97年6月はこの3公演

 


猫ニャー「不可能美」

フジタヴァンテ 6/6〜6/8  
6/7(土)観劇。座席 自由

今回はショートコントの寄せ集めという感じで、前公演の「長袖を着てはこぶ」と比較すると多大に不満が残る公演だった。
が、そこに流れる猫ニャー独特のただただ“おばかな空間”(関西風に言うと「あほやなぁ」という感じの褒め言葉だろうか)は健在。なにげない日常だけど、どこかが歪んでいる世界が最高。あのナンセンスさをどう表現したらいいかわからないが、例えるなら漫画の「マカロニほうれん荘」かなと観ながら頭をよぎったりもした。
個々に言うと「セリフのト書きが映る」のビデオの使い方はしてやられたというおかしさが残るし、「スライムのボードを持つ女」が妙に真剣にボードについて話す所なんか、わけわかんなくて大笑い。衣装にしてもビニール袋がひざとか脇からでている、そんな無意味で、なんかとってもつまんない事している所が多いに笑えて嬉しい。
演劇関係者が大勢観劇していたのは、注目株という事が認識されてきた証か。次回公演は多いに期待したい。


“猫ニャー”自分が観た公演ベスト
1.長そでを着てはこぶ
2.不可能美
3.ポセイドンのララバイ

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弘前劇場「家には高い木があった」

青山円形劇場 6/20〜6/22  
6/21(土)観劇。座席 自由

井戸堀り職人だった祖父の葬式に集まった兄弟縁者たちの1日を、何気なく、さりげなく描いている。しかしその切り取られた1日には登場人物12人の凝縮された人生が垣間見る事ができ、静かに過ぎる時間の中でその瞬間、瞬間が片時も目が離せないものになっていた。

作風は平田オリザに代表される『静かな演劇』と言う事になるのだろうが、そこにあるのは乾いた空気ではなく、生活臭さ、日常臭さであった。舞台上に日常空間を造ったのではなく、自分の体が透明になり、その日常空間に佇んでいるかのような錯覚に陥る舞台であった。それは、自然に客席を背にし会話をする事であったり、漬物を食べるコリコリという音であったり、食器のふれあう音で感じたのかもしれない。また、主人公の3兄弟の津軽弁が微妙に違う事も大いに生活感を表現していた。「役者の生活する言語によって話す」という弘前劇場の方向性を一歩進めた表現方法だと思うが、津軽弁を基調としてはいるが、しゃべる言葉の微妙な違いで、今生きている環境を、それまで経験してきた環境を表現していた。それを体現する3兄弟を演じた福士賢治、畑澤聖悟、後藤伸也がすばらしい。
こんな劇団が青森にあったとはと自分の無知を思い知らされた。

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「君となら〜Nobody Else But You`97」

PARCO劇場 6/20〜7/20  
6/21(土)観劇。座席 X-20

小磯家の年中行事である「流しそうめんの日」に、突然娘の恋人が来てしまう。娘は父より年上の恋人の事を家族に話していなかったので、その場を取り繕う嘘が、さらなる嘘を呼び大混乱。三谷幸喜脚本の「お茶の間シチュエーションコメーディ」の傑作である。

95年に初演された作品の再演だが、初演の質がそのままであり、初演を観ているにもかかわらず、腹を抱えて大笑いしてしまった。奇跡的に成立しているその会話のおかしさは絶品。役者の中では父親を演じた角野卓造が特にいい。
ただ再演にあたって、青年実業家である恋人の息子が2年前と同じくポケットベルを持ち、鳴るたびに小磯家の電話を借りるところはいただけない。携帯電話支流の現在風に変化させるべきではなかっただろうか。どう変化しているか楽しみにしていただけに残念だった。

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