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留学生が献華を拒否



  一ヶ月以上も前の新聞記事が気になりつづけている。中外日報10月14日号で報じられた「留学生が献花を拒否」の件である。加害者も含まれているのに献花はできない、と主張する留学生に対して教区側は当然「全戦没者追悼法要」の意義を説明したことだろう。しかしそれが留学生の誤解及び反発を解くまでに至らなかったのは、記者の指摘する通り、普段の取り組みからうかがえる説得力のなさゆえに違いない。
 万一、教区側が留学生への「配慮」から、法要の意義を十分に説明せずに彼らの言い分を認めたということがあるなら別の問題も惹起する。留学生の発想は「靖国神社にはA級戦犯が祀られているから、公式参拝に反対」という立場に等しいからだ。しかしそれを認めることは、「全戦没者追悼法要」自体の否定に他ならない。
 そもそも、「全戦没者追悼法要」が営まれるようになった端緒は、いわゆる「戦没者法要」が英霊、国に命を捧げた方を讃える意味で営まれがちであった状況に抗って、戦没者の概念を広げ、一般市民も敵兵も、逃亡兵も指揮官も、被害者も加害者も同列に対象とするという極めてラジカルな試みが「全戦没者追悼」ではなかったか。それが趣旨の表現としてはソフトにならざるをえないのは致し方ないとして、主催する側の心根も「みんななかよく」程度の思い以上の何物も持っていないことを留学生には見透かされたということかもしれない。
 基幹運動の重点項目には「戦争・ヤスクニの事実に学び、平和を尊ぶ仏教の精神を身につけよう」と掲げられてある。しかしここでの「戦争」は55年前に終結した戦争以外ではなく、現在も紛争の続くパレスチナやチベットなどへの関心は微塵もないことはいうまでもない。「平和問題といってもヤスクニばっかり」との批判も少なくない。もはや形だけ「全戦没者追悼法要」を営み、「ヤスクニ問題」を学んでいるだけでは、平和構築へのアリバイづくりにさえならないのは確かだろう。


留学生が献華を拒否
●浄土真宗本願寺派安芸教区(中山知見教務所長)基幹運動推進委員会主催による九月三十日の「平和を語る集い・全戦争死没者追悼法要」に、龍谷大学から留学生十二人が招かれた。彼らの出身は中国、韓国、タイ、シンガボール、ウクライナ、アメリカ、オーストラリア。留学生たちは同行事が行なわれた広島別院のほかに、平和公園や原爆資料館を訪れ、門信徒宅にホームステイした▽「全戦争死没者追悼法要」では、勤行に先立って、各組の代表者が献華した。この時、教区側が留学生にも献華の意向を尋ねたが、アジア出身の九人が辞退。結局献華を行なったのは三人にとどまった。なぜ彼らは拒否したのか。中国の留学生の一人は「『全戦争死没者』には私たちの国を侵略し、多くの中国人を殺した後に戦死した人も含まれている。自分がその人々に献華することは納得いかない。原爆や市民の犠牲者ならば、花を供えたいが…」と語っていた▽安芸教区が参拝者に配ったパンフレットには、同法要についてこうある。「さきの戦争では、被害者であると共に加害者でもあった私たちの姿を反省し、深い慚愧のおもいをもって、ここに『仏さまのお心を心とし、お浄土のありようを鏡として』全世界に安芸門徒の平和への願いを行動で示そうとするものであります」。
また、なぜ「全戦争死没者」と銘打っているのかというと「仏さまの私にかけられた願いのなかで戦争という痛ましい歴史を振り返り、犠牲となった全ての「いのち」に思いをよせ、再び戦争への道を歩まないという決意を新たにする」ためだという▽この法要趣旨からすれば、教区側は留学生に「君たちは誤解している」と言わなければならなかったし、何よりもそう言い得るだけの普段の取り組みがない限り、彼らは納得しなかっただろう。「全戦争死没者追悼法要」は、何も安芸教区の“専売特許”ではなく、戦没者を追悼する際に、教団全体が示している姿勢であるはずだ。留学生の献華拒否を機縁に、追悼法要で「全戦争死没者」を内外に掲げる意味について今一度、一考してはどうだろうか。何となく納得してしまいそうな言葉だけに、また危ういとも言えるだろう。
(中外日報 2000.10.14中外雑記「広島」)


 

                               松本 智量
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