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K先生の死 「〜ある本願寺派布教使の葬儀〜」 |
本願寺の築地別院からほど近い銀座四丁目の交差点に立つと時折思い出す言葉がある。それは、K先生の言葉だ。「これだけ大勢の人がみんな、自分の欲を追いかけている。なんとか、本当の願いに出合ってもらえないものだろうか。」今から、35年位前の言葉だった。 2000年2月21日、曇り空のどこかから雪の舞ってくる中を広島別院で勤められたK先生の合同葬に参列しながら様々な想いが胸の中を駆けめぐった。 K先生は1930(昭和5)年に広島の本願寺派の寺に一人っ子としての生を受け、14歳の夏、被曝され、1960(昭和35)年には東京教区の布教主事となっておられた。 別院の忙しさは昔も変わらなかったが、その頃築地小学校に通っていた私の思いではK先生は起きている間中、仕事をされているような印象だった。鉄道道友会、仏教青年会、スカウト活動など、寝食を忘れ休日もなくという表現がふさわしいと思われる。そうした会合を通して文字通り仏教に、親鸞聖人の教えに生きる喜びと尊さを頂いた方々を全国に大勢残された。僭越ながら、そうして伝わった教えの伝承は、K先生が本願念仏を法話の中で知識として理解させたからではなかろう。先の言葉にうかがえるような身をもって御法(おみのり)を生きる姿が、多くの人を感動させたのだと思う。 東京以外にも、福井別院副輪番、山陰教区教務所長、全日本仏教会国際文化部長、同朋運動本部事務長、ご門主組巡教随行講師、仏婦総連盟講師などを歴任され、東南アジアの国々への訪問も多かった。そして、そのつながりは今も後を継ぐ人びとによって保たれている。 ご家族を中心とした7年にも及ぶ看護のもとに、闘病生活を続けられ浄土に往生された。 葬儀の最後に、娘婿である広島のN住職によって親族を代表しての謝辞があった。先生が倒れ入院生活をさられてから、坊守さまはこの娘婿さんの寺をベースに看病に当たっていた。その謝辞の中で、婿であるN住職はK先生が60を過ぎてから疲れた様子が目立ってきたのでその体を気遣って言わずもがなの言葉を口にしてしまったときのやり取りですがと断ったあとでこう語ってくれた。 「お父さん、もう60を過ぎたのですから、どうか今までのようなご無理をなさらないでください。お父さんのお立場でしたら、例えば、お寺の落慶法要とか、報恩講とか、依頼の内容でお仕事を選んではいかがでしょうか。」と申し上げると、 「婿さん。私は、自分の法話が勝れているとは思わないが、私の法話で少しでもお手伝いできるご縁があれば出かけたいんだ。例えば、住職を亡くして坊守さんが中心 となっているお寺、少しでも法座を活性化したいお寺、交通の不便なお寺、そういうお寺に行って少しでもお役に立てることが私の生き方なんだ。だから、65歳になる までは、私のわがままを聞いてほしい。65になったら、私も仕事を押さえて、今までお世話になった坊守にも労いをしたいし、まとめたかった文章も本にしたいと思っている。だから、65歳までは私のやり方をさせて貰いたい。」と言下におっしゃられたそうです。 私はそのお話しを伺い、どうすれば効率よく仕事ができるかということに関心が向いている私自身を知らされました。そして、銀座の雑踏を歩く人びとを目の前にしたK先生のお姿が浮かんでまいりました。 謝辞の最後に、生前の先生のテープが流れました。 「私は、ご縁に恵まれて親鸞さまの教えに出合うことができた。そして、この度お浄土に往生させて頂く身にさせていただいた歓びは計り知れない。しかし、この後、私がどんな生涯を送るかは全く約束されていない。時によっては、思いもかけないことが起こるのがこの人生であるとお聞かせ頂いている。しかし、私はこのお念仏に出会えたことで悔いなくわがいのちを生きることができます。」 先生に出会えてよかった、そして、そうした出合いが新たな出合いを生み出してくれた。ある人は、「人間は、二度死ぬ。一度は、この肉体が終わるとき。二度目は、誰も思い出すことが無くなったとき。」と語られた。先生の思い出は、私が念仏申すという生活の中で折に触れ、私に思い出され、呼びかけてくれる。 本多 静芳 |
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