学校教育を考える ページ1


「消えた合掌」について
小林 泰善

98/08/15

  7月28日の産経新聞の朝刊に、『教育再興 宗教と伝統文化D「消えた合掌」一部の反対に過剰反応』という大変興味深い記事がありました。

  富山市内の呉羽中学校で、平成8年4月、一人のPTAの人の手紙が舞い込んだ。給食の折り「合掌」ということばとともに「いただきます」を唱和することについて、「合掌という言葉には宗教的色彩があり、他の宗教を信じる児童にとって強制されるのは苦痛」などの指摘がなされた。この手紙をきっかけに論争がおこり、結局「合掌」ということばを中止したという。(記事の要旨)

  合掌して「いただきます」をすることは、特に特定の宗教に偏するものではありません。ごく自然になにげなくしているひとは大勢います。また「いただきます」と感謝をするこころは大切な情操教育でもあります。


  しかし、憲法第20条で「信教の自由」がうたわれており、それに基づいて教育基本法では公立学校での特定の宗教活動の禁止を定めています。合掌と号令することは、仏教という特定の宗教活動と判断することもできます。特に富山県は浄土真宗の強い地域であります。大家族では、食事の前に「合掌」と声をかけるのが父母の役割ともされ、多くの学校でも合掌が慣習化していたものだそうです。

 そのような中で、「違法だから中止」という声と、「単なる慣習だから続行」という意見が真っ向から対立し、学校によっても対応がまちまちとのことであります。

  私としては、内心はそのような慣習は是非続けていっていただきたいと思っています。しかし、教育基本法の精神から、中止となったとしてもやむをえないことでしょう。公立の学校に、宗教的情操教育を期待することは無理であります。やはり家庭において教育すべきことであると思います。

 ただ、ここで心配をすることは、中止をするときに、生徒にどのように説明をしていくかです。教育基本法の理念を正しく説明して、中止の理由を先生が生徒に的確に伝えられるかどうかとても不安です。「違法だからやめる」ということだけならば、生徒にとって合掌することはいけないことになってしまいます。それは、教育の場からの宗教への干渉になってしまいます。あくまでも、公立の学校としては、いろいろな宗教のひとを尊重する立場からできないのだということを伝えていただきたいと思います。

 私たちは、肉や魚や野菜などの「いのち」をいただかなければ、生きていけないのです。「いただきます」と感謝するこころを大切にしなければなりません。その時に合掌することは美しい習慣であることに間違いはありません。

  産経新聞によりますと

「富山県では、平成八年以前から『合掌』を避けていた学校もあるが、県教委指導課によると、呉羽中学校以降に『合掌』の号令を取りやめた小・中学校は数十校にのぼる。『日本の風習』が公立学校から姿を消しつつある」

とあります。心配していた方向に進んでいると言うことなのでしょうか。儀礼だけで心が伝わっていなかったため壊れるときは、徹底的と言うことなのでしょう。過剰反応と嘆くより、「いただきます」の心が誰にも伝わっていなかったことに注目すべきと思います。




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