画家索引 | ◆ | 上村松園 | 安藤広重 | ||||||
上村松園(うえむら しょうえん 1875−明治8年−〜1949)
山本芳翠の裸婦 |
◆女性を描いた絵画を観て、初めて衝撃的な印象を受けたのは山本芳翠の『裸婦』であったのを覚えています。この絵は日本人で本格的に裸婦を書いた作品の一つといわれるもので、白人女性が裸で野外に寝そべっている構図の大作(明治15年頃の作品:85×136.5センチメートル)です。今になって思えば、当時、印象派の影響を受けて描いた黒田清輝の作品などに比べると、すこし古臭い手法の感はありますが、青年時代に美術館でこれを観た時には、官能が揺さぶられるようなゾクゾクとした刺激を受けたものです。この絵に限らず、西洋の古典画で裸婦を描いたものは、カメラが普及していない時代に特有な、可能なかぎりリアリティーを追求しつつ、なおかつロマンチックに仕立てようとする画家の潜在意識が色濃く表現されるため、青年達を官能的に揺さぶるのはむりからぬことなのでしょうか。裸婦というジャンルにかぎらず、西洋の画家達の女性像は官能美に溢れたものが多いのは確かですが、日本人の男性が描いた女性の絵にも日本画・洋画を問わず同様の刺激が潜んでいます。
◆しかし、同じように女性を描いた絵でも、女性が描く美人画はその趣を随分と異にするようです。とりわけ、ここで扱う上村松園の美人画には独特の世界があります。ちなにみ、上村松園といえば筆者等の世代では、学校の図工の時間に、ときどき教師が受験(当時は公立高校受験が主流でしたが)対策に使う白黒刷りのテキストに掲載されている写真図版でお馴染みなだけで、模擬テストには必ず出題されるため、なにがなんだかわからないまま、美人画の達人として記憶させられていました。ですから、松園について、観たり、聞いたり、調べたりし始めたのはやはり大学生になってからのことです。私の学生当時、都心のデパートには必ず美術館というか美術展に使用するかなり広いスペースが常備されていて、近代画や現代画の企画展がよく行われていたものでした。そうしたなかでも、日本画は抽象画などと違い、誰にでも馴染みやすくわかりやすいので、デパートの客寄せにかなり頻繁に活用されていたようです。上村松園の作品展もそうした流れの中で見かけたものです。
◆ここで、松園について若干の解説をしておきます。上村松園の本名は上村は津禰(うえむらつね)といい、1875年(明治8年)に京都の四條御幸町西入ル奈良物町にあった『茶舗ちきりや』の次女として生まれました。津禰は小さい頃から絵を描くのが好きで、母親も「お前は家のことはしなくていいから、一生懸命絵をかきなさい」というほど上手だったようです。父親は津禰が生まれる2ケ月前に亡くなっていたといいますから、女手一つで家庭も商売も切り盛りする逞しい母親を父とも母とも思い、その庇護のもとに生活の苦労を感じることなく絵の勉強に邁進したのだといいます。津禰は開智小学校を卒業すると、京都の画学校(現在の京都市立芸術大学)に入学しますが、画学校はカリキュラムに基づいた授業が主体なので、これにあきたらず、描くことに専念するため退学し、画学校の教師であった四条派(京都画壇の中心勢力)の画家“鈴木松年(すずきしょうねん)”の内弟子となります。津禰はこの師匠のもとでおおいに学び、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品し受賞する等の成果を挙げ、師匠から『松園』という号を与えられます。上村松園の誕生です。その後、師匠の許しを得て、渋味のある手堅い四条派から柔らかな筆づかいの四条派へ他流の門を叩き、幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事しますが、楳嶺の死去にともない三人目の師となる竹内栖鳳に指導を受けます。これら三人の師はいずれも四条派の個性に溢れた錚々たる大家であり、松園の絵の土台づくりに大きく寄与しました。
|
