉え方を社会内化するのである。また、理法は知識として個人に摂取され、社会に内在化して文化という形をとるのである。以上四つの要因が相互に働きあって時空の内に固有の全体社会像を展開してゆくところに、我々が変動と呼びうる社会のダイナミズムが生ずると言い得るであろう。
 次に四つの要素を、その異同の面から図式化してまとめるに際し、蔵内博士のそれを用いることにする。
      

一般的

個別的

法則(理)

運命(命)

超社会的

規範(法)

潮流(勢)

 社会的


おおまかに一応、変動の要因としての『理・法・勢・命』を観てきたが、この四つの要因を包み込んだ全体社会にいかなる具体的な形をもって、各要因が関わるのかという点を少々考えてみよう。
 我々が社会を考える際に、常に浮かび上がってくる想念は『結合』と『分離』という相反する概念であり、社会に共存する求心的性格と遠心的性格である。『鶏と卵』ではないが、いずれが基本的な要素であるかはそう簡単に言うことはできないが、どちらかといえば『結合』にアクセントがあるように思える。何故なら、人間を世代として生み出してゆくその基本的単位は、夫婦結合であるからである。ここにおいては性的分離の事実はあっても、意識上『我々』であろう。そうして社会の最も基本的な形は夫婦なる二個人間に存する自我意識の融合に現れていると言えるから、社会を想念する時、社会イコール結合とはいえなくても、社会は『結合』をより重要な上位概念としていると言い得る一面を持っている。それでは、夫婦以外の場で、この自我意識の融合がいかなるものを生み出しているであろうか。まずそれには夫婦を中心としたごく密接な血縁(直系家族等)の自我意識の融合から始まって、遠い血縁をも含めたそれ、地縁に基づくもの、いわゆるゲマインシャフト的な自我意識の融合、そうしたゲマインシャフトから移行分離してゆく(註4)『より冷静・合理的』な利益・目的追求を意図したゲゼルシャフト的自我意識の融合等々、色々な種類、様々な段階にあるwe-feelingを考えることができるであろう。そしてそこに我々は、自我意識によって個人参加に成り立ち個人を超えているまとまりを観ることができる。集団の概念はここに存在の理由を見出す。
蔵内博士の文を引用するならば次のようになる。『・・・、人々が共同な運命、共同な遭遇、共同な任務、共同な目的を意識すると、換言すると共同の対象的なものをもつと、右の可能性にささえられて「われら」という主体的共同と、統一的な生活過程が現れてくる。ここに集団の概念が適用される。』
 それでは、『分離』の一面はどうであろう。夫婦という社会成立の基本的結合的存在も、それは二者からなる限り、IchとDuに分離しているであろう。そこで感情的融合の薄い広域社会においては対象が単数にしろ複数にしろIchとDuは、自我意識の外に目を向けた場合には必然的に出てくる。それは利益等の何らかの形で他の否定を必要とするゲゼルシャフト的な社会になればなる程、強いものであろう。しかし利益的社会と言っても、それは常に全体に志向している。だから分離が結合の上位概念であるとは言えないと考える。分離は結合しを問い、常に結合を反省する形で全体社会なる主体にかかわり、変化させるものであると考えるからである。そうして全体社会のダイナミズムはかかるIchとDuに目覚めるとこに存在する『集団』という部分社会が変動の要因を担い、あるいは担わされるところに出てくるのであると思う。
 かくて私は、変動の要因たる『理・法・勢・命』を具体的に担うものを集団であると規定する。こうして我々は蔵内博士の『前集団』『役割集団』『後集団』の概念を用いる必要に立たされるのであるが、全体社会概念を定義する次の章で扱った方がよいと考えるので、ここでは人々が変動を社会的事実として感じている限りにおいて、『社会変動』思考が必要とされるのであること、またその変動の要因は集団によって担われるのであることを述べておくにとどめる。

(註)

(1)・・・社会科学の対象は自然科学のそれとちがって、つねに人間の係り合っているもの、人間によって形成されるもの、また形成されたものである。それは何らかの意味で人間の形成物である。ポーランドの社会学者ヅナニェキ(Florian Znaniecki)はこのことを「人間係数(humanistic coeffcient)」と呼んでいる。(武田良三 社会学の構造P.3)」

(2)蔵内数太「社会学」増補版 増補序文 P.7

(3)「・・・、集団の成員は、おのおのの個人的意識をもつと同時に、その集団が成り立ち、その集団が存続することによって、個人の外側から一種の威圧を感じる。」(社会学辞典 有斐閣)
 この威圧に対して個人的なレベルでの思惟・行動・感受等の個人的意欲を超えて従わねばならない。そういった威圧(規制する様式とか制度)を社会的事実とデュルケムは呼ぶ。

(4)ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと単純に図式化するのは、誤りである。何故ならゲマインシャフト的な要素や形態は、より基本的なものとして、ゲゼルシャフトにおいて併存するからである。日本の「村」について考える時、この事は重要な意味を持つと考える。

(5)前記(蔵内数太著「社会学」)P.

第二節 全体社会概念の必要性

 前節において私は、全体社会なる存在を変動を包括した、何らかの広域社会であることを暗示したが、この節では全体社会をいかに概念的に定義しうるのかを扱ってみよう。
 我々の日常生活を考えてみると、我々個々人は、多くの様々な結合の度合いや性格の異なった集団に属している。がしかし、すべての集団に直接に参加しているわけではない。ただ洞察によって、自分の属している種々の集団を部分として意識し、それを全体という統合の概念に照らして、自らの位置を確かめんとしている。そこに洞察されている全体とは、相対的であるとしても、『一つの全体となろうとしている広域社会』であり、その存在の事実である。我々が全体社会の概念を必要とする理由はこの点にある。ではいかなる内容をほ持ったものであるか。その定義は単純ではない。何故なら、全体は部分から成るとは言えても、部分を集めれば全体となるとは必ずしもいえない。必ずしもいえないところにまた、部分との連続における性格も否定しきれない面がある。この矛盾した二面性をどう扱ったらよいのかを検討するに当たって、二宮哲雄博士の解釈は興味深く参考になるものである。すなわち、次のように私は解釈する。まず、かつて、高田博士は全体社会を集団とは区別して扱っていた。その理由は、集団は互いに競争関係をほ本質に宿しているから、集団が集団をほ要素として成り立つことはない、だから全体社会を一つの包括的な集団として見ることはできない、という点にある。よって博士の理論は国家も集団であるとする多元的国家観に立脚しており、全体社会は国家も含み、これを越えたところに考えられている。このような性格を持った全体社会は、成員のすべての参加を前提とし、無限に複雑に錯綜した個人と個人のすべての結合の社会的繊維からせ成っているのであり、『一定範囲の人々が、他の範囲との交渉を切断しても、現在のままあらせゆる方向に自足生活を営み得るほどの結合圏(註1)』となりうるものである。この場合、自足生活を営み得る結合圏をほどの程度に捉えるのかという問題が出てくる。この点で高田博士の場合は、一民族一国家を遥かに越えて、『世界』にその力点を置いて考えている。以上が高田博士の全体社会概念のおおまかな説明であるが、博士の場合、個人と個人との結合に視点をほかいて、諸結合を単位とした、すなわち、集団を単位とした、集団相互の結合に目をほ向けなかったとこに他の考え方への道を残したといえるのである。
 次にタルコット・パーソンズの理論(註2)に注目しよう。ここでは、全体社会を内的に包括された様々の結合からなるあまたの部分社会との拡大延長的連続性を持たない『超越体』として捉えている高田博士の非連続性主調とは異なった論点に立っている。パーソンズは社会分析にあたって、人間行為の分析的枠組を設定する。すなわち、我々はここにおいて、彼のシステム論を想起すべきである。『人間個人が行為を行う時、彼自身は自らの行為の過程と、彼の行為が関係せしめられる他の個人との間の行為の過程の中に存在せしめられるが、かかる行為の相互関係と過程の中に通っている様式(註3)』これらを体系的に扱うところに彼の理論がある。彼の理論はA・G・I・Lの図式的分析的枠組に具体化されている。この枠組は周知のごとく、ミクロな世界からマクロな世界まのであらゆる対象に対して適用される一般理論である。この枠組を生み出した彼のシステム論の三つの基本的命題、『(1)システムの機能的分化、(2)分化した機能間の相互交換、(3)その交換を通してシステムは均衡状態を保つ(註4)』に示されている通り、それは同時にあらゆる社会的行為を四つの機能の相関を通して均衡に志向するものとして捉える、均衡理論であり、変動に対立する存在である。このように高田博士のごとき非連続的存在としての全体社会像はパーソンズにはない。彼にとって全体社会もまた社会体系の一タイプなのであり、その意味で連続的なものなのである。
 最後に蔵内博士の理論に移ろう。蔵内博士は二者を止揚する立場で、全体社会概念を提起する。すなわち、全体社会は部分社会との関係において連続を持ち、同時に非連続性を持つとするのであり、言い換えれば、全体社会は集団と考えられると同時に、集団や社会関係を越えた存在であると考えるのである。この際に高田博士が強調した集団は相互に競争関係にあるから、個人は同時に複数の集団に入ることができない、という理論を批判している。高田博士は、個人を中心に考えているから、個人の心理的な側面からその不可能を主張するが、自我意識の融合の強弱の種々なる側面を考慮に入れてみても、それは否定的材料にはならない。一個人が同時に二つ以上の集団に加わることは、意味的レベルでは可能である。すなわち『われら』なる意識は狭義に解すべきではない。一個人は複数のミクロからマクロまでの色々な集団に累積的に加わり得る存在であり、自我意識の融合をも複数に所有しうる存在なのである。こういった観点から全体社会の集団性も否定されるべきではないと考える。蔵内博士はこのように高田博士と相異しているが、国家が構成されている範囲に全体社会を位置づけている点でも異なっている。
 以上によって、二宮博士の論理の私なりの解釈を終わるが、私自身は全体社について二面性から見て行くのを支持する。すなわち、一方に部分の集合体としてのまとまりが、常に現在的に均衡に志向する全体社会の一面があり、いま一方に非連続的な形で、社会的な事実として、威圧的に様々な変動の要因を投げかけてくる全体社会の一面がある、と考えるのである。
 我々はここで前節で保留してあいた問題に立ち返ろうと思う。すなわち『前集団』『役割集団』『後集団』の三つの概念に向かってじょじょに話しを進めてゆく。
 我々が提起した全体社会なるものは、前述したように、我々が直接参加しうる総和としての部分社会を部分社会とし意識させる、より広域な間接的参加の社会である。しかし間接的とは決して『無価値』の意味で用いられない。それどころか、この社会は『間接的参加』が決定的な意義を持つ社会である。蔵内博士の言葉を引用すると、『コミュニティーが広がって人々の間の選択的結合が無数に分化』し、人間生活のあらゆる側面・人の追及しうるあらゆる価値種類に対応する活動分野が出揃って、一つの自足的な生活範囲が成立して(註5)』いる社会である。これらはすなわち、【コミュニティー】が拡大し、【機能的な分化】が確立し、その分化と並行した形で相関的に【伝達網】が複雑広域化し、機能的分化の高度な帰結として【国家】が統合の役割を持つ広域社会である。ここで【】で括った【コミュニティー】【機能的な分化】【伝達網】【国家】は、全体社会の変動要因と深く関わっている。すなわち、コミュニティーはゲマインシャフト的社会であり、その意味で全体社会にとって基礎的であり、血縁・地縁の感情的没個人的We-feelingの範囲から始まる個人に選択不可能な運命的社会である。その社会が人間の理性に導かれて『理法』を社会内化し、より生活の能率的向上を計るようになり、生業の機能分化へと向かってゆく。このときに当たって重要な位置を占めるのはコミュニケーションである。もちろん、このときに初めてコミュニケーションのが登場するのではない。何故なら、社会の最小単位である二人結合の間にすでにコミュニケーションは存在するのであるから。コミュニケーションはこのように、社会の発生と共に存在しているののではあるが、コミュニティーが高度に自己を拡大しようとする際には、理法との結合によってコミュニティーを遥かに越えて無限に広がる可能性を宿している。よって地域的に全く面接の機会のなかった人々との間にも直接的にあるいは間接的に面識を持ち、そこに一つの連帯感を生み出す社会的『勢』になることができる。そのがますます広域に進むと、その高域な連帯感を基礎に、伝達の波によって広くゆきわたったあらゆる価値文化を統合する形で、コミュニティーを越えたゲマインシャフト的社会は国家を要求する。すなわち、『法』に根ざした機能を要求するのである。
 かくしてここに変動の四つの要因として挙げた『理・法・勢・命』が対応する対象を得る。つまり、分化−理・国家−法・伝達(コミュニケーション)−勢・コミュニティー−命の如くである。
 以上の考察の結果、私は蔵内博士が高田博士とパーソンズの理論を止揚する形で、自己の理論を展開しているのを認めるが、より積極的に高田博士の理論を応用していると思える。つまり、全体社会を『超越実体』として捉えることにより、国家をも集団とする多元的国家観は、蔵内博士の全体社会の変動を中心に考えた、変動にかかわる集団の三つのタイプへの理論的基盤となっていると考えられるからである。次にそれをかかげる(註6)。

