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論説 脳死・臓器移植  (中)

あいまいな死に方を超える如来の慈悲
〜自己関心の尺度を超えられない私へのはたらき〜

                    by 本多 静芳    


 臓器移植は布施行になるという誤解

 親鸞聖人のお言葉である『歎異抄』の第四条に慈悲についての一段があります。

「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」

 
もし、聖道の道を歩む聖者がたが、聖道の布施行として臓器移植を行うということなら非常に尊いことです。しかし、布施とは、「三輪清浄」といい、布施する側、受ける側、布施物そのものの三つの要件が清浄で、「空」であり、執着を離れていなければならないのです。自我の延命のために「臓器を下さい」と言って、自分の命だけを考え求めたり、蘇生する可能性は低いからもう死んだも同然だと法制度を調え臓器を要求したり、お金を払って人の臓器を売買しても良いのだと考えて移植するなら、聖道のいう布施行にはならないのです。
 
しかし、聖者の側で成り立つかもしれませんが、考えなければならないのは凡夫である貰う側のあり方でしょう。なぜ親鸞聖人が、聖道の慈悲は「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」というのでしょうか。それは実は貰う側にも問題があるからではないでしょうか。つまり、「いのち」をどのような視点や尺度で見ているかという問題が残っています。

 人間の慈悲の限界

 
物事を分析的に、分けて考えること、いわゆる科学(科に分けて学ぶ)という方法を当たり前と考えていると、一部分が「思い通り」になれば、それが私の全体的な幸せにつながると思わされています。それが模範的な現代人です。だから、胃潰瘍だというと色々な科に分科された病院の胃腸科にいって、胃だけを分析してもらって、潰瘍抑制剤を処方してもらってその部分の潰瘍が治るという状態を貰えば、全体である身体は幸せ(この場合、健康という幸せ)になると思っています。しかし、今日、潰瘍などの慢性病は生活習慣病と呼ばれ、決して胃だけを取り出して治せる病ではないということに、それこそ科学者である医師の立場からも明らかにされています。個別的な疾患の原因を満たせば、全体に結果を及ぼし健全になるという(分科する)科学的発想は、今すでに問われています。胃潰瘍になったら、その身体に関わるところの生活全体を問題にしていく発想が大切です。そして、もう一つ重要なことは、病がないことが幸せなのだという決めつけを超えて、あるがままの自分を引き受けていくところに本当に落ちつく生き方、つまり幸せはあるはずです。
 比較病を超えていく
 しかし、私たちは個別的な自我を満たしてくれる発想を握りしめ、そこから幸せも考えています。たとえば、生きるという総体を細かく分けて、偏差値だとか、大学のレベルとか、就職した省庁会社の職業とか、その肩書きとか、健康状態とか、家(車、その他)の大きさとか、何を着ているとか、都会への近さとか、名士の姻戚関係とか、「うちは何代続いた名家だ、名門だ」「私は誰の子供だ、連れ合いだ、知り合いだ」という権威にしがみつくとか、何歳生きたとか、死にざまとか、様々なものに尺度をつけて、その達成度合いによって、その人の全体の充実度である幸せを決めつけられるかのように思いこまされています。もう、ここまでいえばあとは少々くどくなるだけですが、確認させていただきましょう。人生のほんの一部分の価値観である偏差値が高いことが人生の総体を幸福にすることでしょうか、人生の一部分である出身大学で幸せが決定的に確定しますか、いちいち全てを確認しませんがおよそこういう発想がナンセンスですね。また逆に、病は必ず不幸でしょうか、癌になって自分のいのちが限りあることに気づかせて頂けたと言って、深いいのちを生きられた方々がなぜ不幸といえるでしょう。長寿がいつも幸福でしょうか、若死には不幸でしょうか。もう、言わずと知れたことです。問題は、私たちのものを見る尺度が、与えられた常識というものに縛られ、それを絶対のものと思いこみ、それに振り回されているに過ぎないのです。
 
仏教では、この世のあり方は全て相対的なものに過ぎないのだと教えてくれ、私たちがこれこそ幸せになれる尺度だとしがみついているものの見方が、かえって自分自身を苦しめ、辛くさせていることを教えてくれるのです。つまり、世間の幸せの求め方は、物事を分科し、その中で他者との比較で、もっと多く、もっと強くと飽くことなく欲を作り続けていくのです。こうした、比較病を超えるのが如来のお慈悲です。


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