本願寺派の基幹運動計画では、95年度までは「平和・人権・靖国をは
じめとする社会の問題に取り組み、いのちの尊厳をまもろう」とされてい
た箇所に相当する項目が、96年度から「戦争・ヤスクニの事実に学び、
平和を尊ぶ仏教の精神を身につけよう」「人権・環境をはじめとする社
会の問題に取り組み、いのちの尊厳をまもろう」とされて今日に到って
いる。
ここで「靖国」が「ヤスクニ」へと表記変更がなされたのは、真宗者が
問うているのは一宗教法人である靖国神社ではなく、無意識のうちに宗
教的人格を収奪することを本質とする(内なる靖国も含めた)絶対国家
思想であることを表そうとしたものだろう。このカタカナ化は一宗教法人
を敵対視しているという非難に対してはある程度は有効だったと言えよ
うが、他方でひとつの弊害を生んだことも認めずにはおけない。すなわ
ちヤスクニという表記により、靖国問題を広く習俗の問題にまで拡大し
て捉えることを許してしまい、靖国問題を取り上げている、という形式を
取りながらも実質は本来の、共同体の宗教支配への否という姿勢や、
政治と宗教との緊張関係を見直す作業を避けて、単に一習俗として扱
うことを可能にしてしまったことである。
しかし靖国は一習俗ではありえない。
今年7月19日、自民党の「靖国問題懇談会」が野中広務幹事長を座
長にして発足した。靖国神社に首相や閣僚が公式参拝できる環境整備
に向けて、年内に考えを取り纏める方針だそうだ。野中氏は昨年夏に
も、A級戦犯の分祀をしたい、その上で特殊法人として国立墓地化した
いという発言をし、両案ともに靖国神社自身に強い拒否を表明され、ま
た党内からも「宗教への政治介入」と批判された例がある。それを踏ま
えて発足した懇談会は、靖国神社自体の改変を求めることなく公に取り
込んでいく道を探ることとなろう。これが自公保体制下のことであること
も踏まえると、実質的な国家宗教を志向していくであろうことは想像に
難くない。
靖国ばかりが平和問題ではないのに偏っている、という基幹運動へ
の非難をよく聞く。それに対しては硬直化形式化した言辞しか発せなか
ったかもしれないという反省は必要だろうが、しかし靖国は単なる戦後
処理の問題ではなく今まさに生きている政治課題であり宗教課題であ
る。そして靖国が内包する甘美な宗教的呪縛を問うていくことは決して
過去の戦争だけを問題にするに留まるものではなく、現今の世界へ目
を向けることを可能にする。ヤスクニとして広く問うてきたものを、靖国と
して改めて具体的に問い直す必要を感じずにはいられない。
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