前集団『特定の国家的統合に先立って存在し、統一性を何程が保存しているところのものとしての集団である。』

役割集団『国家的統合を前提とし、その機能を担当する人間集団ないし組織』

後集団『一定の国家組織の事後現象であるが、国家機構内に与えられた地位を基礎とするものではなく、国家の体制や政治に対して調和できず、あるいは不満を感じてきたものの集団である。』

 これら三つの集団の内、前集団にはコミュニティーの要素が、役割集団には国家と価値機能の分化が、後集団にはコミュニケーションがそれぞれ対応しているのが理解され得るであろう。すなわち、前集団は『命』を、役割集団は『法と理』を、後集団は『勢』を担うのである。しかし充分注意すべきことは、一つの概念集団が『理・法・勢・命』の内、たった一つの要因から成っているというのではない。ただ他の因子に比較して、より強調的に核として有しているということである。また、いま一つの注意すべきは当然のことであるが、ある集団が終始前集団に、役割集団に、あるいは後集団の性格にのみとどまることはないということである。
 以上、三つの概念集団を見てきたが、今一度、方丈記の冒頭を思い浮かべるなら、歴史とい水の流れの中に生起した大きな水泡となる集団が役割集団の名で呼ばれる。しかし、その水泡は長く止まることはない。別の小さな水泡が一つ二つと集まって次第に大きくなりつつ、既存の水泡にとってかわろうとするからである。こうして国家体制を担う集団は永遠の歴史より眺むけばまこと『かつ消え、かつ結びて、久しくとどまること』を知らない存在である。
 最後に歴史性のない均衡理論(註7)は、いかなる情況に可能であろうか。私は役割集団が長期にわたり衰えを見せないときに変動の問題は意識の外へと放り出されると思う。ここでは変動ではなく『改善』とか『改良』とかいう常に役割集団の均衡に志向する変化があるのみである。すなわち言い換えれば国家体制が相対的な意味で安定をみている社会から生まれたものであり、歴史の浅い全体社会に強く見られるであろう。この意味でアメリカ社会はその典型であったろうが、それが時の積み重ねで一面的理論になりつつあるのは否めないし。

【註】

(1)蔵内数太『前掲載書より』P236
(2)私はパーソンズの社会体系の理論に関して直接あたることができなかったので、佐藤慶幸著の『官僚制の社会学』中、パーソンズを扱っている部分を参考とした。
(3)二宮哲雄『日本農村の社会学』P7
(4)佐藤慶幸『官僚制の社会学』P127
(5)蔵内数太『前掲書』P244
(6)同著者 同書 P256より引用。我々は考えねばならない、この三つの集団の範囲は、現実的にはそんにな明確に捉え得るであろうか。現実的には錯綜・累積等の状態に恐らくはあるであろう。
(7)均衡理論を図式的に見る場合に、我々は機能間のタイムラグの問題を見落としてはなるまい。そうして現実的には、そのタイムラグの生起する意味が、均衡論から変動論への道を開いているともいえよう。

第三節 理念型思考の必要性

 この第三節では、『変動』にアクセントを置く、私の論旨の故に、それにとって『理念型』なるものが何故必要かを述べるであろう。
 例えば、我々は三角形図形を考えることができる。同一平面上で三本の直線に囲まれて構成される図形である。我々はそこで様々な三角図形の種類を列挙する。しかしながら、現実的には、我々は完全な点も線も描くことはできない。故に、その結果、完全な角度も得ることもできないから、直角三角形、二等辺三角形、正三角形等々といっても、それらは現実に存在する不完全図形から理性によって観念的にイデェアの世界を構築しているにすぎない。しかしまた、そのイデェアは常に現存の実物の観察にその手掛りを仰いでいる。かかる意味でイデェアは現実から材料を得ているが、現存する事物にそのまま完璧に現れてはいない非現実的な存在である。逆に、非現実的完璧の故に、現実的実物に対する尺度となりうることが重要である。すなわち、との程度完璧に接近したものであるかを比較検討し得る。また例えば、二等辺三角形のイデェアはそれとの類比によって他の類型を位置づける。
 少し長くなるが、いま一つの例をあげることにする。これは和辻哲郎著の『風土-人間学的考察-』について、谷川徹三氏が述べていることである。和辻氏のある文を彼はまず引用している(註1)
--「自分達がモンスーン地方から沙漠地方を経て地中海に入り、古(いにしえ)のクレータの南方海上を過ぎて初めてイタリアの南端の陸地を瞥見し得るに至った朝、まず我々を捕らえたものはヨーロッパの『緑』であった。それはインドでもエジプトでも見ることのできなかった特殊な色調の緑である。ころはちょうど『シチリアの春』も終わりに近づいた三月の末でふくふくと伸びた麦や牧草が実に美しかった。が最も自分を驚かせたのは、古のマグナ・グレキアに続く山々の中腹、灰色の岩の点々と突き出しているあたりに、平地と同じように緑の草の生い育っていることであった。羊は岩山の上でも岩間の牧草を食うことができる。このような山の感じは自分には全然新しいものであった。この時に大槻教授は『ヨーロッパには雑草がない』という驚くべき事実を教えてくれたのである。それは自分にはほとんど啓示に近いものであった。自分はそこからヨーロッパ的風土の特性をつかみ始めたのである。」--谷川氏はこのこの文について以下の如き説明をする。--実際にはヨーロッパにも雑草がないわけではない。しかし、---略---、ヨーロッパでは夏が乾燥期であるから、それは牧草である柔らかい冬草を駆逐し去るほど旺盛になることなく、人力を加えないでも大抵の土地が一年中牧場として役立つ。そこから和辻さんは、ヨーロッパの風土を『牧場』として捉えたのである。
 『牧場』は現実ではない。類型としてのイデェである。しかし、このようにして、イデェを捉えた眼は、そのイデェによって、イデェを支えるものを見る。---略---そしてそのようにして定位された『牧場』のイデェとの類比によって、『沙漠』や『モンスーン』という『風土』の他の類型が定位される。--
以上が谷川氏の説明である。すなわち、前述のごとく、イデェアは、それをささえている現実から仰いだ材料を、程度の差から色々な段階に位置づける物差しとなるとともに、それ自身との類比によって、他の類比をイデァとして位置づける、ということができるであろう。こうした思考の方法は渾然たる歴史を担った社会の現実を、理論的に秩序立てる際には不可欠な要素である。社会学においても、こうした思考への接近は当然存在の場を与えられている。それは主に均衡論に対立する変動論の立場においてである。すなわち、過去から現在までの歴史を、その流れをある視覚から幾つかに切った場合、その区分された時空の領域の中で、なんらかの社会的存在がどう変質したかを『理念型』を軸に比較検討することによって、変動の事実を明確にし得るのである。この社会学に理念型思考の道を開いたのはM.ウェーバーである。ではいかなる意図から彼はこの理念型を生み出したのか?
 M.ウェーバーは近代の宿命を『合理化』ならびに『専門化』に見る。そこで社会学もまた例外ではないとし、専門価値領域の一つとして自己に与えられた分野の外に足を踏み出すことを強く戒めた。彼は科学の領域に止まり、他の科学ならざる分野からのいかなる侵入も許さない。こういった立場に立って始めて、宗教とか国家体制とかの拘束的価値から解放され、個人の思考の自由を獲得するのである。この思考の自由を大前提に、社会的存在を純粋に科学的に比較検討するのが彼の求める社会学であったのである。そうして、その比較検討のツールとして、理念型思考が誕生した。
 かつての早稲田大学教授、佐藤慶幸教授は理念型について、こう述べている。『理念型は、認識主観のもつある一定の価値理念の観点から、すなわち「価値関係(Wertbeziebung)」的に、ある一定の要素を思惟的「一方的に高昇」することによって構成される。』と、そうしてそれは同時に、『特に、歴史的個体又はその個々の部分を発生的概念において捉えようとする試み』でもある(註3)。


