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「オウム新法について」


  オウム真理教の話題がまたマスコミを賑わすようになりました。解散させられたはずの団体がいつの間にか、また力を盛り返し、以前と同じような宗教的活動を行っています。

  オウムの施設ができた地域では、転入反対運動や監視活動が行われています。地下鉄サリン事件を含む多くの犯罪を引き起こした団体であり、ましてやそのことを当事者として全く反省していないのですから地域住民の不安は当然のことと思われます。しかし、オウム真理教の中でも犯罪に加担しているのは構成メンバーの中の一部幹部であり、事件の解明がなされるにつれて、ほとんどの信者は実は被害者なのではないかとも言われています。その人々の基本的人権まで奪うことは如何なものだろうかという気もします。

  過日の朝日新聞には、栃木県の浄土真宗本願寺派の住職が集まりそのことを話し合ったということが書かれていました。(記事添付)反対運動をしている地域住民の多くが門徒であるということから、その地区の住職や,門徒である住民の悩みを共有していこうとの思いで会合が開かれたとのことです。もとより簡単に結論の出るような問題ではありませんが、とても大切なことであると思います。

  宗教の仮面をかぶった犯罪集団、その被害者である信者を救済することが国が行うべき急務であるような気がしてなりません。その一人一人の社会復帰まで考えて行かないと、この団体は解散させても必ずまた集合してしまいます。

  今、国会でオウム新法が検討されています。適切な法的措置がなされることを期待します。ただし、厳しい強権発動を伴う法律ですので、時限立法や対象団体の特定など限定的な法律でなければならないと思います。

                               小林泰善
 
探究・記者の目
 「オウム進出」悩む宗教者
     教えを基に冷静さ求める

  近くにオウム真理教の施設が進出してきた関東地方のある町で八月下旬、周辺の浄土真宗本願寺派(西本願寺)寺院の住職八人が寄り合いを開いた。住民が立ち退きを求めて運動をしていることについての意見交換でこんな議論だった。
  「信者が買い物に来ても何も売らないなど、村八分の状態だ。住民登録を受け付けないとか、信者の子どもを学校に入れないとかは、憲法違反にならないか」
  「しかし、サリンをまた作りかねない集団だ。隣り合わせで暮らす身になれば、気持ちはよく分かる」
  「その可能性があるからといって、宗教家が人権無視を放置していいだろうか」

  浄土真宗の強い農村部で、見張り小屋に交代で詰めている檀家の人も多い。右翼団体の街頭宣伝車が走り回って恐怖心をあおり、いまは町中が殺気だっている。話し合える状態ではないが、「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」と教えた親鸞を学ぶ僧侶として、どう考えるべきか、知恵を出し合おう、という相談だった。

  穏やかに、慎重に、といった結論しか出なかった。昨今では寺の意見など聞いてくれまい、との思いも前提にある。しかし、冷静に考える雰囲気はつくっていこう、ということでは一致したという。

  差別問題などに取り組む本願寺派東京教区基幹運動推進委員会で副会長を務める西山公昭さんはこう話した。
  「宗教史を振り返ると、キリスト教にせよ、私たちの浄土真宗にせよ、生まれたころには異端とされて迫害も受けました。いまの言葉なら『カルト』です。東京の築地本願寺の前にある地下鉄築地駅でもサリン被害者が多数出ており、教祖らの犯罪は厳しく問われなくてはならないが、いまの信者については別の問題として考えよう、という空気も生まれています」

  その築地別院の機関誌『築地本願寺新報』九月号の「法に問い、法に聞く」欄に、東京教区相談員の池田行信さんは「自治体とオウム」という文章を書いた。「教祖らの加害責任の検証と、独りよがりな排外主義の転換は不可欠」とした上で述べている。
  《真宗教団の歴史でも、弥陀一仏の信仰に生きる真宗門徒は「諸神諸仏を拝まないなら排除する。いっしょにいたいなら祭りに参加しろ」と地域社会への同化を求められました。その歴史に学ぶ時、他者に対する排除と同化の論理は日本国憲法の精神からほど遠いものになります》

  十日に札幌市で開かれた全国霊感商法対策弁護土連合会の集会でも、この「排除の論理」が懇親の席で話題になっだ。宗教関係の被害者相談に当たっている弁護土や宗教者や父母の集まりで、こんな意見が多かった。
  「オウム真理教という団体と『共存』する必要はない。しかし、村八分は行きすぎであり、怖い感じもする。子どもとか個人とかは受け入れていいのではないか」
  「彼らは新しい拠点をつくると、周囲に目隠しをつくり、内部を隠そうとする。完全な公開性を前提にしなければ、地域の理解は得られなくてもやむを得ない」

  同席した旧約聖書学者の浅見定雄さんも話していた。
  「宗教団体であろうがなかろうが、違法行為には行政が毅然とした態度をとるべきです。しかし、個々の信者へのケアは別の問題。隣組による『鬼畜米英』といった風潮は心配で、『罪を憎みて人を憎まず』という精神も大事にしたい。住民も学校も彼らのことを勉強して、子どもくらいは入学させて世間の常識を学ばせる。そんな対応はできないでしょうか」
  『聖書』にあるイエスの言葉「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書第九章一三)も、親鸞と同じ教えだろう。世間の流れに距離を置くことも、宗教者の大事な役割なのである。

  (菅原伸郎) (朝日新聞 1999.9.18学芸欄)
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