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「中村元先生、逝く」


  10月10日、中村元先生がお亡くなりになられました。新聞各紙の追悼記事をここに紹介させて頂きます。
                       ポストエイオス第二編集室

朝日新聞('99,10,11)

仏教研究の国際的権威 中村元氏死去

 インド哲学、仏教研究の国際的な権威で、比較思想史などでも幅広い著作活動を続けた、東大名誉教授で文化勲章受章者の中村元(なかむら・はじめ)氏が、10日午前10時45分、急性腎不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。86歳だった。葬儀・告別式は東方研究会葬として、11月6日午後4時から東京都中央区築地3の15の1の築地本願寺で。葬儀委員長は前田専学・東大名誉教授。喪主は妻洛子(らくこ)さん。連絡先は東京都千代田区外神田2の17の2の東方研究会。  松江市生まれ。東大文学部印度哲学梵文(ぼんぶん)学科を卒業。1954年から73年まで同大教授。  研究分野はインド哲学諸派、論理学、ヒンドゥー教に仏教諸思想。さらに宗教と社会や政治の関係から、中国、日本の思想に広がり、死生観や老いの問題でも積極的に発言した。  57年に「初期ヴェーダーンタ哲学史」(岩波書店)で学士院恩賜賞、77年に文化勲章を受けた。大学を退官後、一般人も対象に私塾「東方学院」を開き、研究成果を広く伝えることにも努力した。88年から刊行の全32巻・別巻8巻の「決定版中村元選集」(春秋社)が、今年7月に完結したばかりだった。

 仏教、やさしく語る  10日亡くなった中村元氏は、インド哲学から仏教、死や老いといった現代人が直面する問題にまで幅広い関心を持ち、積極的に発言し続けた。「生きる指針を提示するのも学者の仕事」が持論で、訳書に極力やさしい言葉を使うことでも知られた。  1975年に完結した全3巻の「佛教語大辞典」は、20年かけて書き上げた原稿を預かった出版社が紛失してしまい、再度8年をかけて書き改めた労作だった。黙々と再執筆に取り組む姿勢が、研究者たちの胸を打った。  あくまで在家の立場を守り、特定の教団に肩入れすることはなかった。東大退官後は、各方面からの教授就任の誘いを断り、東京・神田に私塾「東方学院」を設立。宗派や国籍を超えて多くの研究者を育てるとともに、仏教の本質を学ぼうとする会社員や主婦たちにも、わかりやすい言葉で語りかけた。自ら「寺子屋」と呼んだ、ビルの一室で開く講義は評判となり、教室は大阪や名古屋などへも広がった。  「今の大学制度を後生大事に守っていては、本当の学問は育たない」が口癖。専門分化した大学の「縄張り主義」を痛烈に批判し、「学問を人々のために役立てたい。いかに生きるべきか、に悩んでいる人の指針、導きとなるような学問でありたい」と、東方学院での講義に晩年まで精魂を傾けた。  今年7月まで、つえをつき、車いすに乗りながら毎週1回、東方学院に通い続ける姿は、後輩の研究者や一般の受講生たちの励みとなっていた。

 慈悲に満ちた人格者――奈良康明・元駒沢大学学長の話  インドから中国、日本の思想までとてつもなく幅広い分野をち密な論証で押さえ、膨大な著作をなされた。印象深いのは、思想史は単なる文献ではなく、現代まで生きているので、民衆のうめきを聞くものだと強調されたこと。よく仏教の慈悲をおっしゃったが、自身がそれに満ち、晩年の著作にも限りないやさしさがあふれている。不世出の幅広い偉大な人格者です。

毎日新聞('99,10,11)

