2005年3月はこの2公演

 


劇団ムーンライト「蒲公英のある庭」

劇団ムーンライト荻窪アトリエ 3/2〜3/6
3/5(土)マチネ観劇。座席 自由(4列目右端)

作 柴田北彦
演出 野沢雅子

 舞台は戦後10年経った、とある海辺の町(東京まで四時間程かかる千葉のどこか)。その海を臨む高台の家に住む小田桐一家。小田桐千鶴(大津裕子)は、戦争で死んだ夫と長男に代わり、女手一つで三人の娘達を育ててきた。長女の朋子(番場仁美)には、そろそろ縁談の話も舞込み始めている。次女の俊子(坂本綾子)は、東京の学校で学びたいという強い意志を持ち、母親とは口論が絶えない。三女の悦子(茂久ひとみ)は、脳天気にすくすくと育っていた・・・。
 ある日、二通の手紙が届く。一通は長女朋子宛に、恋人のツカモトからの手紙であった。手紙には南米のブエノスアイレスに行くと書かれてあった。もう一通は次女俊子宛の入学案内であった。
 いつものように何気なく過ぎて行くはずだった休日に、それらの手紙が小さな波紋を投げかける・・・。

 親の子離れ、子の親離れ(巣立ち)がテーマの作品だと思うが、如何せん時代設定が古い。過去の親子関係を描いても「あの頃はそうだったのか」と思うだけで、その感情を理解するだとか、感情移入するだとか(男の立場の話じゃないので無理かもしれないけど)、そんな感情の起伏が起きないのである。「昔も今も親子関係は一緒だね〜」とも思えない。その時代を生きた人達がこの芝居を観るなんてのは、ごく一握りに違いない(勝手な想像)。10年ぶりの再演らしいが、この芝居を“今”やる意味が、自分にはまったく理解できなかった。残念ながら。

 ただ、ストーリーとは全然関係ないのだが、言葉の綺麗さと言うか、敬語の使い方の素晴らしさには感動を覚えた。今ではめったに聞く事ができない響きには、ちょっと心が洗われた思いである。って事は、今の言葉の汚さに、ほとほと嫌気がさしているって事の裏返しか。「今の若者は・・・」とは言いたくないが(自分もちゃんと敬語が使えてないし)、日本語の良い部分、美しい部分は残しておきたいものだ、と懐古的な感情に包まれた。

 で、その敬語の使い方がみんなうまいのである。新人公演なので、みんな若いはず。普段はそんな敬語など使っていないだろうと思うが(あくまで憶測なので違ったら許して)、まったくの自然体で綺麗な響きを奏でていたのである。その舞台空間だけがタイムスリップしてしまったがごとく、別世界を構築していたのである。それは出演者の演技力以上に、声を仕事としている野沢雅子ならではの演出の素晴らしさに他ならない、と断定してもいいと思う。この公演が何を伝えたかったのか、正直自分にはわからなかったのだが、『言葉』の美しさは充分に伝わってきた公演であった。

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都市コラージュ「海のアジサイ」

中野テルプシコール 3/3〜3/6
3/5(土)ソワレ観劇。座席 自由(3列目右端:招待)

作 鈴木ナカラ
演出 市川竣一

 舞台は、都心近くのある街のある通りに面した一軒家。兄の井上了太(上田航平)と妹の遥奈(吉田紗和子)が、代々続いた仕立て屋をお洒落なバーに改築し、暮らしていた。喘息持ちで病弱な妹をかばいながら孤軍奮闘するも、経営はうまく行っていない。妹の病状の悪化を心配し、順調に客足が伸びていると嘘ぶく了太であったが、借金返済日が迫り、ローン会社の田村(市川竣一)が家にも押し掛けてきていた。そんな兄妹を中心に、昔バンドを組んでいた友人のヤスアキ(山澤大輔)や成瀬(安藤直人)、ヤスアキの彼女のユウ子(だてみそら)、いとこの浩一(上原ミキオ)らが訪れ、平穏な日々が少しだけ波だつ・・・。

 慶應義塾大学のプロデュース団体「創像工房in front of.」のメンバーを中心に、結成されたユニットの第一回公演である。目指すものは「淡々とした日常を、少しの笑いと少しだけ詩的なセリフで描き出す」空間らしい。フリーペーパーのインタビューにも「街の日常を切り取ってみたかった」とある。そんなところから“都市コラージュ”というユニット名が付いたのであろう。

 で、芝居はどうだったかと言うと、描こうとする空間には好感が持てた。ただ、ちょっとした細部への気使いのなさが芝居を壊していた点は、いただけない。具体的に言うと、暗転後の時間の経過が見えないのである。冒頭のシーンで新聞を使って、現在が月曜日の6時(18時)と明確に表現していたのに、暗転後時間が経過しているにも関わらず、新聞は変わっていない。これが奇談の類で、現実の時間は止まっているのに精神だけが時間の経過を感じている、みたいな話しならともかく「淡々とした日常」を目指すのであるなら、そんな細部にもこだわりを見せて欲しかった。借金があるので新聞は解約したとも取れるが、それだと“妹に悟られないように”という気遣いに反してしまうので、あり得ないであろう。

 あと、「人よりも街を描きたいと思っている」とインタビューに書いてあったが、私に街の情景が見えたのは、ごく一部であった。借金取りがこの街は死んでいる、バーを改築しても人は集まらない、みたいな事を言うシーンがあるが、その時だけは街の情景が見えた。しかしそれ以外は、閉鎖的な空間(見たままの部屋の景色)しか見えなかった。残念である。
 あっ、そうそう、どれだけ借金をしているのかわからないが、どうも会話からは借金取りが家まで押し掛けるほどの金額ではなさそうなのだが(数十万程度に感じたのだが)、そんな金額でも追い込みをかけられるのだろうか?経験がないのでわからないのだが、ちょっと疑問に感じてしまった。借金返済が目的でなく、その土地の買収が目的なら別だけどね。

 あと感じたのが、「なるべく最小限の表現で何かを伝えたい」と言葉を選んでいるのだろうが、その言葉に「生」っぽさを感じなかった。言葉だけでは表現できない気持ちを言葉に乗せなくてはいけないのに、言葉から気持ちが伝わってこない、と言うか役者がその感情を有しているとは感じられなかった。演出家の思惑が役者には伝わっていないのか。役者の技量がまだまだなのか。

 まぁ、いろいろと気になる点だけを書き綴ってしまったが、嫌いではないので誤解なきよう。 この雰囲気を壊さずに細部まで心使いができたなら、とてもいい芝居が観れるであろう、という期待は持てた。

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絶対王様
「やわらかい脚立〜あなた、存在する意味がありませんよ〜」

紀伊國屋サザンシアター 3/11〜3/13
3/12(土)ソワレ観劇

作・演出 笹木彰人

申し訳ありません。まだ書けていません。

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