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「PKF参加凍結解除の兆候について
〜8月24日付けの自公政策協議におけるPKF凍結解除に関する合意記事に関して〜」


 私たちは、PKFには死が伴うことを忘れてはならないと思います。我々は、安易に死を肯定してはなりません。人それぞれの死に対する受け止め方があるのです。
 
 お国のために死ぬこと・・私たちはかつて死に対する受け止め方を強制された時代を経験しているはずです。
 闇雲に死に対する理解を強制する事は、死の痛みを人間として最低限の共通理解として持ち得ない、それは人間としての痛みを共にする感覚を見失うことではないでしょうか。
 それは、生きていることそのものを尊重することを見失うことです。

 死に対する受け止めは何人も強制してはなりません。また、強制されるものではありません。それぞれが、人生の生き様をかけて受け止めていく事柄なのです。

 今、生きることにのみ人権を考慮し、尊重しているように見せかけ、死を含めた人間の尊重がなされていないのではないでしょうか。
 死そのものを個人が受け止めてゆく、不可侵の尊厳として、考慮しなくてはなりません。

 人権の尊重は、死に対する教育によってなされていかなくてはならないと考えます。人権の尊重を基準とした死に対する教育・宗教学の理解を深めていかなくてはなりません。
 人権の尊重を基準とした死に対する理解は、迷信・俗信からの解放を促し、霊感商法などの悪質な社会現象を解決していく大いなる突破口になると考えます。

 戦争は殺人です。それは、死の強制なのです。死を強制される痛みを、死の受け止め方を強制的に理解させる文化装置によって、無痛化させようとしているのが、最近の靖国神社特殊法人化発言であり、A級戦犯分祀発言ではないでしょうか。
 我々は、死をも含めた人権に対する配慮をしていかなくてはなりません。人間の最低限の共通理解として、死に対する痛みを失ったとき、人類は他の生命への尊重を見失うことでしょう。
 
 憲法9条の精神はかつて、死に対する理解を強制した時代が、我々に残してくれた、平和への遺産なのです。

 靖国神社特殊法人化発言と言い、A級戦犯の方々の分祀発言と言い、死に対する理解の強制が始まろうとしているのではないでしょうか。このことは、PKFでの戦死者(新しい戦死者)をどう国が祀るべきかとのことから急浮上した問題だと考えられます。
国が靖国合祀を免罪符に自衛隊の海外派遣を考えている。国際貢献の名の下で死を強制的に受け止めるとき、対象となる国の文化を尊重することになるのでしょうか。ユーゴのことを考えても否定的にならざるを得ません。一部の集団的自衛権のもと抑圧され、生きることも死ぬことも強制される国が必ず産まれてくることでしょう。
 
 死の強制の文化を放棄した、憲法9条を見失ってはなりません。
                                   成田 智信


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