(1)和辻哲郎著『風土--人間学的考察--』の中の谷川徹三氏の解説 P.243

(2)佐藤慶幸著『官僚制の社会学』P.4

(3)富永祐治・立野保男訳 M.ウェーバー著『社会科学方法論』

第二章 村の歴史からみた二つの位置

 第一章は、この論文にとって必要不可欠なツールを準備する段階であった。それが一応済んだので、いよいよ第二章から本論に入ろうと考える。そこで『序文』でも述べたように、常に巨視的な視角から『村』を考察する立場から、歴史の内に生成消滅する『社会体制』との関連を離れることはできないと思う。そこで第二章ではこの点を些少抽象的に扱ってみて、第三章において具体性を持たせたいと考える。
 
第一節 体制を浮かべる村

 我等が日本の歴史も種々なる『社会体制』の歴史を持っている。律令社会・封建的社会・封建社会等々は一つの全体なる広域社会を形容する体制の存在を示してきた。しかし、明治維新を境界とした前後の時代では、そのあり方が体制との関連上異なっている。明治維新以前の村は『政治的な制度によっていろいろの名称で呼ばれ、また区劃せられたことがあったが、その根底においては、民衆は自分達に必要な必然的な生き方をして来た(註1)』のである。村は生活の自主不可侵性を維持していたのである。譬えば、体制の側からみてゆくと次のようになる。
 古代社会においては原始的な村が体制の中に顕在していたが、律令の社会体制の許では、体制の表面から潜在してゆく。そして律令社会の崩壊に始まって小円の隆盛をみる社会に潜在し続け、荘園の隆盛する社会に発生上の起点を持つ封建的社会をへ、体制の無秩序時代を通り抜けるその長い年月の間『現実的な村』は常に見えざる存在であった。この『見えざる存在』が『見える村』になるのは封建社会への進展の入り口として考えられる検地を待たねばならなかった。
 この様に社会体制の面から見ることと村は浮沈するものの様に思えるが、それは一方の側からのみ見た目の錯覚である。村自体は自らに背くような不安定な生き方は決してしてこなかった。とわいっても、あまり単純に考えてはならない。即ち『民衆にとっての必要な必然的』な生き方を保持するには、体制の側からくる圧迫に耐えうるような形態に自らを変える必要がある。この意味では全体社会と常に関わっている存在であった。それはあたかも、いろいろな環境に棲む魚が各々形態は異なっても魚としての生活の範疇を、決して逸脱することがない姿に似ている。この魚の魚たる生活の範疇にあたるものが鈴木栄太郎博士のいうところの『村の精神(註2)』であろう。このように原始的形態の村がそのまま発展したとはいえないが、しかし、村が新しく別の角度から出て来た(註3)にしても、体制の便宜的区劃によって作られた官制の村でない限り、即ち、民衆の側から生まれる限り、『村』という概念で捉えられる集団はその生活の範疇において以前の形態を何に程か残した、そして発展させた一つの自治の王国であったのである。この村の安定した基盤の上に、色々な体制はかわりばんこに胡座(あぐら)をかいたのであるともいえる。
 では何故、村がこのように体制の台座の位置にとどまり続けたのか。それは村が典型的に『命』を担った集団としての性格を持っていたからである。そこでは共同体のさらなる結合に向かって、あらゆる行動が結果するように志す求心的力は働いても、その求心的力があまりに強いために、天地の『理』に目覚め個人という主体となってい、遠心的に外社会に向う意欲的『勢』となることが不可能であるからである。その求心的力の母体を筆者は自給自足経済にみる(これは一面的考察であるが)。
 自給自足経済(註4)とはもとより、生活に必要なすべてのものを、言い替えれば『すべての価値』を自らの手で生み出す経済形態である。自己の共同体の外に自分達に必要な価値を求め得ないの生活である。そこでは自分達の生活している範囲のみがあらゆる価値を生み出す全体である。その共同体の外に放り出されてしまったなら、何物をも得ることができない。逆にその共同体の内に在るなら共に運命を担うものとして、地縁的血縁的自我意識の中に自己の生命を保障される。個々人にとって村を出ないこと、即ち、彼等にとっての最も大きな社会的広がりを村の範囲にとどめそれに自足すること、これこそが逆にいうと変動常なき社会を無事生きる最善のあり方であった。運命に甘んじて没我的生活を送る。そこでは体制の様々な動きはいわば余所事であった。
 このようにして、体制が入り乱れても土台として恒常的安定性を有した村は『命』を担う自足的社会にとどまり、決して自ら体制に反抗する積極的集団に抜け出ようとはしなかった。そういった特殊的安定性から、筆者は『体制を浮かべる村』なる表現を用いたのである。
 この体制の側の消極性を反省して、積極的に役割集団の位置に村を引き上げたのが、封建体制の特徴である(註5)。しかし、それも客観的には村の上に浮かんだ体制の姿に過ぎないと言えようが、ともかくも役割集団として村は顕在化したのである。

【註】
(1)宮本常一『村のなりたち』
(2)鈴木栄太郎の概念であり第四章で扱う
(3)ここで言う新しい角度からの村とは、荘園制の崩壊過程を経て、名主の勢力と結びつき、より拡大された結果生じた自治的郷村のことである。その自治的村・自治的郷について説明する。
〔自治村〕 各地に地頭が置かれた頃の荘園内には、荘民の共同生活の横の連結として、灌漑施設や共同用益地を中心に幾つかの『村』があった(この中には発生史的にみた原始的村の形態もあったであろう。)これがやがて村の有力者たる名主達の一荘園的結合にまで発達して自治村となった。
〔自治郷〕 郷は、初めは神社や寺院の近くの、その直轄領の名であった。このような郷には、農民の他に商工業者もいて、郷民の生活は比較的豊かで文化も進んでいた。しかし、これは領主との強い結合を持っていたので、自治村と同様の意で我々が重視しなくてはならないのは名主の力が大きくなった結果、室町時代の初め頃から荘園や公領の中に発達してきた『新しい郷』である。
 この自治郷村は名主の台頭と関連しているとはいえ、名主だけの集団ではなく、郷民全体の結合と郷民共同の利益に志向するものである。こういった自治郷としての村が我々が今日よんでいる旧村の概念で扱う『村』の原型といっても良いかと思う。
(4)自給自足という場合、その価値を生み出す主体は農耕であり、これは人間にとって『運命的』な存立の基盤である。それはもっともミニマム衣・食・住を満たし得る根源的な価値母体であると思う。
(5)逆の言い方をすると、体制を築く際に村が無視しえないほどに大きく成長したことを意味する。
 しかし、この成長とはゲマインシャフトの域を脱してはいない。

第二節 体制と緊張関係に立つ村

 我々は現在『村』を自足的集団と見ることはできない。それよりももっと広域な社会内に生活していることによって、初めて自足しえる存在であることを認めている。すなわち、村は全体社会に対する部分社会であるといわねばならない。村の内に彼等の必要とするすべての価値を見出そうとしても、村の内ではそのほんの一部しか手に入れることができない。その他の多くの必要価値は相対的意味での全体社会に求めねばならないのである。その観点から明らかなように、村は前節でみた如く積極的に体制に取り入れねばならないほどの役割集団では現在なくなっている。言い換えれば前集団への後退が見られる。この節では村にとって本来的な要因『命』が他の変動要因『理・法・勢』との関係上、いかなる内容を持っているかを見ることにより、明治維新に入って来た外国の諸物が変動に関わった事実を指摘し、村の前集団への長い叙々なる移行の出発点となったことをのべてみようと思う。

〔命と理の関係〕
 我々はこの関係を考察するにあたって、次の例を引くことができる。すなわち、日本の文化は借り物であると言われる。この場合、百パーセント自信を持って「否!」と返答する日本人はほとんどいないであろう。確かに日本は歴史の初期から朝鮮・中国等の大陸文化の生んだ知識を輸入して来たし、明治維新以降は膨大な量の正用の知識を輸入して来た。それによってまた確かに、日本は旧来の伝統的要素を変化破壊した一面がある。しかし、他面およそ生(なま)の形で吸収されているものは何一つない。それらは、常に、吸収される過程で日本的に変容されたのである。よって我々は『命』と『理』の関係について『前者が後者を変容し、後者が前者を解体する(註1)』と述べることができると思う。

〔命と法の関係〕
これは明治初期に行われた行政区画『大小区制』の実施に対する大久保利通の上申書を検討すると面白い。すなわち、彼は次の如く述べている。
 『専ラ戸籍調査ノ為ニ之ヲ設ケ従来荘屋名主年寄等ノ旧弊ヲ一洗セントスルモノニシテ汎ク行政上ノ便ヲ謀リタルモノニアラス・・・数百年来習慣ノ郡制ヲ破リ新規ニ奇異ノ区画ヲ設ケタルヲ以ッテ頗ル人心ニ適セス 又便宜ヲ欠キ人民絶テ利益ナキノミナラス只弊害アルノミ・・・地方ノ区画ノ如キハ如何ナル美法良制タルモ固有ノ習慣ニ依ラスシテ新規ノ事ヲ起コストキハ其形美ナルトモ実益ナシ 寧口多少完全ナラサルモノアルモ固有ノ習慣ニ依ルニ如カス(註2)』
 以上の記述から考えるに、国家から出された法令は多くの場合運命的集団の部分的な共同体主義の生活原理と矛盾したり、和合しにくい緊張が介在する。それが『理』に則した『法』への展開であっても、旧来の習慣を度外視したものである限り、実益がないのである。つまり、本当に実益をあげようとするなら、何百年も培われて生育して来た習慣に譲歩し応用する態度ことが、必要とされるわけである。ここにおいて『全体社会的統一の立場を強調する法は部分的な共同体本位主義と矛盾し、前者の自覚的契約と合理主義は後者の非合理主義と矛盾する(註3)。』という関係が『命』と『法』の間に存在する。

