2007年10月はこの1公演

 


東京イボンヌ「無伴奏」

萬スタジオ 10/4〜10/8
10/6(土)ソワレ観劇。座席 自由(H-3:招待)

作・演出 福島真也

 舞台は、長野の山奥深いところにあるペンション(茅野から登るらしい)。12年前ここでアルバイトをしていた寺島貴子(金崎敬江)が戻ってきた。その“失踪”は、ラジオのニュースでも取り上げられるほど、彼女は今や世界的なチェロ奏者であった。ペンションのオーナーの塩留圭(阿部純三)は、そんな彼女を優しく招き入れていた。塩留圭と寺島貴子は12年前、“3ヶ月限定”の恋人関係にあった…。
 「俺はあの3ヶ月だけで生きていけるよ」
…過去に生きる男と未来を見続けた女。二人の運命をクラシックの調べに乗せて描いていく…。

 「狭い空間の中で美しいクラッシックが鳴り響き、目の前で生身の人間ドラマを演じる。これほど贅沢な空間はないと思っていた。」というのが福島真也の言葉である。
  その言葉通り、空間の構築はできていたと思う。届かない想いは静かなものであるというのもわかる。でも、30歳そこそこの人間が悟ることではないと思う。生きている人間の生身と言うか本音の部分(もっとドロドロしているはず)は叫びを上げているに違いない。その想いが、綺麗にかたどられてしまい、欠落してしまっていた。それでは、心にまで届いてこない。
 何かのきっかけで豹変する心の闇(所有願望)は“首を絞める”という行為で表面化されるのだが、その行為は相手以上に自分を傷つけるはずである。その苦しみ、後悔(首を絞めたという行為以上に、今まで自分だけのものにできなかった後悔)、心の葛藤が見えてこなかった。美しい空間にこだわり過ぎた結果かも…。
  他劇団を引き合いに出すのは申し訳ないが、綺麗ごとだけでは本音は伝わらないってことを突きつけたのが、大人計画だったと思う(最近は人間の暗部を露呈するより、面白さに走ってる傾向が強いけど)。ファンキーやヘブンズサインを観た時の衝撃は今でも忘れることができない。登場人物達の叫びが、心に重くのしかかってきたのである。いや、それどころか痛みが突き刺さって、観劇中に苦しくなったのを覚えている。それと比較してしまうのは申し訳ないが、本音の叫びが見えない分、登場人物達に感情移入ができず、なんと言うか、傍観してしまったというのが、正直なところ。
 そして、 寺島貴子の描き方も綺麗過ぎる。怪我でチェロを弾けないと勘違いして昔の男の元に帰ってくる。それがたいした病ではないと判るやいなや旦那の元へ帰る…。こんな打算的な女なのにオブラートで包んでしまっていたと思う。そんなズルイ女を好きになってしまう気持ちは判る(自分もそんな事があったから)。でも、その気持ちを伝えるなら、嫌な女として描くべきではないか。端から見れば嫌な女であるが、それすらも包み込んでしまう“優しさ”を出してこそ、男の惚れ方(一生をかけた恋)が伝わるのではないか。どんなに名声があっても、周りから“あんな打算的な女を平気で入れるなよ”って言わしめるくらいの女なのだから、いい女として描いちゃだめではないだろうか…。

  東京イボンヌの観劇のきっかけは、元カリファルニアバカンスの阿部純三さんからの案内。何が繋がるかわからない芝居の世界(まぁ狭いからね…)は、マジ面白い。自分が足を突っ込み過ぎたって気がしないでもないけど…。 今回の阿部純三さんは、好青年を演じていたが、相変わらず妙なオーラをまとっている。とても良い。でも、もっと偏った性格を演じて欲しかったってのがホンネ。そのほうが生かされると思う。それが証拠に首を絞めるシーンは、凄かった…。
 変態を笑顔に隠している人物とか、人の心が読めて苦しんでいるエスパーとか、笑顔で人を殺す殺し屋だとか、笑顔に隠された狂気を見たい!!

  余談だが、作品のアクセントにはなっているが及川光則のキャラがダメだった(原因は演出なのか、役者なのかは判らないけど)…。あのポジションってよくありがちじゃない(竹中直人がドラマで演じている感じ)。おなじテンションじゃ、格の違いがありありで煩さが耳障りなだけだった。もっと既製の枠からはみ出さないと意味がないと思う。

演劇の部屋に戻る


カリフォルニアバカンス
「不審な集いは七階に。〜ガードマンは夜、悩む〜」

下北沢offoffシアター 10/23〜10/31
10/29(月)観劇。

作・演出 佑里沢満人

申し訳ありません。まだ書けていません。

演劇の部屋に戻る



CONTENTSのページに戻る