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「自殺について考える」
その4

by 松本智量



  先日、自殺されたご門徒の四十九日法要を勤めました。二十三歳の理工技術系の大学院生、来春には就職が決まっていたのですが、今年の春頃から鬱状態がひどくなり、ご本人も自覚して病院通いをしていたそうです。治療のかいあってか最近は落ち着いていて、自殺した当日も、穏やかに笑顔で出かけたその足で自宅近所のマンションから飛び降りたのでした。以前やはり鬱病で自殺された高齢のご門徒の場合ももう治ったと思われた矢先のことだったことを思いだし、鬱病は治りかけにこそ注意しなければいけないことを再認識しました。
 二十三歳の青年の葬式はご家族だけの列席でした。火葬場での待ち時間、法名の説明などをした後でお母さまに聞かれました。「うちの子は自殺で逝ってしまったのですが、自殺って仏教ではどう考えているんですか?」
 私はこう答えたと記憶しています。
「仏教では他人の行動の善し悪しを評価することはあまりしないんです。死に方の善し悪しも考えていません。仏教では私が、周りの方から受けているものをどれだけ確かに受け止めるかを問題にしているのですね。お念仏のもとに亡くなっていかれた方はその全人生をもって周りの方に影響を残されて、それは亡くなったからといって消えるものではなく、むしろ深く拡がっていくものでしょう。そのはたらきを私たちはよく光に例えているのですが、光はある場合は道しるべであり、ある場合は問いを投げかけるものだと思うんです。亡くなった彼に何もできるわけではありませんが、できるとしたら彼を光と仰ぐことなんじゃないでしょうか」
今振り返ると上っ面をなでているだけの言葉に過ぎませんね。
 しかし、自殺を防止するのに、自殺はしてはいけない、とことさらに主張することには何の意味もないと思います。かつて某新宗教の機関誌に「自殺した者は○○地獄に堕ちている!」という特集記事がありました。明らかに自殺防止を意図したものですが、心底腹が立ちました。
 様々な要因と背景があるものを一口に「自殺」と括って対処(と言うより切り捨て)しようとすることの鈍感さと乱暴さにまず憤りを覚えます。が、それ以前に自殺は悪だという説得やスローガンで自殺をやめる人はそもそも自殺などしません。人が自殺するかしないかは本当に紙一重です。鬱病などの病気が絡んでいたらなおさらです。その上でほんの一歩崖から踏み出す(させる)ことをとどめる方途をあえて探るなら、この社会・世間が可能性のバリエイション(ある種のいいかげんさ)をどれだけ上手に許容していけるかにあるように思います。大上段に構えた話をしているわけではありません。社会や世間は具体的には個人(私)の形としてしか立ち現れることはないのですから。
 冒頭の四十九日の法要では、故人が籍を置いていた研究室の仲間が大勢参ってくれました。お父さまは「こんなにいい友達がいて、なんで死んでしまったのか」と涙しながら次第に談笑も交じりました。帰り際、お母さまは「彼らと話をしながら、息子は幸せな人生を送ったんだなとつくづく思いました。」そして「これからは、あの子を光として暮らしていきます」とおっしゃっていました(それは寺への社交辞令なのでしょうが)。


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