||||||
|
◆さて、講釈はこの程度にして、松園の絵に注目してみましょう。まず、花鳥風月を主流とした四条派には美人画は当時、数少なかったのですが、松園はこの美人画に真っ向から挑んだ女流画家として異彩を放っていたのではないでしょうか。とはいえ彼女の美人画はどれを観ても、官能的な美を感じることはありません。『晩秋』・『夕暮』・『晴日』等々、平凡な市井の女の日常の一コマを描いた絵はもちろんのこと、『天保歌妓』・『舞仕度』等々の芸妓や舞妓を描いた絵でも、登場人物の女性からいわゆる官能的“色香”は発散してきません。しかし、それは魅力がないということではなく、一点々々の作品に描かれた女性を見ていると、心からうっとりとしてしまいます。つまり、官能美はないけれどもその女性の美しさに観る側の“やましい心”が浄化されてしまうといってもよい美しさなのです。おそらくこれは松園が実際の暮らしの中のさまざまな女性をよくよく観察しながら、それをリアルに描くのではなく、極限まで理想化して描いているからではないかと思われるのです。ですから、松園の絵に描かれた女性には安易に声をかけたり、肩を叩いたりすることはできない凛とした緊迫感があります。彼女の最高傑作といわれる『序の舞』などはその典型かもしれません。そうした男性には安易に妥協しない、それでいて“うつやかさ(京言葉で、美しく、しとやかな有様)”を秘めた女性像の表現は、おそらく松園自身の女性観および人生観であったのでしょう。ところで、上村松園は男性の美人画家達が女性の着物の着付け等に関して、しばしば間違った描写をしていることがあり、それにとても違和感を覚えていたとのことです。
◆なお、男の視点でしっとりとした美人画を描き続けた巨匠“鏑木清方”がかつて松園と面談したおり、松園は彼に「私の一生は姉さま遊びをしたようなものです」と語ったと述べています。女の子の好きな遊び、つまり縮緬紙や千代紙を使って、花嫁人形を作ったりして日がな過ごすような生活を一生をと通して続けてきたということでしょうか。そこからは、こつこつと研鑽を積み、今の言葉でいえばかなり“オタク”っぽく、描きたい理想の女性(うつやかな姉様人形)を創造することに余念がなかった上村松園の姿が浮かび上がってきます。彼女の子どもにとって、幼いおりの母親は『二階のお母さん(つまり、いつでも二階で絵を描いている母親)』というイメージのみの存在であったといいますから、その徹底ぶりが推測されます。
◆このような記述をすると、上村松園がなにか浮世離れした女流画家のように思えるかもしれませんが、人間はだれしもが複雑で摩訶不思議な存在であり、上村松園も喜怒哀楽に満ち溢れた人生を体験しているのです。そうした事実の一つとして、28歳で未婚の母となっていることをあげることができるかもしれません。信太郎と名付けられたこの子どもは後の上村松篁で、花鳥画の巨匠として大成し、98歳まで長生きしています(西暦2001年に心不全で逝去)。世間では、この子息は画学校を中退した後、最初に師事した四条派の豪放磊落な画家・鈴木松年との間に生まれた子どもであるとされています。鈴木松年にはすでに家庭があったために、未婚の母としてい生きるいきさつとなったようです。
◆また、二つ目の事実として、『焔(ほのお)』という作品を挙げることができるかもしれません。これは松園43歳の時の作品で、源氏物語に由来する謡曲『葵の上』の六条御息所(みやすんどころ)の生き霊にヒントを得て描いたとされています。それは、それまで松園が描いてきた凛としてうつやかな女性とは似ても似つかない、“嫉妬の炎にやけつくされる中年女の形相”を描いたもので、後に、本人もどうしてこうした絵を描いたのかわからないと述懐していたとのことですが、評論家の間では当時の松園の心の自画像であるとする見方が一般的なようです。その背景には、40歳代に入って年下の男性に失恋した大ショック(大スランプ)があったようです。そんなわけで、凛としてうつやかな美人画を描き続けた松園の中に、時として修羅の感情や激しい情念が渦巻いていたというのは一見矛盾しているようにも思えますが、見方を変えると、だからこそ“理想の女性像”が描けたのだともいえるのではないでしょうか。