イント哲学研究、文化勲章受章 中村元さん死去

  文化勲章受章者でインド哲学、仏教哲学の世界的研究者である東大名誉教授、中村元(なかむら・はじめ)さんが10日午前10時45分、急性じん不全のため東京都杉並区久我山4の37の15の自宅で死去した。86歳だった。遺志により密葬は近親者のみで行い、東方研究会葬を11月6日午後4時、中央区築地3の15の1の築地本願寺で行う。喪主は妻洛子(らくこ)さん。
  東大印度哲学科卒業後、同大教授。1957年、博士論文「初期ヴェーダーンタ哲学史」で学士院恩賜賞を受賞。68年、「仏教語大辞典」(毎日出版文化賞特別賞)編さんのため東方研究会設立。74年、4万5000語を収録した同書を執念で完成させる。また、自由で開かれた学問を目指し73年、同研究所を母体とした東方学院を始める。サンスクリット、バーリ語など優れた語学力で、古代インド哲学から南アジア思想、仏教など独創的研究を進め、その広い視野から、比較思想学会を創立。宗教、哲学にとどまらず比較文化、政治経済まで論じた。米スタンフォード大などで客員教授も務めた。
  77年文化勲章受章。初斯の代表作「東洋人の思惟方法」をはじめ「ゴータマ・ブッダ」「原始仏教の思想」などの著作は今年7月に完結した「決定版中村元選集」(全32巻、別巻8)に収録されている。
読売新聞('99,10,11)

インド哲学仏典の口語訳 中村元さん死去 86歳

  インド哲学、仏教学、比較思想史の世界的な権威で、文化勲章受章者である東京大学名誉教授の中村元(なかむら・はじめ)氏が、十日午前十時四十五分、急性じん不全のため、東京都杉並区久我山四の三七の一五の自宅で死去した。八十六歳だった。告別式は、東方研究会葬として、十一月六日午後四時から中央区築地三の一五の一の築地本願寺で。喪主は妻、洛子(らくこ)さん。
  一九一二年、松江市生まれ。旧制一高を経て、東京帝大の印度哲学・梵文学科に進む。ここで、仏教学者の宇井伯寿教授から指導を受ける一方、倫理学の教授だった和辻哲郎の知遇も得る。
  四三年、「初期ヴェーダーンタ哲学史」(五七年に学士院恩賜賞受賞)で文学博士の学位を取得。同年、東京帝大文学部の助教授となり、戦後の五四年に教授、六四年には文学部長に就任した。
  退官した七三年にはインドの思想、言語を主なテーマとした公開講座「東方学院」を東京・神田に開設。 院長として後進の指導に当たるかたわら、比較思想学会の初代会長(のちに名誉会長)や日印文化協会会長などを務めた。執筆活動にも精力的に取り組み、決定版として「中村元選集」(春秋社)全三十二巻、別巻八がこの夏、刊行を終えた。
  七七年に文化勲章、八四年に勲一等瑞宝章を受章。学士院会員。米ハーバード大やニューヨーク州立大の客員教授として海外で教べんを執ったほか、インド・サンスクリット学会の「知識の博士」号や、デリー大から名誉学位を授与されるなど国際的な学者として活躍した。

  主な編著書に、「仏教語大辞典」(三巻、毎日出版文化賞)、「東洋人の思惟方法」「世界思想史」など。
  仏典の平易な口語訳や講演を通じて、一般にもなじみが深く、この七月まで東方研究会に通うなど、学問への情熱は最後まで衰えなかった。

  百年に一人の大天才
 前田専学・東大名誉教授(インド哲学)の話
  「壮大な体系を構築し、百年に一人出るか出ないかの大天才だったと思う。高度な著作だけでなく、一般向けの平易な本も書かれていた。謙虚な人柄で、大学者の片りんを見せない人でもあった」
産経新聞('99,10,11)

インド哲学の権威
文化勲章受賞
中村元氏死去

  インド哲学・思想史研究の世界的権威として知られる、文化勲章受章者で東大名誉教授の中村元(なかむら・はじめ)氏が十日午前十時四十五分、急性腎(じん)不全のため東京都杉並区久我山四ノ三七ノ一五の自宅で死去した。八十六歳だった。松江市出身。葬儀・告別式は十一月六日午後四時から東京都中央区築地三ノ一五ノ一、築地本願寺で、東方研究会葬として行う。喪主は妻、洛子(らくこ)さん。
  最近までテレビの教養番組に出演していたが、夏ごろから体調を崩し、自宅で療養していた。
 昭和十一年、東大文学部印度哲学梵文学科卒。二十九年に東大教授となり、文学部長を経て、四十八年に退官した。東大教授在任中に財団法人「東方研究会」を組織し、退官後、難解な仏教語を現代語に置き換えた約四万五千語収録の「仏教語大辞典」を刊行。その後、研究の自由と開かれた学問を目指して東方学院を始め、院長を務めた。
  卓越した語学力と思索力を持ち、インド、中国などの東洋思想や比較哲学などの幅広い領域で独創的な研究を成し遂げた。三十二年に「初期ヴェーダーンタ哲学史」で学士院恩賜賞。四十九年に紫綬褒章、五十二年に文化勲章を受章した。平成六年には「足利学校」の校長職に就任。昭和天皇崩御の際には、政府の「元号に関する懇談会」委員を務めた。

