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「X−japan」 hideさんの1周忌
  去る5月2日は元「X JAPAN」のhideさんの1周忌だった。葬儀が行われた築地別院には、この1年絶えることなくhideさんを偲んで若者たちが足を運び、築地別院の東京ビハーラが用意した大学ノートに思い思いのことを書きつづってきた。その数は38冊にもなった。
 このことは、マスコミでも取り上げられ、報道されてきた。

「死の衝撃を訴える感情的な内容が目立った当初から、より冷静になって自分自身の悩みや決意をうち明ける『告白』へ変化してきた(朝日'99.3.3東京版)」

「ノートは、ヒデさんの死を若者たちが、どう受け止め、心の中でどう消化していったかをうかがえる内容(産経'99.5.1)」

 2日には、若者の思いを受けとめる意味で築地別院で献花台などを設けた。当日は、千数百人の若者が訪れたそうである。
この1年を通じて、築地別院(主に東京ビハーラ)の、訪れる若者に対しての対応は、その思いを受け止めることに徹し、過度にならず静かで妥当な対応であった。

宗門の中には、築地別院に多くの若者が集まることから、その事実について過大な評価をする傾向もあるようである。本願寺派の僧侶の多くが、そのことに強い関心を持っていることからもうかがわれる。かく言う私もその一人である。
しかし、ここで我が足元を振り返ってみる必要があると思う。

集まってくる若者の気持ちを受けとめることは大切である。しかし、hideさんだけを特別扱いするということはどうだろうか。なぜなら、築地別院で葬儀をした人はたくさんいるわけで、有名無名に限らず、みんな同じである。
また、hideさんはいわゆるカリスマ性をもったひとだったのだろう。評価のしかたによってはそのカリスマ性に同調することになっていきはしないか、極論を言えば、hideさん教になってはいないだろうか。

築地別院はたまたまhideさんの葬儀の会場になっただけである。ビハーラの方々は、ただ単にそこに足を運ぶ若者の気持ちを受けとめたいと思ってされたこと、ノートの設置などは評価されるべきで、とても大切なことであったと思う。
けれども、そのとらえ方において一歩間違えるとおかしなものになりかねないのである。
おそらく来年の3回忌も同じように若者が訪れるだろう。築地別院の境内でhideさんの死を通していのちの大切さを考えていってほしい。
今までと同じように静かに迎えてあげたいと思う。

                    宮本 義宣
 
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