宗門校での宗教教育 竹柴俊徳 99/04/01 |
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「学校教育を考える」ということで、本願寺派の宗門学校である千代田女学園における教師の立場から宗教教育がどのように行われているか、その一面をご紹介したいと思います。 まず最初に言いたいことは、宗教教育は、科目としての「宗教」の授業だけでは成立していないということです。つまり学校には朝の朝礼から始まる一日があり、さまざまな宗教的な行事が一年を通して行なわれていることからもわかります。学校の中にいることが、そのまま宗教教育であるとまず考えていただきたいのです。授業はそのほんの一部であると思っております。そしてこのような環境は多くの他の教員の理解がなければ成立しませんし、そのような下地がなければ宗教の授業も成立しないといえます。 さて授業のことについて言えば千代田は6ヶ年一貫の学校ですので、宗教科も6年で計画を立てています。中学1年生には簡単な釈尊伝と親鸞伝をやります。これは行事として、釈尊の誕生を祝う「はなまつり」や親鸞聖人の命日にその遺徳を偲んで行われる「報恩講」があるからです。中学2年と3年で釈尊についてより深く勉強し、高校1年と2年で親鸞聖人の生涯をとおしてより深く勉強します。しかし、それ以外はこれといってマニュアルはありません。高校3年では2学期までしかないのですが、教科書から離れて時事などから考え学ぶことをします。ある意味その担当の教員に授業内容は一任されているといえます。それは仏教・親鸞といったことを教える以上、自ずと教えることは見えてきますし、ほかの教科のような「到達度」というものはありませんので、結局中1で聞いたことを高3でも聞くというスタンスで授業を行っているからだと思います。 聞く方は同じ内容を繰り返し聞くことになりますが、むしろ自分を取り巻く環境は常に変化してるわけですから、同じ内容でも受け止め方が、少しずつ変わってくると思います。問題はその内容つまり仏教の教えがどれだけ彼女達に身近に感じてもらえるかだと思います。 その教える内容というのは、道徳教育と宗教教育の違いと言う形ではっきりしてくると思います。つまり、「人に迷惑をかけてはいけない」といういわゆる道徳的な視点に対して「人に迷惑をかけずには生きていけない」という視点であります。これは道徳の否定ではなく、彼女達に後者のような視点を持つ生き方があるということ、そしてそのような視点を持つ生き方が自分にとってどういう意味があるか、彼女達自身に考えさせるということが、大切であると思っています。 生徒の感想を見てみると、この考えることが結構新鮮なようです。考えるということは覚えることとはまったく違います。暗記至上主義から少し離れて心をリラックスさせて自分を見つめる。この辺が心の教育ということにもつながるのではないでしょうか。 |
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