〔命と勢の関係〕
 此処に生ずる緊張関係は、現在のマスコミの『作用』を参考にすれば明らかであろう。村のような自然的共同体内に生活する世代の内より高齢な者ほど、村のもつ道徳ならびに習慣等の規範を一つの自足せる精神として尊び、それを保護持続し小世界的枠の内に最善を見出そうとする。しかしそういった自然共同体内の若い世代の者達は、一面にあって村の自足性を支えつつも他面において其処から離反し、世代として広く強く結びつこうと志向する。この面に大きく働きかけるのが、不特定多数を対象としたマス・コミュニケーションの力である。そこで形成される若い世代の結束は、『村共同体の結束』の小世界的特殊的非合理的性格に比較して、大世界的・普遍的・合理的である。つまり『広域的伝達のつくる勢は、パーソナルなコミュニケーションに基づく共同体的人間関係に対して、分離作用をなし、共同体の結束の中にそれを超える結合原理を介入させる。また部分的地域社会間の社会的障壁と封鎖をよわめ、つよい結合と同質性を基礎とする象徴的(註4)表現を困難にする(註5)』という関係を『命』と『法』の間には見ることができるのである。

 以上の説明からわかるであろうが、『命』は本来的に『理・法・勢』との間に緊張関係を有している。であるから、明治維新における西洋知識の量と質にわたる膨大な輸入は、それが西洋において実生活を動かす基盤となっている程の、エネルギーを持ったものであるだけに、脅威的ショックと緊張しを共同体に与えた。何故なら、知識とは社会に外在する『理』が、内在化された所に生まれるものであるからであり、西洋知識との対面は理との対面にほかならなかったからである。それは村共同体の基盤を揺り動かす危険な代物であった。しかし、国家体制自体も、村共同体と適合的な延長のような自足的封鎖的小世界に止まることは許されなかった。目前には否応なしに異国との交渉が、理に則した体制との交渉が迫っていた。それに応ずることができなければ、国としての生命を断たれる状況であった。故に、異国の理に基づく法に統合された時の勢いへの対抗の前には、命の臭いに満ちた体制は太刀打ちできる存在ではなかった。よって体制は内部の犠牲を払っても理を摂取する必要に迫られた。その理はまたすぐに応用された。よって消化不足が随分と起こった。こういった状態であったから理と命が混濁した俄作りの体制はその統合の面で、自らもまた村の如き部分社会に対しても命−理の要素間の摩擦を起こした。前に引用した大久保利通の上申文の例もそういった事情を示している一つである。とはいえ、混乱の過程を経る間に、日本にとっての命的要素に濾過され、日本的な解釈に立った体制の運営が確立していったのである(註6)。そこでは村は役割集団としての機能は持続していた。しかし村自体が自足性を解かれたことも事実であり、そのことが前集団への叙々なる移行の起点なった。村は役割集団と前集団の性格を併せ持って、全体社会の内に大きく揺らいだのである。この時になって村は体制と適合性にあった旧来の立場を失い、緊張関係に立つ自己の姿を見たのである。それは、命と理・法・勢の間に醸し出される本質的な関係であった。



(1)蔵内数太 前掲書 付録 P.366

(2)潮見俊隆他共著(日本の農村)P.27

(3))蔵内数太 前掲書 付録 P.366

(4)有形無形の財がその有する直接の効用のためでなく、社会的勢力の記号−象徴としてつよく要求せられる事実は、人間生活において『社会』の要因がいかに重要かを示すものであるが、同時に社会は記号・象徴によって始めて機能(している。(蔵内数太前掲書 付録 P.226)

(5)蔵内数太 前掲書 付録 P.366

(6)『共同体的意識の連続としての国家主義が存在する。』というのはこの点に関してであり、これは『命と法』の緊張関係に矛盾するようであるが、我々の全体社会に一般的性格や文化型が生ずるのは、かえってこうした矛盾した性格の故であろう。

 以上で第二章を終わる。この章では明治維新を期に大きく転換する村の姿を対照的に、抽象的に扱ってみた。 

第三章 全体社会の体制と村

 第二章で見たように明治維新を境に、全体社会の変動によって村の位置づけが大きく変化している。すなわち、我々が現在において村を前集団として見ているが、その前集団への移行は明治初期の体制変化に起源を有している。それ以前は封建体制のもとで役割集団であった。このように全体社会との関連において村は様々な位置に置かれる。この点を第三章では見てみたいと思う。

第一節 封建主義体制と村

 前述した如く、荘園制の崩壊過程の中で成長していった村は自治郷村として社会体制を築くに際し、見逃すことのできないほどの発育を遂げた『勢い』となっていた。それを鋭敏に洞察したのは豊臣秀吉であった。彼は検地(註1)に臨んで、長い乱世の結果、明確な土地区分が見失われてしまって、所有者の権利が重なっていたり、同じ土地が別名で呼ばれたりして混乱していたので、領主権の絶え間なき変化に伴って、領地の区画が様々に伸縮興亡しても、そういった表面の土地区分の複雑さとは関係なく、安定し生育してきた郷村を一単位として全国の土地を重複なく、正確に捉えようとしたのである。かくしてその検地によって意図されることは、『・・・、たんなる土地の丈量ではなく、新しい領主権の確立を意味し、単一な領主権を新領域の農民の上に設定することによって、従来の複雑な土地所有関係や年貢収取関係を単純化する(註2)ということであったのである。』
 ここに封建主義社会と村落共同体の密接な関係がでてくる。何故なら、封建社会の経済的基礎は封土としての土地であり、そこからの収益であったから、封建社会では農業が基本的産業である限り、当然経済的一単位としての村との関係は密接である。このような意図を持った太閤検地の意義を引き継いだところに成った徳川氏による封建体制は、村を全体社会内に役割集団として組み込むことになるのである。この『村』の役割集団としての位置が意味する重要な一点は、村自身が本来持っていた自治的性格の大部分を失って行くことであり、あらゆる側面から体制は、村を束縛することによって自給自足性を保持させ(註3)、収益をより多く生産させようとした。それは『慶安の触書』の中に如実に記されている。このように体制から受ける束縛によって、旧来の自治性の大部分を失った村は、体制の側からの強い意図的な性格づけをされるのである。それが封建的制度を持った『村落共同体』の名で今日まで呼ばれている村の発生的姿である。
 体制の側からいわしむれば、自然経済に基礎を置く(註4)ことがいかに農民にとって重荷であるかを充分知っていた。農業技術はそう高度に発展していないし、すべての収穫によってさえ、ようよう生活し得るかどうかといった困窮の状態は、その上にかさねられる領主の貢租取り立てに一層その厳しさを増すであろうことは明白であった。そこで相互扶助のための共同体として村しを性格づける必要を考え、実施し0 たのである。それは農民への労(いたわ)りではなくて、共同責任を負わせることによって常に一定した税収を得るための、冷厳な政治的措置(註5)であった。しかしここで政治的意図を強調するあまり、村の姿を見失ってはなるまい。ここで村と呼ぶのは体制以前から存在していた『命』を担った集団としての性格である。このゲマインシャフト的集団の自我意識融合の感情はすでに相互扶助を含んでいる。そこでは他人の痛みも我が身の痛みである。よって村落共同体といったところで、自生的な村の性格はかなりな程度まで彼等の手に残されている。いや充分に満たされている。体制はその自生的村の性格を巧みに利用する(註6)形で、自己の政治的意図を滑り込ませたといった方がむしろ正しいだろう。しかし制度として介入する限り『命』と『法』の関係に客観的に存する緊張があるから、それは農民にとって重苦しいものであったことも確かであろう。
 いまひとつ、経済的側面から補足的に付け加えておきたいことは、水稲の江戸時代に入ってからの広範囲への普及である。すなわち、米は農産物の中で、封建社会を支える重要な価値であったので、水稲のできうる所は少々条件が悪くても(註7)、さしょうの無理は承知で水田を開かせ、田畑の両面から耕作をするようになった。そのために浮動性の高い山村の民衆も定着性を強められた。もちろん、定着を確保することは農民を土地に縛りつけるために必要(註8)てあったから、政治的意図として国境に近く番所や関所が設けられて、そこで農民をチェックしたであろう。しかし、水稲を作ることによって浮動性の高い農民が定着するということは、『村』の原始的型が『群』の水稲を介しての土地への定着に起因することからして興味深い。



(1)検地の意義はすでに守護大名によっても重視され、分国を支配する基本的単位として郷村制を捉えていた。
(2)楫西光速「日本資本主義発達史」
(3)『各藩によって相異はあるが郷村に商人工人を居住させまいとしたのは当時の地方政策における一貫した原則であった。生活度が高くなり、そのために貢税を怠るに至る恐れがあったからである。』鈴木栄太郎「日本農村社会学原理(下)P.549 一般に当時農村部落には職業の分化がほとんどなかった」
(4)『百姓は天下の根本なり。これを治るに法あり、まづ一人各各の田地の境目をよく立て、さて一年の入用作食をつもらせ、その余を年貢におさむべし。百姓は財の余らぬように不足なきように治ること道なり(日本経済叢書)』日本史資料集(教学社版)。
(5)『百姓は飢寒に困窮せぬ程に養うべし。豊かなるに過れば農事をいとひ、業をかうる者多し。困窮すれば離散す。東照宮上意に、郷村の百姓どもは死なぬよう、生きぬようにと合点いたし・・・』(続日本経済叢書)日本史資料集
(6)「五人組制度」は連帯責任の強制であるが、責任としてではなく、村本来の存在の姿として体制に先だって連帯的共存は備わっていた。
「地方三役」による体制の側からの意図は『名主組頭をば真の親とおもうべき事』(慶安触書)に示されている如く、自生村のエートスをそのまま利用し、体制との摩擦をカモフラージュすることにあった。即ち村の本来の自治制をある程度認める、そしてそこに統合された村を「村落共同体」として体制の範囲に釘付けしたのである。
(7)『中国地方の山地で、家は高所の畑の中にありつつ、水田が谷間にあるのは水田があとから拓かれたことを意味する』宮本常一(村のなりたち)P.86 つまり税の主体は米であるから、一箇所に定住することは米の税を払う義務がある事を意味する。
(8)その他土地永代売買の禁止も農民を土地に縛り収益を獲保する意味から重要であった。
 『売主牢舎のうえ追放、本人死候ときは子同罪。買主過怠牢、本人死候ときは子同罪。ただし買候田畑は売主の御代官または地主へこれを取りあげのこと(御触書寛保集成)』日本史資料集
(9)

