学校教育を考える ページ4
 


「ぼくは何教徒?」を読んで
小林 泰善

99/12/01


 先日、朝日新聞の特派員メモ(朝日新聞 1999.11.12国際面)に、「ぼくは何教徒?」という興味深い記事が出ていました。
 イスラエルには日本人学校がなく、8歳の男の子ナオヤ君はエルサレムの英国国教会系の学校に通っています。ナオヤ君は、学校で宗教教育の科目を受けるうち、「ぼくは何教徒か」という悩みを持ちました。親は特に何教徒と名乗るほどの宗教は持っていないとの立場をとるため、ナオヤ君は悩みます。そして、今得た結論は、スリランカの仏教寺院を訪問した印象から、「ぼくはクリスチャン・ブディスト(キリスト教仏教徒)って言えばいいんだ」と親に話したとのことです。
 この記事を読んでまず思ったことですが、イスラエルというユダヤ教宗教国家の中にあっても信教の自由が保証さている教育がなされているということです。ナオヤ君の通う学校はキリスト教が基本となる教育課程が組まれていることと思いますが、注意深い配慮がなされているのです。生徒の宗教はあらゆる宗教が混在しています。記事の中にもイスラム教の子もいることが書かれていました。
 生徒やその家庭の宗教を尊重する宗教教育は、当然のことながら人が生きていく上での善悪や死のとらえ方、将来への不安など、人間なら誰もが抱えている精神性や宗教性の問題が中心になります。そして、個々の精神性や宗教性の支えとなる宗教の重要性が説かれているのだと思われます。したがって、個々の精神性を支える宗教がないということは、信頼できない無宗教者、言い換えれば虚無主義者ということになってしまいます。
 それで、ナオヤ君は自分の精神性の立脚点はどこにあるのかを知りたくて悩んだのだと思います。ところが、親は精神性の部分を無視し、宗教団体など組織への帰属という視点だけで宗教を考えていますので、納得のいく答えをもらうことはできませんでした。それでたまたまスリランカの仏教寺院を訪問したときにナオヤ君のイメージに合致するものを得たのだと思います。
 信教の自由は、個々が宗教を信ずることを保証するものです。以前、富山県の公立学校で合掌して「いただきます」をすることが、特定の宗教のしきたりであるとの意見で止めることになったとの話題がありました。このように、現代の日本人の傾向として、宗教団体への帰属の問題だけで、習慣の中にある深い精神性や宗教性までをも否定してしまうという傾向があります。そのために、誰もが持つ精神性や宗教性に鈍感になり、宗教本来のあり方を見つめる目まで摘んでしまっているのではないかと思います。
 この記事は、子供らしい面白い話だと読んでしまうこともできるのですが、記事の背景には現代日本人が抱える精神性軽視の問題点が示されていると感じました。

   小林泰善




特派員メモ   エルサレム

  ぼくは何教徒?

 イスラエルには日本人学校がない。ナオヤ君(八つ)は、エルサレムの英国国教会系の学校に通っている。宗教教育が科目にあり、キリスト教のことを毎日のように聞かされる。
 生徒の国籍は様々で、インドネシア人の友達の家では、親が「うちはイスラム教」と宣言する。友達のお姉さん(一八)は、周りにキリスト教徒の友達が多い中であえてイスラムを強調するのなら、教えをきちんと実行したいと、中学生ごろからラマダン月の断食を守るようになったという。
 ナオヤ君の家は、特に何教というほど宗教的ではない。学校で習う話からは、キリスト教徒が一番えらいように思われてきて、「何でほくんちは教会に行かないの」と疑問をぶつけるようにもなった。親は「私らはキリスト教徒じゃないけど悪い人じゃないよね。前のうちの大家さんはイスラム教を信じてたけど、いい人だったよね。信じる宗教によって、えらいとか悪いとか決まるわけじゃないでしょ」と言うけれど。
 最近、一家で仏教国スリランカに行く機会があり、いくつかの寺院を訪れた。教会のことが気になっていたので、お寺にお参りした、という体験は印象的なものだった。それがヒントになったのか、ある日「ぼくはクリスチャン・ブディスト(キリスト教仏教徒)って言えばいいんだ」と親に話した。
 学校で感じるキリスト教優位の教えと、信者ではない自分の立場とのかっとうに、幼いなりに悩み、たどり着いた、現在の一つの結論だ。
                         (村上宏一)
(朝日新聞 1999.11.12国際面)





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