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終戦記念日


 8月15日は終戦記念日です。54年目ともなると社会全体の意識は様変わりしてきていることと思います。ただし、戦争をどのような形ででも体験をしてきた個々人にとりましては、戦争に対する評価は別として、底に流れる意識は54年前と変わらないことと思います。
 戦争の記憶が風化していると言われましても、それは、実体験としての記憶を持つ人の比率が減少していることに過ぎません。

 今年は靖国見直し論が浮上してきました。「国のために戦って亡くなった人々を国が祀るのは当然のことである」という考え方が、戦争中の記憶として一気によみがえり法制化されてしまうなどということも考えられないことではありません。8月6日に野中官房長官が靖国神社を特殊法人化にすることを考えるべきとの談話を発表し、数日後に大幅にトーンダウンするということがありました。

 このことは非常に重要な問題を孕んでいると思われます。国が、一宗教法人である靖国神社を解体すると言っているのと同じことなのです。まして、A級戦犯を分祀するとまで言って純然たる宗教行為である「祀る」ということの内容にまで、国が口を出すという発言をしています。
 戦前は、靖国神社を戦死者を祀る施設として国が管理していました。そして、戦死者を英霊として讃え美化することにより、戦争により子を失った母を「靖国の母」と讃えるなど、国の施策により死に至らしめられた人々の関係者の切なさ悲しさを封じ込めてしまいました。
 現在の靖国神社は、国家から離れて神道の儀礼に基づいて戦没者の慰霊を中心に行っている神社です。神社があり、それを信ずる人がいることに誰も異論をはさむことはできません。ただし、首相や閣僚の公式参拝や国家管理ということになると、国が一宗教団体を保護することになり、信教の自由の上からも異論をはさまずにはいられません。
 もし新たに国が管理する戦没者の墓のようなものを造るなら、どの宗教の儀礼によっても参拝できる施設を国が提供する姿勢でなければならないと思います。国のために戦って亡くなった人々を「国が祀る」のではなく「だれもが追悼できる施設を国が提供する」べきであります。祭祀にまで国が関わることは、戦前の国家神道のあり方とまったく変わりません。戦死の美化によって、国家の戦争責任を追求することができなかった戦前の体制に、戻る必要は全くありません。
                            小林泰善



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