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「『宗教的なもの』について」



 元オウム真理教の幹部、井上嘉浩被告に対して6月6日、東京地裁(井上弘通裁判長)は無期懲役の判決を言い渡しました。遺族感情からはとうてい容認できないことは想像できるとはいえ、井上被告が裁判の過程で見せた麻原への対決姿勢をはじめとする態度は、彼の心境の変化を窺わせるものと評価できると思います。

 判決理由の中に次のような一節がありました。
「被告人はとりわけ証拠調べの終盤において、集中的に取り調べた多くの被害者やその遺族らが異口同音に被告人らの犯した行為によって生じた被害の悲惨さ、甚大さや被告人に対する厳しい処罰意見を繰り返すのを目の当たりにして、次第に独りよがりな態度を改めて宗教的なものに逃げ込むことなく、人間として自己の責任に正面から向き合うように努めた」

 ここでの末尾の部分には少し引っかかるものを感じます。すなわち、「宗教的なもの」は「自己の責任」を回避し逃避するための道具として作用する、と言われているわけです。これは決してオウム真理教を特定しているものではありません。

 しかし宗教には様々な相があることは事実ですし、「宗教に逃げ込む」ではなく「宗教的なものに逃げ込む」としたところに裁判官の一つの見識を見る思いもします。

 かつて「『美的』なものほど『美』から遠いものはない」と喝破したのは青山二郎でしたが、それに倣えば「宗教的」なものほど「宗教」から遠いものはないということもたしかに言えるでしょう。その意味で宗教的なものへの批判は宗教者によってこそなされるべきと強く思います。

松本 智量  


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