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東 海 村 臨 界 事 故
東 海 村 臨 界 事 故
東 海 村 臨 界 事 故

東 海 村 臨 界 事 故


  9月30日、午後0時47分頃、「すずらん」の再放送を昼食をとりながら、見ていると東海村で事故があったという速報が画面に入った。頭の中をまさか、大惨事にならないだろうが、と思いながら、ひょっとして、ひょっとするかも知れないという思いもぬぐい去れなかったのも事実だった。

  
その後、用事の合間、ラジオなどから情報を得たが、驚いたのは、夕方近くだったか、野中官房長官の隣で記者会見している科学技術庁の人の顔付きだった。名前を覚えていないが、科学技術庁の人はもう真剣そのもの、口には出せないが大変なことが起こりつつあるという顔つきだったことは、多くの人が見ただろう。今更ながらだが、野中さんという人は、どんな時でもポーカーフェイスだということを改めて確認することでもあった。その点で、TVというマスメディアは捨てがたいものである。どんなに、言葉巧みに語っても、表情は見抜けるのだ。

  
さて、私の友人に「原子力行政を問う宗教者の会」の事務局をしている大谷派の副住職がいる。彼の平素の行動は、当たり前のことだが、いざ、ことが起こると元には戻せないと言う当たり前のことを主張していたのだった。

  
日本の行政レベルでは、原発は安全という認識を通用させている。もっとも、かつてナチスが実施したように嘘も100回繰り返せば真実になる。しかも、民衆には想像もできない全くの大嘘ほど、効果が大きいということを思いだす。

  
日本には、電力法という法律があるが、少し古い資料だが、それによると電力会社は年間7%の利潤が上げられるように決められている。言い換えれば、電力事業はそれに関わる人びとに間違いなく7%の収入が約束された「おいしい」事業である。では、一体だれがその「恩恵」に預かるのか。いわずもがな、そこに保守政党の議員やそこに関わる経済界の動きが見えてくる。現在、多くの人びとが年間1%の金利がつくかどうかが問題になっているのに、原発を支えるある法律は金儲けを一部の人びとに約束するように出来ているのである。

  
地湧社という「いのち」そのものを課題にして出版活動をしている本屋さんがある。そこから、一主婦である甘蔗珠恵子さんが書いた「まだ、まにあうのなら 私の書いた一番長い手紙」というフックレットがある。これはチェルノブイリ原発事故で現地の子供たちがどうなったのか、そして、私たちの食べるものはどうなったのか、等という課題を日本の基準と比較しながら分かりやすく見つめたものである。この本はテープにもなって販売されているので、私は大学の「宗教と文化」の授業で使った。

  
仏教では、知っていて悪いことをするのと、知らずに悪いことをするのでは、どちらが災いが大きいか、という設問があるが、知らずに悪いことをする方が、反省・慚愧が生まれないので災いが大きいと説かれる。まさに、原発問題もしかりである。手元には、広瀬隆さんの「原発がとまった日」ダイヤモンド社や同「危険な話 チェルノブイリと日本の運命」八月書房という本があるが、今、臨界という言葉を体験的に知った今読み返すと、どちらもぞっとする。

  
本願寺派では、総長の名で今回の臨界事故に関して、首相小渕に抗議書(『本願寺新報』で10月10日号に掲載)を送った。まさに、紋切り型であり、心に訴えかける体裁ではないが、仏教教団が原発など社会の問題に「いのち」の視点から切り込んでいくということを十分にアピールするものである。

  
原発の直下で大地震が起きない保証はどこにもない。JCOが、ウランを注いでいるその瞬間、地震は容赦なくやってくるだろう。原発を放置するという生き方は、そのようなことを抱えているということである。
本多 静芳     

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