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論説 脳死・臓器移植 (下)
あいまいな死に方を超える如来の慈悲 〜自己関心の尺度を超えられない私へのはたらき〜 by 本多 静芳 |
我欲の尺度「我尺」 |
私たちはさまざまな尺度でモノを測っています。だから、いのちも長短という尺度で測ります。百まで、生きたら素晴らしい。きっとあの人は満足した人生だろうと我々は自分の尺度で憶測しています。 いのちを長い短いという尺度で測り長ければ長いほど幸せである。そこから生はよいこと、死は駄目なこと、若いのはよい、老いは駄目という尺度で決めつけるのです。だから長いいのちがいいということから、延命という事にこだわるのです。延命が死の不安の解決なのだと思いこんでいますが本当にそうかどうか、ということです。よく、考えてみて下さい。 富山県宇奈月温泉に浄土真宗本願寺派善巧寺の前住職、雪山隆弘さんという方がいらっしゃいました。癌で五十年という人生を閉じられ、お浄土にかえっていかれました。雪山住職も、もちろん自我の尺度をお持ちだったと思います。しかし、本願念仏にこの世で出遇い、自我の尺度を超えたいのちの見方を頂いて、お出遇いになったご家族や人々に「あえて、よかったね」と人生をよろこんで結ばれています。 『癌告知のあとで』の著者、北海道の坊守さん鈴木章子さんは四十六歳で亡くなりました。しかし、その本の中で「安心」「満足」と言っています。 また四十一歳で癌で亡くなった平野恵子さんという坊守さんが、「由紀乃ちゃん、私の四十年という人生が真に豊かで幸福な人生だったと言い切れるのは、まったく由紀乃ちゃんあなたのおかげです」(由紀乃ちゃんは、先天的な障害を持っています)といわれています。四十一歳で亡くなる人が真に豊かで幸福な人生といっております。また、黒田英之さんは、その著『癌になってよかった いのちかがやけ』で、題の通り「癌になってよかった」という人生を送られました。 我々は「いのち」を自我が作り上げた尺度で長い短いと執らわれて見ています。そして、長ければ長いほどいいと、決めつけています。 ところがそれに反して五十歳で亡くなる人が、あるいは四十六歳や四十一歳で亡くなった人が「よかった」「満足だ」「幸福だった」と受け止める世界を示してくれているのです。確かに、凡夫には死ぬまで我尺はなくなりません。しかし、だからこそ如来はそこに我尺を超えた尺度、「あなたはあなたでいいんだよ」という世界を念仏をもって呼びかけてくださるのです。 |
慈悲と満足 |
慈悲をいただくとは、仏教では「抜苦与楽」、苦を抜き、楽を与えるということを意味します。つまり本当の満足ということです。例えば「いのち」を長い短いというモノサシで測っていたら、何歳まで生きても満足はないのです。百五十歳まで生きた人が本当に満足と思っているかどうか分かりません。「私はもう一回臓器移植をして二百歳まで生きるつもりだったのに、百五十で死ぬのは不本意だ」と言って亡くなっていくかもしれません。現にわれわれにとって考えてみれば、かつて人生五十年が、今、人生八十年です。五十年から八十年に三十年延びて、その分、満足を得たかどうか、自我の尺度に執らわれている限り、欲が限り無いわけですから、永遠に満足はないんですよ。何歳まで生きてもそれは満足しないです。だから、延命という形でその不安を超えていこうとしても、それは完全な解決ではないわけです。私が私の都合で、自らと他のいのちに注文をつけずに、共に賜った所与性のいのちとして満足するという世界において皆平等に救われるのです。 一方では、若くても安心満足であり、末期癌で命が思いどおりにならなくともよかったという生き方が恵まれます。しかし、「延命で、長ければ、長い方がいいんだ」というところに立てば立つほど、それは死の瞬間まで苦闘の毎日です。安らげる所はないのです。美しく死ぬのは良くて、汚く死ぬのは駄目だ、と考えて、「美しく死にたい」「上手に死にたい」と思えば思うほど苦しみになります。誰も、悲惨な姿で死にたいと思う人はいません。しかし、「いのち」は「思い通り」にならない「意図せざるもの」です。その思いどおりにならないという、事実が分からないから、自分の手で長くも出来るし、短くも出来ると思い執らわれています。だから、そういう苦悩がおきてくるんです。「いのち」を所有化しているわけです。どうやら考えて見れば、その慈悲を受ける側、貰う側がそのそういうモノサシに執らわれていればいるほど、どこまでいっても満足がないのです。 それに引き替え、仏教の救いというのはどこで満足を得るかということなのです。 |
いのちの道具化 |
考えてみると私たちは、自我の都合を満たしたり、達成するために、いのちそのものを尊ぶのではなく、それを手段や道具として利用しているということが知らされます。親鸞聖人は、他の作り上げたものを自分の思い通りに利用していく、大変、都合のよい世界を天と経典に説かれていることを『教行信証』で引用されています。 その世界を他化自在天といいます。私たちは、自我的意識を満たすために他のいのちを利用しています。だからこそ、食事の時には、合掌して殺生せずには生きていけない自身を悲しむのであり、その生活が無益な殺生に自ずとブレーキをかけているのでしょう。しかし、近代主義がどこまでもそれを進めました。延長する物質と思惟する自我は、そのまま、生きづらい世界を作り続けているのではないでしょうか。 最近、仏教思想家のひろさちやさんが、脳死を「脳殺」と呼んで、意見を展開されています。これも、また改めてご紹介したいと思っています。 |
・参考文献・ 大島 みち子『若きいのちの日記』 清澤 満之『わが信念』寺川俊昭編 文明堂 鈴木 章子『癌告知のあとで』探求社 平野 恵子『子どもたちよ、ありがとう』法藏館 中村 薫『いのちの宗教』法藏館 松扉 哲雄『死すべき身の自覚』法藏館 黒田 英之『癌になってよかった いのちかがやけ』探求社 小川 一乗『慈悲の仏道』法藏館 田代 俊孝『仏教とビハーラ運動 死生学入門』法藏館 雪山 隆弘『ブッド・バイ−みほとけのおそばに−』百華苑 本多 静芳『歎異抄に学ぶ大乗仏教入門』国書刊行会 |
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