  人柄素晴らしくファン多かった
 前田専学・東大名誉教授の話
  「先生は二十世紀にすい星のごとく現れた偉大な学者。弟子の一人として非常に大きな影響を受けた。インド哲学だけでなく、中国や韓国など幅広く、深く研究されていた。高度な研究を一般の人にもわかりやすく解説され、人柄も素晴らしくファンも多かった。亡くなられたのは学界の一大損失だ」
日経新聞('99,10,11) 

中村元氏死去
86歳 インド哲学 世界的権威

  インド哲学など東洋思想研究の世界的権威で、文化勲章を受章した東大名誉教授の中村元(なかむら・はじめ)氏が十日午前十時四十五分、急性腎(じん)不全のため東京都杉並区の自宅て死去した。八十六歳だった。連絡先は千代田区外神田二ノ一七ノ二の財団法人東方研究会。告別式は十一月六日午後四時から東京・築地本願寺で同研究会葬として行う。葬儀委員長は前田専学・東大名誉教授。喪主は妻、洛子(らくこ)さん。
  一九三六年、旧東京帝大(現東大)文学部卒。四一年に同大大学院博士課程を修了後、東大教授、文学部長などを歴任。スタンフォード、ハーバードなど米国の各大学で客員教授も務めた。  サンスクリット、チベットなどの言語に精通し、研究分野は古代インド哲学から仏教、論理学と広範囲に及んだ。七〇年に東方研究会を設立。七三年に退官後、東京・神田に私塾「東方学院」を創設し、一般人をも対象に仏教、インド思想を教えた。
  五七年、「初期ヴェーダーンタ哲学史」で学士院恩賜賞を受賞。初期の代表作「東洋人の思惟方法」は英訳され、広く海外でも読まれた。七五年には、四万五千語を収録した三十年越しの労作「仏教語大辞典」を完成させた。
  日本の比較思想研究の開拓者としても知られ、七四年比較思想学会を設立し、初代会長。日印文化協会会長も務め、インドとの交流にも力を尽くした。
  七七年文化勲章。八四年勲一等瑞宝章。八五年五月から日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。

  東洋思想の学問確立
 末木文美士(すえき・ふみひこ)東大教授(仏教学)の話
  天才と努力を併せ持った世界的な学者でした。哲学といえば欧米優位という風潮の中で、東洋独自の優れた思想を学問的に確立した。原始仏教の新鮮な理解とともに「仏教語大辞典」をまとめるというスケールの大きな仕事をなさった。比較思想という新しいジャンルも確立した、偉大な仏教学者でした。

仏教の「和顔愛語」貫く
[評伝]
 仏教に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉がある。なごやかな顔とやわらかい言葉遣いのことで、仏教者としてだれにでもできる布施とされている。とはいえ、それが難しいのが人の世なのだが、中村氏は和顔愛語を生涯貫いた。代表的著作「仏教語大辞典」の原稿が関係者のミスで失われた時でさえ、怒りではなく、翌日からの再執筆でこたえた。その人柄はだれからも慕われ、尊敬された。
 だが、そのやさしさの裏には学問への強い意志と信念とが貫いていたことが、自ら“寺子屋”と呼んで晩年の活動の拠点としていた東方学院の設立にもうかがえた。東大紛争の中、荒れたキャンパスを離れ、国籍も学歴も年齢も問わず、真に学問を目指す人のための研究の場に私財を投じた。その信念に共感する多くの研究者に支えられ、学院は仏教研究の国際的センターの役目も果たしている。
 八〇年に中村氏とともに中国の西安、敦煌(とんこう)などを回った。小柄な身体と老齢にもかかわらず、だれの助けも断り、自分の荷物を持つ姿に、いかなる権威や他の力にも頼らず、自らの道を確固として歩む世界的な碩学(せきがく)の魂を見た思いがした。  (文化部 佐藤豊)

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