 以上、封建体制がその基盤を自然経済に置いていた結果、村は「村落共同体」として経済の基本単位となったことを述べたが、では体制と村との構造上にいかなる結合点があったのかを次の問題として考察してみよう。
 「封建」なる言葉は中国の周代に見られる、天子が土地を封土して群臣に分かち与え諸侯とする国家組織をさしたものである。こういった国家組織は中世においてヨーロッパ諸国にもあった。即ち、王はその国土を分化して封土とし家臣に与えてその領主とする。領主はその土地を部下にさらに分割して与える。これに対して部下は領主に、領主は王に忠誠を誓い、軍役に従う義務を負った。この組織に近似した構造を我国の武士社会も持っていたのである。それは鎌倉時代に端を発したが、公家階級との、また公家階級の制度との混濁が見られるので、真に確立したのは江戸時代になって徳川氏が幕府を開いてからである。そこでこの時代の「幕府と諸大名」「各大名とその家臣」「村の同族団(註9)の本家と分家」の関係を各々検討することにより、その近似性を指摘してみたい。

一、土地の分与形態
 〔幕府と大名〕 幕府は土地(封土)を家臣に分与する。分与された土地を領国として所有するところに大名の名が与えられる。幕府から家臣に土地を与えるのは「恩」としであり、家臣はその恩に報いるために誠心誠意徳川安泰のために「奉公」をせねばならない。
 〔大名とその家臣〕 大名、それは幕府から封土を与えられた領主であり、その封土は領土である。領主は領家として彼の部下(家臣)にその領土を分割分与する。領主はこの場合、部下に恩をおわせたのであり、部下は領主の「家」の安泰のために「奉公」する義務を負ったのである。
 〔村の同族団における本家と分家〕 本家はその構成員の単数あるいは複数に本家の所有地を分与(註10)し、本家からの分枝の家(分家)を創出する。よってこの場合、本家は分家に恩を負わせたのであり、分家は本家の安泰のために「奉公」する義務を負ったのである。また、その分家からそらに家を創した場合も同様であるが、この場合は、創出された分家にとっての本家とその本家を創出した総本家に恩義を負い奉公せねばならない。
 以上のように三つの関係において土地の分与には「御恩」と「奉公」が同じパターンで交換されるといってよいかと思う。

二、系譜関係による統合
〔幕府と家臣〕徳川幕府は関が原の戦いを重視し、その際に徳川に弓をひいた後に服従した家臣と関が原以前からの旧臣とを明確に区別をする。すなわち、前者は外様大名・後者は譜代大名と呼ばれる。そうして、その他に徳川家より分家した家臣を親藩大名と名づけて、他の二つの大名とさらに区別した。ここではその出自の系列から差別をしたのである。すなわち、
親 藩
 |
譜 代
 |
外 様
という階層をなした系譜関係による統制である。

〔大名とその家臣〕この関係も同様に、領主の守る領家たる本家・その親族の分家・部下(家臣)の家柄その新旧・勲功等々の面から強く系譜上の関係からくる統制が存在した。

〔村の同属団における本家と分家〕これは文字通り系譜関係である。総本家を頂点とした系譜上の位座を分家がそれぞれ占め、系譜そのものによって統制が行われる。
 結果として明らかであろうが、武士の側の体制においても、農村の側においても、頭に主家をいただき、それと土地をなかだちにして、直接的にあるいは間接的に出自の関係を系譜的に認めあい、御恩と奉公の相互交換によりお家のために努力するという社会関係を有している。
 このように、村自体が役割集団となったのは村が内包する同族組織が封建主義体制と、まさに適合的な土地分与形態や系譜による体制を有していた(註11)からだといえるし、その意味で同族団組織が全体社会の中で役割集団として機能しえたことも明らかである(註12)。しかし良く考えてみるとこの適合性も単に偶然ではないように思われる。それは武士団の遠い発生を考えればわかる。すなわち、荘園制の崩壊過程において地方政治が乱れ国司の治安維持を期待できなくなった地方民はその地の秩序を守るべく名主を中心とする自衛を計った。彼等は農耕と武芸を併せ行った。この武力集団こそが武士の母体である。つまり武士団は『農』の内より生まれたのであり、最初は農を主体とした共同体の同族団の頭(名主)を中心とした集団であったのである。以上のような理由から江戸時代に入って封建体制と村の同属組織がその土地分与形態や系譜による統制の面で適合的であるのは、発生的事実と照らしてあながち偶然ではないと考えるのである。
 

 (9)農村の基本的単位は『村落』と『家』である。よって同族団の問題も、それと絡ませて第四章で扱う。

 (10)この場合の分与は家産分与であり、土地のみとは限らないが、その分与の主たる部分を占めるのは耕地である。 

 (11)二宮哲雄『日本農村の社会学』P.57参照

 (12)同族組織の利用によって体制との底辺を適合的に保つ必要から、同族組織は江戸時代に発展したが、分家創出が結果する本百姓の減数もあったため、分地制限令を出すなど痛し痒しであった。

第二節 絶対主義体制と村

 自然経済を基盤に成立する封建社会も、江戸の末期に向かうに従って、商品流通の拡大と共に商業高利貸資本の成長を促すことになる。まずもって領主自体が長期の平和から来る様々な欲求の充足のために、貨幣経済の渦中に身を投じ、『買い食い』によって財政の窮乏を招く。それを商人の高利貸資本への依存にのがれるから、なお一層商人との癒着を増し、商品経済へのさらなる拍車をかけることになる。本来的にいってかかる武士階級の『買い食い』は自らが非生産的存在である限り、当然その支出の財源は農民の『増税』を帰結する。その他、領主が農民を強いて農作物の生産販売事業へ力瘤を入れる等の例もあまた出てくる。それは増税による消費的財の確保から一歩進んだ積極的政策であった。このようにして農作物の商品化は進み、農村への貨幣経済の侵入をきたす。
 考えれば明白なことであるが、封建体制にとって、農民の自給自足をあらゆる側面から強いている所に自らの基盤の安定があったはずである。そこでは『土』が唯一生存の糧につながるものであったからである。ところが商品経済との接触によって『農民も買うことによって欲しいものが入手できる』という生活に対する意識を一般化してしまうことは、体制の基盤の崩壊である。その理由は次の如くである。すなわち、農民は貨幣経済を持つ存在ではないから、商人は彼等に対して商品価格以上の農産物と物々交換したり、あるは掛売りをしたであろう。そうして掛売りの場合、支払いの段階で貨幣がなければ家産を押さえる。この様なことを繰り返している内に、封建体制が最も重視した本百姓層の安定は崩れ、衰退し、土地を失ったり零細化を進行させたりすることになる。逆に、商人は農民の家産ょを吸収して大きくふくれあがる。百姓が自分の土地を手放したり、それによって他の百姓が土地の兼併を行ったりすれば農民層は分解してしまう。これは江戸の末期において商人階層が士・農を支配する階層の頂点にあった事情を示している。
 そういった体制の崩壊の過程に異国の脅威が被さってきた。より広い全体社会(世界)の中で日本の封建主義体制は、もはや適者として生存しえなくなった。よって日本という全体社会を異国の前に安定した存在として太刀打ちさせるためには、変動が要求される時機となった。当時、後集団たる性格を生み得る可能性を持っていたのは下級武士であった。彼等は自身の貧困故に、体制内にあって反動分子であった。彼等が現実的に後集団に脱皮するためには経済的基盤が必要であった。一方、経済的基盤を持った商人は連合して後集団とは成りにくかった。なんとなれば、彼等は封建体制に癒着することによって勢力を伸ばしたのであるから、封建体制は反抗の対象とならなかった。この両者は後集団に必要な要素を一つずつ持っていた。我々はここで両者が結合する点を見出すことができる。すなわち、商人にとって下級武士もまた貧困のゆえに高利貸に頼るお客様であり体制の側にいる存在であった。よってこの二者が合体する所に、いいかえれば、下級武士の体制への反動に経済的基盤を与えて、その勢力を後集団へと押しあげたのである。農民による一揆打ちこわしは、この後集団勢力に体制打倒の基盤的なエネルギーを供給したのである。以上、三つの力が一つに作用した所に、明治維新が誕生する。

 このようにして、形成された明治維新は絶対主義的体制を有することになる。それは商人によるブルジュア的性格が産業資本の育ちきれないままに、下級武士の指導力に我が身を委ねた姿勢であり、妥協的に不徹底に行われたブルジュア革命である。封建主義体制から資本主義体制へ移る過度期の体制といえる。下級武士と商人の勢力は均衡状態にあって、一方が国家権力を独立してまっとうできない酢がたでもある。
 体制の側の封建的性格と資本主義的性格の共存は農村政策においても、一方で村を役割集団として捉えつつ、一方で産業化への労働力提供の面から村を分解する(前集団への移行の起点を与える)といった矛盾するものであったことはこれでわかる。すなわち、『元来租税制度の近代化をはかるにあたっては、負担の軽減ないしは公平化が達成されなばならないのであるが、当時農業が圧倒的・支配的な地位を占め、工業生産がきわめて未熟な状態におかれているその中で、ひたすら、「殖産興業」「富国強兵」を実現していかなければならなかった明治政府にとっては、その財政的基盤をもっぱら農村に求めて旧貢租税額をともかくも継承することが必要であった。(註1)』この経済的現実の前に村はいぜん役割集団であった。一方「資本主義への意欲」は公債発行によって封建武士団を解体したり(註2)、地租改正(註3)に現れる如く、農民からの土地奪収・農民層の分解を行っている。土地を失い村を出る農民を賃労働者にしたて、原始的蓄積にすす進むことにより、資本主義を政治的権力によって温存的に育成することになる。その力を大きくこうむったのは村であり、前集団への長い除々なる移行の切っ掛けを与えられたといえる。