◆若き日の私はこうした事実によって、いかにも生身の上村松園が実感され、彼女の作品に対し、観る者の位置で生じる光と影により能面が深い表情を湛えるのにも似た、より深い感動をその“理想化された女性像の面影”に覚えたものでした。【戻る】
安藤広重(あんどう ひろしげ 1797〜1858)
◆安藤広重(1797〜1858)は江戸時代後期の浮世絵師です。幼名を徳太郎といった彼は江戸八重洲河岸の火消組同心の家にうまれました。ちなみに、江戸時代には定火消という役職がありました。これは江戸城の丸の内、大名屋敷、旗本屋敷が火災になったおり、消火に当たる役目です。この役のトップは普通、四千石から一万石の旗本が就任しました。そして、その配下として、与力六騎と同心三十人が割り当てられました。安藤家は御家人で、こうした常火消の同心であったといいますから、下級の役職を担う貧乏武家ということになります。
◆しかし、安藤広重の人生に決定的な影響を及ぼしたのは、こうした社会的な階級よりも、両親の早世でしょう。彼が十三歳のおり(文化6年)の2月に母親が、そして同じ年の12月に父が死亡しています。江戸時代には、数え十五歳の頃に元服(成人式)をしたようですから、両親を失った広重はまだ元服前であり、法的には家督相続が許されない年齢だったのです。しかし、祖父や幼い妹を養わなければならなかったため、家督を没収されないように、年齢を偽って定火消同心の役につき働き始めました。
◆広重は絵が得意であったこともあり、十五歳のおりに、浮世絵の歌川豊広という人物の門人となり、やがて二十七歳のとき、息子の仲次郎に同心の職を譲って“絵を描く生活”に専念するようになります。そして師から歌川広重の名を授けられ、最初は歌川流の美人画を描いていたようですが、やがて狩野派、南画、四条派、さらには西洋画法も貪欲に習得し、忠実な写実を基調に美人画・風景画・花鳥画にいたるまで、その才能を縦横無尽にふるうようになっていきます。
東海道五十三次 庄 野 |
京都名所 淀 川 |
木曾街道六十九次 望 月 |
◆話は少し横道にそれますが、広重の生きた時代には、道路の交通網も発達して、庶民の往来が盛んになっていました。そうした背景もあって、読み本が流行した享和2年(1802)には自分で描いた名所の絵をふんだんに挿入した十返舎一九の道中膝栗毛初編が出版され、庶民の間に爆発的な人気をよんだのです。葛飾北斎(1760-1849)はこうした時代の関心に応えて、朝な夕な拝み見る民間信仰の対象“霊峰富士”を題材とした冨嶽三十六を発表しました。すでに北斎は、世の人々をあっと驚かせる斬新奇抜な構図のさまざまな絵で人々の注目を集めていましたが、このシリーズ画によって、風景画の世界にその名を轟かせることになります。かくして、広重よりも三十七歳年上の北斎がまず先駆者となり、浮世絵の世界に風景画の新たなジャンルを切り開いたのです。ところで、広重同様に葛飾北斎もまた、狩野派、堤派、土佐派等々の画風を貪欲に学びつつ独自の画風を生み出しました。しかし、数々の奇行も伝え聞かれるその強烈な個性のゆえに、門人となった各派から破門されることしばしばであったといいます。そんな北斎も、晩年に近づくにつれ、線描にこだわった精密な地図や歴史を題材にした絵を描くようになり、人気の絶頂を極めた風景画から転向していきます。今日に至るまで、その理由はわかりませんが、当時、風景画家として突然頭角を現してきた安藤広重の存在があったともいわれています。
◆そんな広重が風景画に足を踏み入れるきっかけとなったのは、天保3年(1832)八月に幕府の八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)の一行に加わって東海道を旅したことだとされています。
