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論説 脳死・臓器移植  (上)

あいまいな死に方を超える如来の慈悲
〜自己関心の尺度を超えられない私へのはたらき〜

                    by 本多 静芳    


 仏教の慈悲と人間の愛執

 
慈悲という言葉をご存知ですか。さとりを開いた仏さまの二つの徳性の一つです。その二つとは、智慧と慈悲といいます。一つは、事実・真実をありのままに見届ける智慧であり、もう一つは、迷いの生き方をするものへの積極的な関わり方である慈悲です。「お代官さま、どうか、お慈悲を」という使われ方をしますが、これでは、世俗権威の上下関係の中で展開される特権的な力になってしまい、仏教の慈悲とはまったく別のものになってしまいます。

 
迷いの人間(凡夫)は、自分自身をこれでよかったと安心することができず、そして相手の立場に立つことができないと、比較して相手を見下して安心したり及ばないと卑屈になったりします。ですから、自分の立場を善として、社会的弱者の立場に立つこともなく、あるいは、立つことができずに、気づかずに比較して、高いところから「かわいそう」と、見下して相手を傷つけます。もし、自分が反対の立場で、「かわいそう」と言われたら、どんなに悲しいことか分からないのが凡夫である私であり、あなたです。  

 死を超えるものとしての浄土真宗

  
名古屋の同朋大学田代俊孝教授(真宗大谷派住職)は、死に逝く人に対する関わりを、「ちゃんとその仏教、浄土真宗の立場から死をどう超えていくかという原理的なものをきちんともって、そしてそれに基づいて、そういう人たちとの対話をとおしてお互いに死に学び、死の苦しみ、あるいは老いの苦しみを超えていくということをしていかなければならないわけですね」(『続・悲しみからの仏教入門』法藏館刊一六〇〇円・一四二頁)と語っておられます。つまり、生老病死という、「思い通り」にならない事実と直面し、そのことから共に教えられ、育てられることの重要さを浄土真宗の教えを通してわがこととして見つめておられるのでしょう。

 臓器移植は慈悲か?
  過日、産経新聞の夕刊「宗教こころ」欄に、評論家米沢慧氏が「親鸞なら臓器移植を否定しない、肯定する。そう思います」という記事(3月11日付)がでていました。氏は、1942年島根生まれで、早大卒、著書に『都市の貌』『事件としての住居』『ビートたけし』、共著に『こども』『消費資本主義』『ファミリィ・トライアングル』。看護・医療・生命を考える自主ゼミや高齢化社会の家族像を模索するとありました。仏教の専門家でない人が、親鸞の言葉に深い興味をもっているということに、とても関心をもちました。しかし、はたしてそう言えるのでしょうか。

 これはよく指摘されることですが、親鸞聖人のお言葉を覚如上人(親鸞さまの曾孫)がお書きになったものに『改邪抄』というものがあります。その中に、

 
「某  親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」

という言葉があります。親鸞聖人が「某 閉眼せば」つまり、私が死んだら、その亡骸を賀茂河に捨てて魚にやって下さいと言う言葉です。どうも、全体の中の一部分を人々は引用して、「親鸞聖人はえらい方だ、自分が死んだらその自分の亡骸を魚に与えよと言った。まったくそれこそ、その臓器提供についての鏡みたいな人だ」、だから、「浄土真宗の者は親鸞聖人のその精神をもっと学んで自分の体を、臓器が欲しい人があったらやるべきだ」という意見が多いのです。

 一部分だけを引用すると、そのような気持ちになりがちです。しかし、『改邪抄』には続きがあります。

「これすなわち、この肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらわしましますゆえなり。これをもって思うに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。最も停止すべし」

  すなわち親鸞聖人は布施の精神で賀茂河の魚に遺体をやると言ったのではないのです。「この肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべき」というのは、死んだ後に葬式で、死体・亡骸を神秘的な礼拝の対象として絶対のものとするのではないということです。そして、信心、すなわちアミダ如来の願いかけを身を以てうなずいていくことを一大事としなさいということを言っているのです。つまり、葬儀という人間の死という厳しい現実の姿を通して、真実の教え、仏法に目覚めていくことが大事だといわれているのです。死体・亡骸を祈るのでもなく、また、とらわれるのでもないというのです。身近な人の死という「思い通りにならないこと」を通してアミダ如来の本願をうなずいていきなさい、信心をいただきなさいというのです。だから、「喪葬を一大事とすべきにあらず」というのです。つまり、布施の精神で臓器移植をしろと言ったのでないことは明白です。


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