POSTEIOS non-genre
「名所・旧跡こぼれ話」

このコーナーは、東京教区内の隠れた名所や御旧跡にまつわる
こぼれ話など、あまり知られていないものを紹介していくものです。

名所・旧跡こぼれ話
第7話

九条武子夫人墓所
所在 築地本願寺、和田堀廟所

報告者: 白川 淳敬
 

  毎年2月7日は如月忌(きさらぎき)として全国で、仏教婦人会活動、社会事業お力を尽くされた九条武子夫人を偲ぶ法要が営まれます。また、夫人は歌人としても有名で、主著「無憂華」は多くの方々に親しまれています。

 九条武子夫人の墓所は、築地本願寺の和田堀廟所にあります。夫である九条良致(よしとも)様とご一緒のお墓です。自然石が一つ据えてあるだけの簡素な墓で、石柱が1本あり、そこに「至浄院釋良致 男爵 九条良致之墓 昭和15年8月2日逝」「嚴浄院釋尼鏡照 室 武子之墓 昭和3年2月7日逝」と刻まれています。

 墓所のある築地本願寺和田堀廟所では、毎年、2月7日に如月忌の法要が営まれています。是非、九条武子夫人の墓所もお参り下さい。





墓碑


全景


●九条武子夫人の生涯(抄)
 九条武子夫人は明治20年10月20日、本願寺第21代ご門主大谷光尊様(明如上人)の第6子としてお生まれになりました。12歳まで京都の師範付属小学校に通い、その後は家庭教師について学ばれ、長ずるに従いその美貌が知れることとなりました。22歳の時、兄、大谷光瑞様のお裏方、籌子(かずこ)様の弟、男爵・九条良致様に嫁がれ、結婚翌年、夫が正金銀行ロンドン支店勤務となったため、兄大谷光瑞様及び籌子お裏方様等と共に渡欧され、一年半滞在され単独帰国されました。それから京都本願寺百華苑の錦華殿に住まわれました。
 その間、和歌を佐々木信綱氏に学び、処女歌集「金鈴」(大正9年)は、10年余りにわたり1人海外に止りて帰らない夫、九条良致への思慕を謳い世間に伝わりました。
 大正11年、夫九条良致の帰国と共に東京築地本願寺内の邸に移り住まわれました。
 大正12年9月1日、関東大震災にあわれます。西本願寺では、九條武子夫人を中心に救護所を開設して人々の救済に尽くしました。
 九条夫妻の邸は焼け、後に淀橋区下落合に新邸を構え没するまでここに住居されました。その間、西本願寺仏教夫人会会長、東京真宗人会会長、六華園長として大いに社会慈善事業に努め、教化の行脚は全国台湾満州にまで及びました。
 またそのかたわら文筆にも精進され、和歌はもとより随筆感想文等新聞雑誌あらゆる方面に投稿され、戯曲「洛北の秋」1編を含むこれらを集めて「無憂華」(昭和2年)を出版されました。

 毎年年末、救済事業として「巡回病院」の要に当たっておられました。昭和2年の暮れ、風邪をしいて働いたため、初め喉を患い、昭和3年1月より青山磯部病院に入院、のち敗血症となり、2月7日亡くなられました。42歳でした。
 没後の昭和5年、夫人の「無憂華」の印税を基金に充てて、慈善病院あそか病院が本所区猿江裏町に建てられました。現在も「あそか病院」としてその任にあたっています。
あそか病院ホームページ http://www.asoka-hp.or.jp/index.html


 

 ひとつ上に戻る

 Up one directory

  • 内容責任:POSTEIOS研究会
  • お問い合わせかこちらへ => Email