 (1)楫西光速「日本資本主義発達史」P121
 (2)公債を発行して武士団を解体するなど妥協的態度に他ならない。
 (3)明治五年政府は田畑売買の禁止を解いて、地券を発行し翌年六年地租改正令を発布した。この改正により地主が貢納義務者となって、地下の3%の地租を金納するこになり、一応近代的租税制度が確立したが、小作人と地主との間にはいぜんとして物納による高率の小作料があり封建的従属関係が残存した。

 以上経済的側面から見てきたが、村の性格すなわち村落共同体の構造や規範は経済面とは別箇に考えられねばならない。もちろん、全体社会が経済と密接な関係にある限り、村も決して経済の影響外にあるものではない。しかし、村が命の要因を担う存在である限り、それは自体の生命をそう容易に失ったり、征服されたりするものではない。封建体制にとって適合的存在であった村は、その適合性を体制によって強いられた結果得たのではない。本来、武士の体制も前述した如く、村的性格から生じたものであるように、村は日本なる全体社会の命を担う、言い換えれば、エートスとしての集団であった。資本主義の育成にあたっての特徴的面もこのエートスを度外視しえない全体社会の体質を現している。むしろ、応用することによって初めて、新しい体制を維持することが可能であった。天皇を日本国すなわち家の家長として、家協同体-村協同体の延長線上に捉えたのはそれを示している。その三つの協同体間に介在する、恩-奉公の上下的情誼・系譜の重視・土地に関わる倫理感等々は村の性格から広域化したエートスであるといえよう。このように、経済的側面とは別に旧来の村の構造規範は急激に変動することなく、維持されていたのが現実である。
 しかし、一寸触れておかねばならないのは、階級意識の問題である。商品経済によってきたえられた農村の支配層地主は、新しいけいざい倫理を身におびていた。それは階級意識の導入である。従来の支配と服従としての関係に成り立つ同族結合とは別に、征服と屈服としての関係が、地主-小作(註4)の間に意識として出てくる。第二次大戦に全体社会があゆむ過程で「小作争議」がクローズアップされてくるのは、ここにその萌芽がある。とはいえ、日本の風土においては階級意識は階層との区別上混乱して用いられており、体制の側もそのを望む所とした。階級などという相互の対立を強調する考え方は、家-村-国家を延長的に捉えてゆく日本のエートスに著しく離反する危険物であった。


 (4)階級意識の導入を成したのは地主の側であった。彼等は財力から来る行動圏の広域化にともなって、多くの知識や都市的正確と接することにより、階級意識を村落内に持ち込んだのである。それはあくまでも導入であって、下層農民(小作人)の中で自覚され育成された意識ではなかったようである。一見矛盾するようであるが面白い社会行動の一面を示しているといえよう。

第三節 資本主義体制と村

 明治維新から日清戦争頃までは、政府による上からの資本主義育成の時機であった。新しい産業を政府の手でまず行い、持ちきれなくなったところで一部政商に安く払い下げるという温室育ちであった。産業労働力は農村で階層分解の結果土地を失った農民にも求められた。
 一方農村の地主層は土地の兼併によってますます肥えることとなった。政府は産業育成事業に必要な財源を地主を対象とした税収においたから、地主層を安定させ保護することに心をくだいた(註1)。しかし、地主達都市に労働力を奪われ自家耕作の手を失ったから、小作料を取るだけの寄生化を進めていったのである。
 かくて産業育成は徐々に成果を見るようになったが、体制自体の矛盾的性格・封建的基盤に立脚した市場の狭さから、海外に道を打開せんと日清戦争を結果する。その勝利は広い市場と二億テールに及ぶ賠償金による財源の獲得となって資本主義の確立をみた。以後、軍事行動と結びついた資本主義の発展は独占資本形態をとって、日露戦争以後帝国主義への転化を速めた。明治維新以来のスローガン『富国強兵』は着々と実現していったのである。当初、これは天皇を家長とした大家族の家のための行為として、没我的献身を国民に要求することができたかもしれない。しかし資本主義の一応の達成をみた頃から。国民はそういった体制の歪みに目を向けていった。一方には優遇される地主があり、一方では零細化した耕作面積の上に単位あたりの高生産を強いられる小作人がいる。その収穫の多くを地主に吸い上げるられる彼等は、いかに封建的要素(註2)によって支配関係づけられているとはいえ、納得のできない不平等であった。それが地主の導入した階級意識と結びひいた時、対立感情を起こし、いろいろな世相を展開する。いわゆる小作争議がそれである。これには二つのタイプが結果的に存在する。すなわち、@惨敗に終わる場合(註3)Aなんらかの約束を得る場合、等々である。一般に前者が多かったようであるが、後者のタイプもある。『都市に近く、農村人口の流失がいちじるしい地方では、・・・・・略・・・・・、小作農の地主に対する関係はおいおい有利となり、小作料を引き下げさせたり、小作契約を証書で結ぶ(註4)』ようになったりするのがそれである。
 しかし、いずれにせよ、人口的に少数の地主に比して、待望の生活に甘んじなければならなかった。また、村外流出の農民による労働人口も、帝国主義の進行にともなって、低賃金・不良環境の中で窮乏生活を強いられていた。この様に階級意識は資本主義の側からいわしむれば、そのような行為は淳風美俗にはずれたはねあがりであった。
 しかし、第二次大戦を迎えるに当たって、それまで波紋を投げかけていた、争議とか階級意識は国民の中から失われてしまった。日本において全体社会の統合としての国家は単にそういった概念上の意味にとどまらない真剣な内容をもっていた。日本人にとって国の体制は体制である以上に、天皇を中心とした一大総本家であった(註5)。その『お家』を守るために国民は個我の不満を引きざることに喜んで参加した。ここに日本人のエートスが働いていることは明白である。村の隣保組織が国家によって強く支持され、『向三軒両隣』の結合形態を全国に制度化したのもこの時代のことである。かくて農村の資本主義育成に関わる問題提起も、それを解決に導くことなく、戦争の渦中にうやむやに放置されていったのである。

(1)・・・地租改正後、米価の騰貴を通じ、あるいは減租、およひ基準地価の据置によって、地租は実質的にその負担を軽減され、もっぱら地主取分を増加することとなった。「楫西光速 日本資本主義発達史 P.268」

(2)封建主義の残滓ではなく、体制以前からあったエートスである。

(3)小作人の言い分が理を得ていても、それを受け取ることによって、地主の座がゆれることのないよう、時には、強圧的に不人情に争議は弾圧された。
 『小作争議の昂揚は、地主と国家権力の共謀にもとづく、この弾圧によってその戦闘力をくじかれた。』(潮見俊雄他共著 日本の農村)
これは小作人の側から言わしむれば妥当な感情であろう。

(4)楫西光速『日本資本主義発達史』P.270

(5)『「吾が邦の君臣は真に一家親子の関係を有するものにし支那または欧州の君臣の比にあらず人君は専ら仁を以って下に臨み臣民は専ら忠を以って仕ふるものと云うべし是れ即ち世界無比の族長政治にして欧州学者の未だ嘗て知らざりし所なり。」・・・加藤弘之の講演集』 磯野夫妻著 「家族制度」岩波新書

 第二次世界大戦後の村のあゆみはどのようであったか。我々は敗戦を通じて、面白い現象を経験した。個人のレベルで、ある事件の経過が極端なリバウンドを彼におこさせることがあるが、社会のレベルでも同様の事態が生ずるということである。即ち、具体的にいえば、日本民族は敗戦を機に、『あらゆる伝統的規範や構造・文化』を古臭いもの、恥辱的なものとして、片づける風潮を持ったことである。西洋による内政干渉にも日本国民は不思議な順応性を示し、好感的に振舞った。それは着物の上に甘んじて洋服をつけたのではなく、さっさと着物を捨てて洋服に満足を得た姿である。(註6)。
 農村においては農地改革による小作地の開放が行われ、平等感と対等感をみなぎらせた。占領国にしてみれば、彼等の思念する非民主化の根源はこの村落にこそあった。よって彼等は土地の開放を断行した。旧来日本には土地を介しての封建主義的倫理観が根強くあったからである。このように村は全体社会での役割集団の座をお降りる時機が来た。それは前集団としての明確な出発である(註7)。全体社会体制はあらゆる産業から、あらゆる個人から理念的に均等に税を取ることをしいられたのであり、民主的資本主義の新しい体制としての出発でもあった。
 この時期の日本はかくて、西洋的概念が日本のエートスを潜在させてしまった時代であった。自由・民主主義・権利(義務は忘却されている)等は、鮮やかな社会観・バラ色の社会観を生んだ混乱の母体であった。
 しかし1952年に戦後日本の独立が成って以後、体制が安定し産業が発達してくると、ようやく国民は夢からさめたごとく、日本のエートスを再認識し確実なあゆみを始めるようになった。農村においても農民は、甘美な夢からさめて、現実の厳しさにうちのめされた。小作人は一人ひとり自作農にはなったものの、零細に分割された土地を自力で全体社会の経済状態とみあわせて才能的に耕作し、生産性を高めることは大変な苦労であった。そこでなかには、土地を持ちきれずに手放す者、手放された土地を兼併し、合理的産業として農業を生み変えてゆく者等、その間に様々な人間模様と貧富の差を生じさせた。ましてや産業の積極的発展、それにともなう全体社会の、生活の高度化を結果するに及んでは、土地に対する応用力と拡張なしには全体社会に対応することはできなかった。決心して土地を捨てる労働者になる者。土地にしがみつきつつも兼業を行う者、農閑期に出稼ぎに出る者等々、全体社会に対応する困難さを農村は、まざまざとさらし続けてきた。
 かくの如く民主主義にねざす資本主義は、その合理性・科学性・都市化などを農村におよぼし村の構造と規範を全体社会の変動に対応できない代物として崩しつつある。かつての情誼の関係は契約の関係に。土地の持つ無形的な価値は単なる資本的価値に、系譜関係は個人の業績的優越に、それぞれ道をゆずってきている。まさにここに示されるものは『理』に基づく『勢』と『秩序』を持った発達せる資本主義の帰結である。『命』たる村はそのエートスをかろうじて残すのみにして、広域化し開放的となりつつあるが、商工業資本に押されて、その発達と適応性はアンバランスである。過疎問題・兼業農家問題・都市過密化等々、農村の動態に起因する様々な問題はそのことを如実に示している。我々は農村に後集団の育成を考えねばならない。それは他産業の発達と均衡しうるように農業を生みかえることである。もはや家-同族・近隣の組-村落共同体・氏子集団・檀徒集団・水利組合・病除けの集団等の機能集団は前集団でしかない。それらに代わる農村社会集団が発生しないところに問題が存在するのである。よって、既存の小さな研究会や婦人の生活改善グループ等の積極的な育成により、農民の意欲を促すことが、後集団を育てる『核』を形成することになるのではないかと思う。食をできる限り自国内に求め得る体制は、時代を問わず必要なことである。農業が国家存立の基盤であることは忘れてはならない。世界という全体社会の流動的面はそれを歴史的に、如実に物語っている。

