10月31日付の『中外日報』に、先の定期宗会の最終日に、海外の開教区で座禅を取り入れているところがあることが問題となり審議がストップし閉会が遅れたことが報じられていました。(参考資料1)
異文化の中で開教する苦労は並大抵ではないことが想像されます。宗門の立法府で教条的にこの問題が取り上げられることは、現場にとっては迷惑なことなのではないかと思います。もし、開教使に浄土真宗のみ教えを布教する熱意が失われてしまっているとするならば問題ですが、何とか真理を伝えたいという熱意があるならば大きな懐を持って育てていく度量が本山にはなければならないのではないでしょうか。(私はあると信じているのですが…)
そのような思いの中で目に留まった記事に、「癒しの行」と題してカトリック神父の話題が読売新聞に報じられていました。禅の公案に似た手法を用いた方法で、教会に人々を招じ入れる布教伝道が紹介されています。異文化の中での布教のまさに逆バージョンです。(参考資料2)
異文化の中で、信ずるところのみ教えを真摯に伝えていく努力を、正当に評価することが大切です。そして本山やお同行の後方からの大きな支援が、努力がなかなか報われなくとも方便(手段)に埋没してしまわない支えとなるのだと思います。
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