菅原智之 の インド紀行


 

 


  

インド仏跡参拝記 その5
〜 お釈迦様誕生の地ルンビニー 〜
 
 
  仏教の開祖『お釈迦さま』ゆかりの地を訪ねて、1997年2月12〜20日のインド仏跡参拝記の第5回です。




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 ルンビニーを目指す我々のバスは、インドとネパールの国境に到着しました。ルンビニーはネパールにあるのです。といっても、国境から僅かに数キロ。それでも国境は国境です。入国審査に1時間程かかる為、バスを降りて国境の町を見物しました。
国境の町は賑やかでした。


 まずはトイレを探します。「トイレは何処ですか?」とガイドさんに尋ねると、道端を指さしました。ハハァ…。なるほど。道端は確かにトイレでした。現地の人も弧を描いています。では私も…。そこはトイレだけではなくて、ゴミ捨てでもありました。ペットボトルなどが散乱しています。そうそう、インドのペットボトルは日本のもののように丈夫ではありません。中身が入っている状態で胸の高さから落とせば、簡単に割れます。でもこれで十分。殻が薄いため、地面に捨てられたそれは、日光に照らされてパリパリに割れていました。

国境は遮断機一つ。



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 お店を見学すると、見たことのあるものが…。アディダスのスニーカーやメンズバツのTシャツ等。どう見てもまがい物っぽいものがゴロゴロしていました。アディダスは分かるのですが、メンズバツは…。それだけ有名ということでしょうか。あまりに解せなかったので、そのTシャツ、買ってしまいました。ハッハッハッ。

 「サモサ!」 

 屋台では『サモサ』を食べました。三角形の春巻きの様なもので、中味はカレー風味でとっても美味しかったです。しかし、次第にお腹の雲行きが怪しくなってきて…。ゴロゴロ。インドに来て、まだ4日目のことでした。トホホ…。



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入国審査が無事終わり、めでたく入国しました。ネパールに入ったとたんに、道路が砂利道になってしまいました。インド国内は曲がりなりにも舗装道だったのですが。経済格差ということを実感しました。



  ルンビニーは国境から30分程、はっきり言って、ど田舎です。2500年前にお釈迦さまはこの地にお誕生されました。

「臨月近く、妃は国の習慣に従って生家へ帰ろうとし、その途中ルンビニー園に休息した。折から春の陽はうららかに、アショーカの花はうるわしく咲きにおっていた。妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。天地は喜びの声を上げて母と子を祝福した。ときに4月8日であった」
(仏教伝道協会刊『仏教聖典』より)
 

 当時は花園だったそうです。しかし今ではただの荒れ野原の中に遺跡があるという具合です。花園のイメージとはかけ離れたものでした。2500年もたてばねぇ。まあ良しとしましょう。

マーヤ堂

 小さな祠があります。お釈迦さまのお母さまの名前を付けた『マーヤ堂』です。それが生誕の地であること示しています。付近は今も発掘調査中でした。中に入ると、マーヤ像が安置してあります。しかし顔が削り取られています。
 13世紀頃、インドにイスラム教が入ってきました。偶像を認めないイスラム教徒によって、仏像は顔を削られ、寺は破壊、経典は焼かれ、人々は改宗させられたり殺され、“正義”というものの危険さを説く仏教は、“正義”を振り回すものによって、発祥の地からほぼ姿を消したのでした。正義と正義がぶつかりあえば、戦いが起こります。そして正義を言わない戦いはないのです。正義の危なさ。「何事にも執らわれない」という悟りのこころを伝えられたお釈迦さまは、本当に偉大なお方でありました。

「天上天下唯我独尊 一切皆苦我当安之」

 顔が削り取られたマーヤ像が、正義を振り回すことの恐ろしい歴史を伝え、そばに立つ大きな菩提樹が、諸行無常を物語っていました。





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 「ものはみなうつり変わり、現れては滅びる。生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる」
 《ブッダのことば 『大般涅槃経』より》




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 次回は祇園精舎へ向かいます。

                  (つづく)



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