【註】
(6)このことは過度期の現象であり、やがて日本文化への尊重の念は社会の安定と共に蘇生してくる。しかしここに日本人の理に対する受けとめ方が特殊的であるのも確かである。

(7)明治から昭和の年代まで、いいかえれば戦前は、村が実質的に役割集団として機能していたといえるから、一応こう述べておく。

第四章 日本民族のエートス

 今や長い歴史の経過を経た発達せる資本主義体制のもとで、理は次々と発見応用され、勢に乗って全体社会を、めまぐるしく変動させている。ひと昔前まで新奇なもの、異常なものとして迎えられた発明発見が、今や日常化し、異常の常態化が進行している。そういった煩雑さが人の生活意識を狭くしし、自己を現在に適応させることにのみ、夢中にしている。一個人にとって全体はあまりにも膨大複雑に過ぎ、自分に与えられた場所を全体として適応していけば、捉えようのない広域な全体社会も必然的に均衡してゆくものだといった、無歴史的原子的人間意識が広く支配している。そういった消極的な生活意識から食み出して、個人を原子ではなく「生命ある存在」としてアッピールするところに、既存の法への様々な反抗逸脱が生じてくる。我々の未来はまさに、M.ウェーバーの述べるごとく「個人の歯車化」の時代であろう。冷徹なツールもしくは機械と生命ある人間の結合がどれほど矛盾反発するものか想像にあまりある。といってその時点で個人が無歴史的意識に征服されてはならない。我々の全体社会は単に均衡に志向しているのではなく、長い伝統と歴史を経て個人に内在化されてきたエートスによって、消極性を打破し、個人を生命ある存在として展開してゆく場を与えるものであると考える。この章では村を全体社会のエートスとする立場から、それがいかなる内容を含んでいるのかを全体のしめくくりとして見てゆきたい。

第一節 神道について

 宗教は変動要因のうち『命』が社会に内在化された姿である。ある地域に住する民族が、運命をいかような形で捉えているかは、その民族の文化・世界観を特徴づけており、宗教に民族の精神構造を見ることが少なくない。我々ははここで日本固有の宗教『神道』について検討してみたい。
 周知の通り神道はキリスト教・回教のような一神教の啓示宗教ではない。登場する神々はみな人格神であり、八百万の神である。それはアニミズムを基本とする宗教ではなく、あくまでも日本の国土を生み、育んで来た日本人の祖先達を神として尊ぶ宗教である。その点キリスト教は民族を超越した普遍的宗教である。父なる神と子の関係も血縁関係を意味していない。信ずる者はいかなる者であろうと子である。
 その点、神道は血縁こそが根本である。祖先も親子も子孫も一本の線でつながっている。それを結びつける役割が神道の精神である。また神道の神が人格神(註1)であるのは、アフリカやその他の未開地によく見られるトーテムのごとく人間以外の動物を対象とした宗教ではなく、神話上の人物や生きていた人が死去して神となるからである。死去が人を神にする(註2)ことによよって、その人は祖先の末席に加わることになるのである。よって神道は系譜を持った多神教である。同時にまたそこには神の格づけ(註3)が存在する。日本民族の中心的神社から、日本の多くの区切られた地域社会(村とか複数の村からなる地域)にぞんざいする末席の神社、またその下に来る各家の神棚の存在がそれを示している。
 このように神道は『個我』を自覚させる宗教ではなく、あくまで死去した者をも含めた血縁の一大集団に個が系譜的に含まれるところに重点を置く没我的宗教である。
 キリスト教の神は一人ひとりを切り離して『個』に問いかけてくる存在であり、神と人の間は断絶しているのとは、およそ異なった宗教である(註4)。
 以上のごとき面から、西欧文化と日本文化の相違もでてくるわけである。西欧人は日本の『家』とか『村』とかわ理解し難い不可解なものとして感ずるのは、彼等が人間を個の側面から考えるからであり、本来日本には個の概念は存在しないことを知らないからである。そのかわりに日本人は系譜的集団を行動の基本単位としている。名前においても西欧は個を基本単位としているからファースネーム/ファミリーネームの順序になるが、日本においては系譜的集団を基本単位としているからファミリーネーム/ファースネームの順になるという見方もできるかと思う。かくして、祭にみられるあのにぎにぎしさは、祖先達との接触を喜ぶ、親しみ深い神の姿であり、神道が民族性を担った地域的(日本という全体社会内)存在であることを示している。


(1)古事記に見られる如く、日本の最高神は、人間の喜怒哀楽・憎愛などを皆備えているし、決して万能ではない。事ある時に『神』に伺いをたてる『神』であり、伺いをたてられた『神』が一体何者なのか性格づけも、説明もなされていないあいまいな存在である。

(2)菅原道真−天神様 源義家−八幡様 平将門−明神様 徳川家康−権現様 等々がそれを示している。

(3)伊勢神宮が最高格、次に熱田神社、出雲大社が続く

(4)キリスト教のこういった在り方が、非合理的な宗教から、合理的な精神を生み出したことは、M.ウェーバーの『プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神』によって明らかである。

第二節 農村の基本的単位

 我々は農村界一般を指して『農村』の概念を用いる際、農業を営む者の定住する地域を指している。定住する地域とは農民の生活が投影されている地域である。しかしそう定義すると、都市もまた相関的に農民の生活が投影されていることになり、両者の境界線は明確に引くことはできないことになる。とはいえ都市に対する田舎的特色はあるはずであり、我々は都市に対する田舎的性格を考察する上から、農村なる概念を、農業者の独立的な聚落社会の意味に、アクセントを置く立場をとることにする。日本においては特にそれが重要である。しかしともかくも、単に農村といった場合には以上のような二つの意味を含んでいるのである。そして二つの意味はそのまま二つの文化圏を代表するものであり、個人を単位として成立している社会と、集団を単位としている社会の相異を露呈している。
 『農村』を農業者の生活が投影している地域として見るのは、欧米の社会学である。彼等の社会は個人を単位として、個人の自由と権利を基本として出発しているから、日本のようにに『村』とか『家』の集団生活原理から農村の統一性を見出すことはできない。そこで彼等は、農業者の生活が投影されている地域をひっくるめて、農村の統一性を探ろうとするのである。もちろん、その生活投影の地域には、町も含まれている。そこに都鄙社会学が登場したわけである。すなわち、個々の農民の間にはこれといった連帯感は存在しないが、彼等の生活を満たすべく出向くところの町は、一定の地域的限定をもっている。つまりある範囲の農民は一つの町を中心として、生活を営んでいるのである。こうして『ある一つの田舎町に依存している散在する個々の農場の全体とその田舎町を含む地区に投影されている一つの社会統一』(註1)を欧米の農村社会学は一単位としてみるのである。
 それに比較して我国では、もちろん都市にその生活は投影しているが、都市と切り離したところにすでに社会的統一が存在するのである。それがなすわち、農村を独立的な農業者の聚落社会とする立場である。その聚落を我々は村の名で捉えている。
 かくして我国農村の基本的単位の一つは村である。そうして村はその内部にいま一つの社会的統一体である家を含んでいる。このように我国の農村の基本単位は村と家である。であるから、日本の農村社会学は村落社会学である。それは決して微視的な研究ではなく、歴史的事実が示すように、家協同体・村落協同体・国家協同体の三つの骨格のうちの二つの研究として全体社会へ志向した、重要な学的分野であったのである。筆者が村を日本民族のエートスとして捉えるのも、村が全体社会に常に不可欠な伝統的性格を有していた事実があるからにほかならない。前節で説明した神道もこの三つの協同体と深い関わりを持っているのである。
 それでは一体『村』を統一しているものは何んであろうか。ここに我々は『村の精神』という、鈴木栄太郎博士の概念を用いることになるのである。ただし、この場合の『精神』とは決して形而上学的な抽象を指すのではないことを明確にしておかねばならない。日本の場合は村の存在は体制に先んじている。武士社会が採って来た体制にしろ、明治政府が採って来た体制にしろ、共に『封建』の要素が強いが、その封建は起源的には村の性格・構造から生まれて来たと考えられることは前に述べた。しかし、体制となった場合は、一つの国家として名文化された法が統一を行い、名文化されることによって、民(たみ)を説得強制することができる。ところが、この名文化された『法』がその日本的体制の母体である村には存在しないのである。それていて、名文化された法よりも非常に統一力が強固である。『名文化された法』がある意味で、機械的に運用される形骸的機能に陥るのに比較し、『村の法』は生きている(そして、生き続ける)法である。ではなぜ、生命を有しているのかを検討してみよう。
 日本では個人が『個』に止まることはない。すなわち、現在の個人は村を育ててきた多くの祖先達を背負った存在である。祖先を尊敬し、先例を重んじ、それを守ることが子孫の務めであり、祖先の生み出して来た生活原理を軽視したり、無視したりできるほどの力を、個人は持ち合わせていない。このにように村においては、祖先の身体は死滅しても、祖先は意志として生き続ける。その意志が『不文の憲法』として個人の意志を凌駕し、村の社会生活のあらゆる方面に拘束・統制を行う。かかる『統一的』かつ『一般的意志』は村の精神としていいようのない存在である。このような祖先の捉え方が、いわずとも神道との深い関わりをもっていることは明白である。
 日本の如き社会統一を持った独立な聚落社会が欧米に存在しないのも、その宗教的相異から見れば明らかなことである。欧米人も祖先を軽視することはないが、彼等はそれに拘束されることはない。彼等の行動原理も生活様式も彼等個人にとって、可塑的な存在である。彼等はあくまでも、現在を自己のものとして捉え、取り組み、変化させてゆく。彼等にとっては土地も家もともに、物質にすぎない。思うに日本人にとって、資本主義の発達が難航したのは、土地を資本として物質的に見ることができにくい宗教的エートスが働いていたためということもできよう。