◆八朔御馬献上の八朔とは8月1日のことです。これは徳川家康が初めて江戸入りした日といわれています。家康は豊臣秀吉によってその存在を危険視され、大阪からは遠い僻地の関東八州を領地として与えらました。家康は1590年(天正18年)の8月1日に江戸に足を踏み入れ、太田道灌の古城跡に城を築きます。それから以後、湿地や海の入り江を埋め立てて、水利を巧みに利用した強大で機能的な城下町づくりと関東経営に着手してゆきます。つまり8月1日は江戸幕府にとって、こうした経緯を踏まえたうえでの大切な記念日でした。八朔御馬献上はこの日に、将軍家が京都の宮中へ馬を献上するならわしだったのです。
◆ともあれ、広重にとっては初めての東海道ツアーであったので、旅行で見たことはみな珍しく、風景や風物をたくさん写生しました。これらのスケッチをもとに、帰郷後に保永堂(ほえいどう)という版元から横大判錦絵55枚揃えとして発表したのです。これが大変な人気をよんだため、これらの絵に序文と奥書を書き添えたセット販売を行いました。世に名高い『東海道五十三次』という作品の誕生です。この作品により、広重は北斎にとってかわる風景画家(絵師)として人気を博しました。なお、絵師としての広重は安藤広重ではなく、歌川広重という名で世に知られていたのが事実のようです。
◆さて、広重は末期浮世絵の巨星ということができるでしょう。そして、当時の風景画分野においては先駆者である北斎の衣鉢を継ぐ画家であったのも確かですが、その画風においては北斎とは異なる独自性がありました。すなわち、北斎が線の個性と奇抜な画面の構成力(立体的な構築)に固執したのに対して、広重は絵を二次元空間のものとして、奇をてらわず、風景の広がりを抒情的に描き続けたということができるでしょう。
◆そのためか、彼は日本における浮世絵の巨匠であり、後世、ヨーロッパ絵画界における印象派の人々にその二次元空間の構成の魅力を存分にアッピールし、ジャポニズムの流れに大きな影響を与えた偉業達成の画家であるにもかかわらず、筆者個人としては、その描いた絵からうける印象には常に寂しさの入り混じった“旅愁”を感ずることが多いのです。また、ひとつひとつの風景画のそこかしこに旅人としての彼自身が描かれているようにも思えるのです。例えば、『東海道五十三次 庄野』に描かれた驟雨の中を行く籠の内にも、『京都名所 淀川』の三十石船に乗り合わせる人々の中にも、そして『木曾街道六十九次 望月』で街道を行き交う菅笠の旅人の一人にも、広重自身が描かれていると実感できるのです。言葉を変えれば、広重はおそらく旅する自分自身の姿を風景画の中に描き続けたのかもしれません。そして描かれた道行く者の旅愁は幼くして父母を亡くした子どもが歩んできた艱難辛苦の人生の哀愁や郷愁につらなっているのではないでしょうか。また彼は旅を歌った和歌の世界や俳人達の歌の足跡をたどる旅も数多くしています。おそらく彼は各地の風景画を描くことによって、人々に人生は誰にとってもひとつひとつの旅であり、人は常に旅人ではないか?と問いかけているのでしょう。それは西行や雪舟や芭蕉等々の先人に共通した人生観に一脈通ずるものであっかたかもしれません。
◆ところで、筆者の青少年時代に見た浮世絵はマッチ箱の世界でした。当時のマッチ箱には広重が描いた東海道五十三次の縮小コピーが小さな一箱々々の表を飾っていて、メンコを集めるのと同じような収集欲で、大人達が店でもらったりしたマッチの空き箱をためこんだものでした。しかし、青年期になって、美術館や博物館の展示物の中に、本物の広重作・東海道五十三次の実物を見つけたおりには、マッチ箱の小さな世界とは似て非なる新たなる古典芸術の世界に魅了され、同時に浮世絵の手法を取り入れた印象派の巨匠達の絵に、改めて日本人の偉業を実感することにもなりました。そして、それとともに、浮世絵マッチ箱の収集には魅力を感じなくなっていったのを思い出します。
【戻る】
村山 槐多(むらやま かいた 1896-1919)
(目下、執筆中)