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 新ガイドライン関連法案に反対する
  「宗教者による国会包囲行動」

by 本多 静芳    




  日本キリスト教協議会(NCC)から、「宗教者たちから全国のみなさんへ 呼びかけます!!」ということで、来る3月9日(火)3:00〜4:00に「3・9国会包囲行動」のご案内がありました。




  “新ガイドライン関連法案”をめぐって、国会内の動きはますます緊張をましてきました。私たち生命を尊び平和を希求する宗教者たちも、市民を戦争へと巻き込むこの動きを見過ごせません。仏教者とキリスト者が宗派や教派を超えて手をつなぎ呼びかけます!全国の市民のみなさん!国会を平和の声で取り囲みましょう。思い思いの姿で国会を取り囲み、平和を願う声で国会を揺るがしませんか?!」

  
ガイドラインというのは、日米防衛協力の省略であると報道されています。この防衛協力という言葉は、英語では、war manualだそうです。まさに、武力協力とか、攻撃協力とか、戦争協力というような意味をもっているものです。現実的に、日本がアメリカ軍の軍事行動に協力する義務があるという法案です。

  
“ある国家が武力で他国に介入するとき、有無をいわずに協力する”法案に対して、どう考えるかということが問われるにもかかわらず、報道がその点を強調せずに報じていることは問題です。さらには、そのような報道の姿勢に問いもおこさない国民の意識があるということも大きな問題です。

  
武力で問題を解決しようとか、解決ができるという立場にたって論議を進めるまえに、すべきことがあるのではないでしょうか。あるいはそれができないのかもしれません。仏教者の立場から考えますと、「そのような政治的態度を問題にできないような仏教的な生き方とはなんでしょうか」という問いが生まれてきます。

  かつて、仏教教団の教学は、個人のこころの平安を説くというところに閉じ籠もり、武力で問題解決をすることを批判することはおろか、逆に武力に荷担していく立場をとらざるをえませんでした。そのような、いのちを無視し、いのちを足蹴にしていく教学をいまもって信奉することを疑問にも思えない状況があるのではないでしょうか。

  
共に救われるのが、大乗仏教の教えです。私だけがすくわれるのではなく、‘共に’というところに御同朋の社会を目指す姿があります。

  
では攻撃されたらどうするかと発想します。当然、我が身がかわいいという立場のみに立てばその発想しか生まれません。私もその思いはあります。しかし、攻撃されない、攻撃しないという社会を求めるのが先なのに、そのような被害者的な発想のみで終始して、攻撃をしあわないという発想がこのガイドラインをすすめる人々から、爪のさきほども聞こえてこないというのはなぜなのでしょうか。



  
私にとって初めてのデモの体験は、いまから8年前、湾岸戦争の即時中止を求める宗教者のネットワーク(のちの平和と人権・仏教者ネットワーク)の一員として参加したときでした。「国際情勢について深い理解もなく、社会の問題に対しても明確な思いを持っていない人間が、参加する資格があるのか。このような私が参加すること自体が問題を曖昧にするのではないか」というような非常に消極的態度がありました。しかし、消極的であることは、反対側の意見(つまり、戦争をしようとか、あるいは差別を肯定しようとする側の立場)を黙認、温存助長させ、結果として体制側の思い通りの「人間」を演じてしまっているのだということを学ばせていただきました。

  
つまり、その愚かさに気づくときに、独りよがりの世界に閉じこもって善しとしていたものが、皆共にという広い世界に向けて開かれた‘いのち’と転ぜられたのであります。 当日は、雨の降る寒さ厳しい日であったにもかかわらず、大勢の宗教者が集まりました。デモの体験は、同時代を生きる人々が、そして宗教者が、どんなことを考え、行動しているのかを自分の体験を通して学んでいけることだと思います。その学びは、抽象的な観念の学びとはまったく異なって、お互いの生きる「いのち」を触発し、育ててくれると思います。             

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