 次に村の範囲は日本農村社会内に、いかなる大きさを持っているのか見ていくことにしょう。この場合、農村社会における集団を考える必要がある。それは以下の如き種類がある。註(2)
(一)行政的集団
(二)氏子集団
(三)檀徒集団
(四)講中集団
(五)近隣集団
(六)経済集団
(七)官制集団
(八)血縁集団
(九)特殊共同利害集団
十)階級的集団

 以上の概括した集団を通しての社会関係が社会地区を生み、一見定型化できそうには見えない、個人と個人の結束を比較的固定した地域関係として社会化している。
 鈴木栄太郎博士のいう、第一社会地区・第二社地区・第三社会地区の分類がそれである。これらの社会地区は集団の累積体である。博士は集団を輪に譬えて次のように説明する。『若干の輪は一定の地域の上に重なっている。また若干の輪は部分的に重なり合いながら一定の地域内に累積している。しこうしてかくの如き形式によって累積している集団累積体は一般に地域的に三重に重なり合』(註3)っていると。すなわち、第一社地区は最小であり、集団の輪が同じ大きさに累積している。第二社会地区は第一社会地区が若干集まった中位の集団累積体である。第三社会地区は、第二社会地区が集まって最大の累積体となっている地域である。以上三つの社会地区に具体性を持たせるなら、第一社会地区には部落内の小字・組が、第二社会地区には部落(鈴木栄太郎博士のいう自然村)が、第三社会地区には行政村が各々あてはまるであろう。我々の問題としている『村』はいうまでもなく第二社会地区である。そして第二社会地区に統一性を持たせているのが前述した村の精神であるから、『氏子集団』の意味するところは大きい。村を自他共に村として認めるのは『村の氏神』を祭った神社の存在であり、村人を村人として自他共に認めるのは、『氏子』であるかどうかということであろう。しかし、だからといって氏神の社が村そのものではない。それは村の統一性を具現したものである。村はそれをも包括したところに存在している。

註(1)(2)(3)鈴木栄太郎『日本農村社会学原理』

 家族は世界的に農村にも都市にもある社会集団である。その概念は戸田貞三氏の六つの規定の内四つに、普遍的に表現されている。

(一)家族は夫婦親子及び其等の近親者よりなる集団である。
(二)家族は此等の成員の感情的融合に基く共同社会である。
(三)家族の共同をなす人々の間には自然的に存する従属関係がある。
(四)家族は其の成員の精神的並びに物質的要求に応じて其等の人々の生活の安定を保障し経済的には共産的関係をなしている。

 このように概念づけられた「家族」なる構成原理を、発生的に規定すると『男女の性的愛着以外にはない。・・・・・、それがある特定の形態において存続する場合、それを社会的に是認する制度が家族である。家族とははじめから社会的制度である。・・・、自然の家族集団というものは考えられない。社会的制約が人々の性的結合の関係を家族の形に追いいれたのである(註4)』ということになる。戸田貞三氏の概念(一)にも示される如く、中核として夫婦関係が存在することはわかるが、ではその特定の形態において存続する場合、どの様な種類が考えられるであろう。それは全体社会の空間的歴史的相異から、次の三形態が考えられる。

A型 夫婦家族

B型 直系家族

C型 同属家族


 この内A型は欧米や都市に見られる型であり、B型は日本に多い型であり、C型は中国に歴史的に存した型である。夫婦家族は小家族であり、同属家族は大家族である。直系家族は両者の中間といえるが、私は家意識まで掘り下げてゆくと大家族的であるといえると思う。では何故大家族の形態をとらなかったか? それは分家慣行の存在にあると考える。
 日本の家族はこの様に直系家族的であり、その家産分与の関係あり方は封建的であったが、『封建』の発生的基盤は農家にあった。つまり日本の家族の特殊的形態は農村家族から生じているといえる。そこで農村家族がいかなるものであるかをみてみよう。
 我々はソローキンの農村家族について挙げた特徴を、欧米的家族思想のサンプルとしてあげ、それを日本的家族の特色と比較検討してみる。ソーロキンは次の如く述べている。
(T) 農村家族は夫婦親子の結合が都市家族より強固。
(U) 農村家族の成員のわれら意識の強固なる事。
(V) 農村家族は都市家族に比して多機能である。
(W) 世代的存続の長くかつ明確なる事。

(Tの検討)
 これは現時点では言い得る。確かに現在都市的性格は家族成員の個々の経済的独立・夫婦家族の多いこと、家族機能の外部への依存等、その結束は農村ほど強くない。
 しかし、日本の家族を理念的に捉えるなら村が役割集団として存在した頃を土台に考えねばなるまい。そこでは都市においても農村においても結束は同様に固い。それは日本固有の家意識が存在したためである。

(Uの検討)
 これについては、日本的特色との間に比較が必要である。すなわち、『われわれ』意識の強固なることではなく、『家』意識の強固なる事が特徴である。我々とは個々に重きを置いた場合の自我意識の融合であるが、日本の『家族』には個人はない。個々の人間は彼等の家族を今日まで存続して来たところの、祖先の意志を担った存在である点で、個人としての発言権はない。そういった祖先の意志を生活原理として尊重し、それに拘束されながら、個人は個人としてではなく、子孫として生きている。戸田貞三氏の概念(六)『家族は此の世の子孫が彼の世の祖先と融合する事に於いて成立する宗教的共同社会である。』、というのは日本的事情を示している。しかし『家族』が宗教的共同体なのではなく『家』が宗教的共同体であろう。家族は家の内に包括された存在である。この家共同体を社会的に統一しているのは、祖先達の肉体上の死を越えて生き続ける彼等の意志であり、いわゆる家の精神なるものである。そうしてこの精神に忠実であり、それを発展存続させるために家は、家族が種族保存の機能を実現する、人的結合である事を必要とする(註6)。しかしこの精神を担うにふさわしからぬ家族は、血統的に子孫であっても排斥される。そうして血統的には遠くとも、あるいは無関係でも、家の精神を担うに適する者は、養子縁組によって『家』に迎えられ、子孫としての位座を与えられる。このように、日本の家族は『家』意識が強い。そうしてその典型は農村家族である。
 余談になるが、日本と西洋のこれについての発想上の差は自分の参加する集団に対する表現に現れている。すなわち、ウチの会社、ウチの学校、ウチの社員等々である。欧米的にいえば、ウチはourで表現されるところである。

(Vの検討)
 農村の家族は都市家族に比して多機能であるという事は日本においても言いうる。都市は家族機能(註7)を外に依存する傾向が強いが、農村はその傾向がより少ない。

(Wの検討)
 世代的な存続の長くかつ明確なことも、都市の家族の移動、流動性に比較して言いうると考える。しかし、この事情は日本において理念的に考えた場合、そう簡単でない。長い年代のうちに浮沈興亡の繰りかえしは厳しい現実としてある。名門や貴族達の間には色々な手段のこうじ方もあるが、一般庶民については絶縁・夜逃げも多かったろう。日本における『家』の興亡は真剣なものがあった。だからこそ同属組織の制度(註8)も必要であったのであるともいえよう。即ち、本家や総本家が『家』を家産と共に分出するのはそれらによって、お互いの共通な家を守り、擁護する意図がある。分家は自己犠牲を払っても新陳代謝激しき世から本家を守るのである。
 

(4)鈴木栄太郎『日本農村社会学原理』
                  (上) P164
(5 ) 同右                P195
(6)戸田貞三氏の家概念の(五)引用
(7)
 一、性欲充足の機能
 一、生殖の機関としての機能
 一、生産のための結社としての機能
 一、消費生活団体としての機能
 一、老幼病弱者保護機関としての機能
 一、相互保険団体としての機能
 一、教育機関としての機能
 一、教団としての機能
 一、娯楽休養の機関としての機能
 一、株その他社会的権利義務の主体としての機能(日本農村社会学原理 上 )
等々家族機能にはある。都市はこれらの機能の多くを外に全面的に依存するか縮小した形で部分的に外に依存する。
(8)同属組織は、本家・分家の系譜的関係に立った家々の連合体である。系譜的関係とは、家の創出と分岐の際に、本家は分家を自己の分枝たる事を認め、分家は本家を自己の母体として認め、相互に出自の事実を認知する事によって系譜的に一定の位座を占める。この場合家は家族結合を内包する所の存在であり、同属組織の構成単位は家族を内包した家である。この家を構成単位として本家と複数の分家の間に系譜的位置づけを行い、前者を頂点とするピラミッド型の上下関係を、即ち体統制を持つのが同属組織である。

 以上で日本農村の基本的単位としての『村』『家』の両者についての説明を止める。それはあまりにも深く複雑な『村』と『家』の全貌のほんの一部分である。がしかし、私はこの両者が共に日本の宗教観をいかに典型的に具現しているかを述べたかったのである。その宗教観にしみこんだ運命観は、意識・無意識に関係なく、部分から全体まで一本の線で貫く日本的エートスであり、生活意識であった。現在にした所で、それは様々な形で生き続けている。そういった祖先の意志まを不滅なものとして、言い換えるなら、社会的な事実として持った日本の社会が、発生的基盤を農村に得て、『家族制度』とか『封建制度』とかを生み出した。その事を良いの悪いのという以前に、それが日本のエートスとして全体社会に積極的に働きかけて来た事実を見逃してはならない。日本の農村社会は『家』と『村』という『命』を担った集団を構成単位として、他の変動要因『理・法・勢』とダイナミックな相互作用を展開し、変動に役割を演じて来たのである。現代の理・法・勢は混然一体となったかたちで、運命的集団を変貌しつつある。しかし、一個の人間が歴史の中に生きぬき、生長と共に変化しても、決して自己である事をやめない様に、農村社会の生んだエートスは日本の文化型や一般的性格となって、常に現代に止揚され、未来に志向するであろう。『三子の魂は百までも』である。  (終)

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