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「臓器の移植に関する法律」について
 世論の構築もなされず、あれよあれよという間に採決されてしまった。ただし、この法律では付則の第2条で、施行後3年を目途として検討を加えることをうたっている。したがって、3年の間で臓器移植に関する世論の動向によって、大幅な修正が加えられる可能性があることを私たちは、銘記しておかなければならない。 これからでも遅くはない。仏教の立場から、多くの意見を出していくべきである。



「脳死による臓器移植は、
本当に人道的な医療か?」



臓器移植
 
  『金光明経』というお経に、飢えた虎を救うために、崖の上から身を投じるというお話があります(捨身飼虎)。他の生き物を救うために、我が身を犠牲にするということは、最もすぐれた布施であり尊いものであると説かれています。このお話は、法隆寺の玉虫の厨子の絵柄で有名ですのでご存じの方も多いことと思います。 臓器移植のことが話題になりますと、私はいつもこの話を思い出します。 先の国会で、臓器移植法案が可決されました。日本における臓器移植医療にとりまして、大きく道が開けたということができます。 現在では、移植医療を受けるためにわざわざ外国に行くということをよく聞きます。しかし、適合する臓器とめぐり合うことは非常に難しく、移植医療の盛んな国でも提供される臓器が現れるのを待っているひとが大勢いるのだそうです。そこに金持ちの日本人が行ってその国の人を差し置いて手術を受けるということに問題はないのでしょうか。まして日本では、「脳死はひとの死である」との考え方は社会に認知されていないのです。 「脳死はひとの死である」という考え方は、臓器移植という医療が成り立ちうることにより、始めてでてきた問 題です。脳の機能が停止し、このままでは間違いなく数時間後には心臓も停止すると判断されるときが脳死の状態なのだそうです。この時点では心臓は動いています。そして、脳死が認定されれば、死者の臓器を他の人の治療に生かすことができるというのです。そして、移植される臓器は、心臓だけではありません。脳死者の臓器により、複数のひとが高度の医療を受けることができるのだそうです。 心臓や腎臓の病で苦しんでいる子どもたちが大勢います。その人達の苦しみが少しでも和らげばと思います。そのことを思うと、臓器移植に賛成したい気持ちになります。仏教では、すべての存在は、たまたま、あらゆる条件がよりあつまって仮に成り立っているのだ(五蘊仮和合)と考えます。いのち終わったときに、それが新たに他のものとして生かせるのなら良いことであるとも考えられます。





本当に人道的医療なのか?
 
  しかし、まだ、多くの人が脳死を人の死とすることに疑問を感じています。臓器提供という人道的な目的があったとしても、人為的に人の死を早めることは自然の摂理に反するものがあると感じているからだと思います。 臓器移植を受けた方の話や、移植医の方々の話を聞きますと、外国では、今までの医療では治ることのなかった患者の方々が救われていくのだということが強調されています。そして、多くの患者や家族たちが、臓器移植ができるようになることを心待ちにしていることが紹介されます。それが何で日本ではできないのか、多くの不治の病を得ている人々を救うという人道的な見地から、一刻も早く臓器移植法案を可決してほしいと主張されています。「ここに患者がいる。臓器移植をすれば治る。それを何故認めないのか」と言われれば、それを認めなければ人非人になってしまいます。そこで、人道的ということが強調されます。 しかし、本当に人道的なのでしょうか。小川一乗大谷大学教授は、 「脳死による移植医療は、だれかの死を待つ医療である。これは、正当な医療といえるのか。生命尊重なら、何でも許される、とはならない。いま一度、人間が助 かるとは、どういうことかを考える必要がある」と、述べておられます。国会においても、適合する臓器の持ち主の死を待ち望む医療が、本当に人道的なのか、もう一度考えてほしいと思います。





信頼できる人工臓器の開発を望む

 臓器提供者のことを医学用語でドナーと言います。そして、提供を受ける患者をレシピエントと言います。今回の参議院での修正案は、脳死判定の条件の厳しいことから、これではドナーが本当に現れるかどうか疑問との声がでてきています。私は、「ドナー」という言葉が嫌いです。臓器提供者の体を、「ドナー」という言葉を使用することにより、もの扱いにしているように聞こえてくるからです。この言葉は、医師の立場からは、必要な事かもしれませんが、私たちは安易に使用すべきではないような気がしています。 私には、脳死による臓器移植が人道的な医療であるとは思えません。ただ、現在では、その医療により人が救われることも事実です。臓器移植を認めるためには、少なくとも、医療者と国会が、脳死による臓器移植は、信頼できる人工臓器の開発までの過渡的な医療であるという姿勢を持つことが必要だと思います。 脳死による臓器移植の医療は、ひとの死によって成り立つ医療です。患者も医師も、人の死を期待し、できるだけ新鮮な臓器の出現を待たなければならないのです。それが、精神的に、人間としての正常なあり方であるとは思えません。人工臓器の 開発を急ぎ、臓器移植のための「脳死はひとの死」とする論議が医療の発展過程の過渡的なできごととしてあったのだと話せる時が、早くきてほしいと思います。
(小林泰善)

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