リチャビー族の池(カラウナーポーカル)
リチャヴィー族の貴族が身を清めるのに使った池。とても広い池です。この回りに、ツーリストバンガロー、小さな博物館、日本山妙法寺、仏舎利のストゥーパ跡があります。
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カラウナーポーカル |
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仏舎利ストゥーパ跡
このストゥーパから仏舎利容器に入った灰が出土しました。丸いドーム型の屋根に覆われて保護ざれていますが、回りから水がはいってしまいます。
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アショカピラー
有名なバイシャリのアショカピラー。完全な形のまま建っているのはここと、もう少し北にあるラウリヤナンダンガルだけだと思います。2300年前から建っています。インド仏跡のアショカピラーは頭がなかったり、倒れていたり、博物館に入っていたりするので、オリジナルのまま建っているのを目の当たりにしたのは感激でした。
おそらくこの辺に釈尊が法を説かれた重閣講堂があったと思われます。誰か掘ってくれ。
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アショカピラー |
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アショカピラーのすぐ隣にある池。猿が釈尊のために掘った池と言われています。いまは護岸整備され四角くなっています。またバイシャリは、猿が釈尊に蜜を捧げた物語の故地にもなっています。
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バイシャリの町(遠望)
猿池の畔から、バイシャリの町が見えます。祇園精舎も竹林精舎もバイシャリの精舎も町や宮殿から遠すぎず近すぎないところに作られています。現地に行くと本で読んだ釈尊の教えの通りに作られていることがわかります。
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釈尊が振り返った丘(遠望)
釈尊が最後の旅でこの丘で、象のようにゆっくり振り返り、「バイシャリの町を見るのはこれが最後だろう。バイシャリの町は美しい」と言ったところです。
そういえば、私の祖母が病気で入院するとき、玄関で象のようにゆっくりした動作で寺をみまわしてから寺を出た事を思い出します。そして祖母はそのまま病院で亡くなりました。
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ヒンズー寺院
バイシャリは釈尊滅後100年に第二結集が行われた場所と言っているのは正しいけれど、バイシャリのどこかに立って、ここが第二結集の地というのはいささか正確性に欠ける。本当の第二結集の地というのはどうやら、バイシャリの南4キロくらいの所にあり、小さな奉献ストゥーパがあるという。ガイドにのその旨を伝えると、ここがそうだといって連れて行ってくれた。小さなストゥーパのようなものがあったので、てっきりここだと思いましたが、日本に帰って冷静に写真を見ると、どう見てもヒンズーのリンガで奉献ストゥーパではありませんでした。後で考えると南4qにしてはずいぶん近かった感がありました。もう少し考察を加えたいと思います。
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ケサリヤ
バイシャリからアンバサダーがやっと通れるくらいの道を約2時間くらい行くと、ケサリヤに着きます。大平原の真ん中です。近くに煉瓦工場があります。
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ケサリヤストゥーパ |
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ケサリヤストゥーパ |
ケサリヤストゥーパ
ケサリヤストゥーパは釈尊が最後の旅で、バイシャリのリチャヴィ族の見送りの信者に托鉢の鉢を渡し、分かれたところと言われる所に建つ大ストゥーパです。以前はただのマウンドで、本によっては「これが玄奘三蔵の見たストゥーパの跡か・・」と紹介されていますが、昨年ころから発掘が開始されると、高さ150フィート(約45b)の大ストゥーパが出てきました。
9層の円形ストゥーパで、形はボルボドールに似ています、と言ってもこちらの方が年代的に古く、ケサリヤがボルボドールのデザインの基本になっているようです。下段2層が円形ですが、中段はギザギザになっていて、上から見ると蓮の花びらのようになっています。インドの考古学者はボルボドールより大きいと発表していますが、これは高さだけで、横の広がりはボルボドールの方がはるかに大きいと思います。といってもかなり大きいです。このストゥーパは最初は小さかったそうで、アショカ王がこのように作ったそうです。
各層には「がん」があって、そこに釈尊の座像(高さ1mくらい)があります。スタイルは、瞑想、成道などがありました。ずれも8c〜12c頃のイスラム教の侵攻により、頭部、または上半身から破壊されています。残念です。何しろ大きいので、遠くからも「がん」に入った仏像か確認でき、ストゥーパ各層、全周に仏像があった当時はさぞ壮観であったろうと思います。
発掘は、北側半分しか進んでおらず、南側から見ると、手つかずのようです。現在北側の発掘保存が進んでいて、と言ってもインド人がやることでとても遅いし、オリジナルのサイズの煉瓦を焼きながらやっている上、何でもノープロブレムです。現場で一部崩れかけているところがあったので、どうしたと尋ねたら、失敗したと言っていました。
計画ではストゥーパ頂部を煉瓦をドーム状にしてオリジナルを覆うそうです。オリジナルを見るなら今のうちです。しかし、インド政府はまだこのストゥーパを正式発表していないようで、今は発掘のニュースを聞きつけた人が訪れるくらいだそうです。私もその一人。
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中村元先生はこの地を訪れたとき、「見送りにしては遠すぎる」と書かれてここがそうであることに疑問符を付けておられますが、インド人の距離感、時間の長さ、釈尊を慕う気持ちなどを考えるとまちがいないと思います。親鸞聖人も関東から京都に向かわれたとき、箱根まで性信房が同行し、そこで別れていますし。
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ケサリヤ王宮跡と仏舎利が出たというマウンド(遠望)
ストゥーパの頂上からは、当時のこの辺の王宮跡、仏舎利が出たというマウンドなどがみえます。仏舎利は出たがさわったら粉になったとガイドが言っていました。
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☆☆☆☆☆☆
カルカッタ
この後、カルカッタに入って、翌日1日中カルカッタでぶらぶらしていました。カルカッタではクルタ、サリーをおみやげに買い、マザーテレサの病院を訪問し、お墓にもお参りしました。ヒンズーのカーリー寺院では子やぎの生け贄シーンに出くわし驚愕でした。インド博物館では、バールフートの欄楯に驚き、ピプラハワ出土の仏舎利をお参りさせていただきました。またジャイナ教寺院に参拝し開祖のマハーヴィーラ(釈尊と同年代の生まれで六師外道の一人、出生地はバイシャリ)の像を買いました。
昼食はチャイナタウンでインディアンチャイニーズを食べ、昼下がりにカルカッタの五つ星ホテル、オベロイグランドでオイルマッサージ(これは極楽至極で安い!)、夕食は町のレストランでシークカバブ、タンドリーチキンをたべました。いずれも美味でした。
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インド博物館の仏舎利 |
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今回も楽しい充実した旅行でした。一緒に行ってくれたPE会員の成田氏には篤く御礼申し上げます。(彼は初めての海外旅行でインドに行ってしまいました)
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