最近のニュース・文化 2000/11/16



異 文 化 開 教





 10月31日付の『中外日報』に、先の定期宗会の最終日に、海外の開教区で座禅を取り入れているところがあることが問題となり審議がストップし閉会が遅れたことが報じられていました。(参考資料1)

 異文化の中で開教する苦労は並大抵ではないことが想像されます。宗門の立法府で教条的にこの問題が取り上げられることは、現場にとっては迷惑なことなのではないかと思います。もし、開教使に浄土真宗のみ教えを布教する熱意が失われてしまっているとするならば問題ですが、何とか真理を伝えたいという熱意があるならば大きな懐を持って育てていく度量が本山にはなければならないのではないでしょうか。(私はあると信じているのですが…)

 そのような思いの中で目に留まった記事に、「癒しの行」と題してカトリック神父の話題が読売新聞に報じられていました。禅の公案に似た手法を用いた方法で、教会に人々を招じ入れる布教伝道が紹介されています。異文化の中での布教のまさに逆バージョンです。(参考資料2)

 異文化の中で、信ずるところのみ教えを真摯に伝えていく努力を、正当に評価することが大切です。そして本山やお同行の後方からの大きな支援が、努力がなかなか報われなくとも方便(手段)に埋没してしまわない支えとなるのだと思います。


小林 泰善  

(参考資料1)
「坐禅」で閉会遅れる

●本願寺派 十九日から開かれていた第二百六十回定期宗会(武野以徳議長)は二十六日、蓮総局が今宗会に上程した平成十一年度宗派歳計決算報告など三十三件の財務承認議案、平成十二年度宗派歳計予算追加案など四件の財務議決議案、宗会議員選挙規程の一部を変更する宗則案など六件の法規議案、そして「福祉共済年金制度の運用にかかる専門企業について宗会の同意を求める件」の同意案件一件のすべてを可決、承認同意して閉幕した。しかし、北山別院の墓地造成問題(「北山問題」)の関係者の責任問題をめぐり冒頭から丸一日にわたって議会が空転するという異例の幕開けとなった今定宗は、議案採決に先立つ財務特別委員会の菅義成委員長の報告をめぐって再び混乱、当初は「二十六日午前中」と目されていた閉会が午後六時すぎにずれ込むなど、最後まで波乱含みの展開となった。平成十一年度海外開教振興基金歳計決算報告を審議した財務特別委員会で、委員から「海外では、坐禅を取り人れている仏教会もあるとのことであるが、こうした問題の対応はなされているのか」との質問が出て、総局は「国内外ともに広い意味で検討してゆきたい」と答弁、菅委員長がその趣旨を報告した。これに関して北條成之議員が「そのような現状があるのかどうか。もし、あるのならばどのような対応がなされているのか」と質間「調査する」等との総局の答弁に対し、同議員は「なぜ総局として現状を把握していないのか」等と追及、菅委員長、総局の双方から明解な答弁が得られない、として審議がストップした。海外開教区、特に北米開教区(渡邊博文開教総長)で、坐禅、瞑想を外国人の信徒を獲得する方便として取り入れている開教使もおり、「一つの方便として認めるべき」と支持する意見もあるが、こうしたやり方に不満を抱く開教使らからは「方便とは言いながら、坐禅しかやっていない人もいる。そうなると北米開教区はやがて浄土真宗ではなくなってしまうのではないか」との批判も聞かれる。この問題に対する宗派の公式見解は示されていないが、北條議員は「もしそういうことを方便として認めてゆけばやがでは海外の浄土真宗はどうなるのか。ご法義まで無くなってしまうのではないか」と危惧、「広い意味での検討」等という“玉虫色”の総局の見解には強い不満を示していた。この後、議事運営委員会(山田智之委員長)、財務特別委員会を断続的に開催、午後六時前にようやく本会議が再開され、菅委員長が「総局答弁の真意は、海外開教の重要性を踏まえた種々の方策を検討すべきだとは思いますが、それはあくまでも浄土真宗の教義に則って、この趣旨を踏み外すことなく進めるということでありました」と前回の報告の内容を修正、了承を得た。かつて、海外の四開教区の各開教総長らが宗会で現状報告を行なったことがあったが、ある宗会議員は「今日のような国際化時代に『海外は独立採算だから』と放任していて良いのか。互いの信頼関係を保ちつつ宗派の一員として押さえるべきところは押さえてゆくべき。そのためには海外の現状を我々も知る必要がある。開教総長報告など積極的に海外開教区の情報を知る方策を講ずるべきだ」と語っていた。
(中外日報 2000.10.31)


(参考資料2)
ルポ 癒しの行
黙想
希望増す”心の雨宿り”
イエスの言葉自由に想像

 〈疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう〉
 手渡された紙片には、マタイ福音書の一説が書かれていた。東京・四谷のイグナチオ教会マリア聖堂。午後六時四十五分には約五十人の参加者が着席し、指導者のドイツ人カトリック神父、クラウス・リーゼンフーバーさん(62)もネクタイ姿で座っていた。
 始まりは、数分間オルガン演奏を聴くことだった。心を落ち着かせるためだという。続いてリーゼンフーバーさんが立ち上がって語った言葉は「出発点は、ほっとすることです。仕事や人生の疲れをとってみて下さい」。
 五分間の黙想が始まる。決められた姿勢はない。ただ意識を内面に向ける。楽な姿勢のためか、すぐに落ち着きが得られた。
 しかし、やがて気付いたことがあった。それは、たった五分間でさえ、自分を見つめることをしない普段の私自身の存在だった。日ごろ、私はいかに騒音にまみれ、せわしなく生きていることか・・・。小さなことだが、新鮮な発見だった。

 そして本題の黙想である。紙に書かれたマタイ福音書〈天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う〉(十三章)
 このイエスの言葉を一つ一つ丹念にたどりながら、意識を働かせて自由に連想してみて欲しいという。ここに〈無心〉を旨とする座禅との違いを感じるが、日ごろ鍛錬していない者には、むしろ取っつきやすい。
 しかも、指導者が方向付けをしてくれる。「畑からは日々の生活一が、真珠を買うことからは『珍らしい出来事』ということが連想できます。また畑の宝は『偶然』得られたものなのに対し、真珠は『探し求めて』得たものですね」
 さて、私にとって「宝」「真珠」とは何だろう――。さらに十五分間の黙想が始まった。
 キリスト教には中世以来、罪の浄化、聖霊による照明を経て、神との一致に至る瞑想の伝統がある。キリストの一生を想像してたどり、生きる道を発見していく『霊操』などの修行方法もよく知られている。
 その伝統を思い出しながらも、この場では自由に想像し、てみることにした。家族や仕事、出会った人々人生の様々な場面から、「宝」を探すのだ。
 だが、簡単には決めつけられない。しかも、「持ち物をすっかり売り払って」まで得たい宝など、容易に見つかるはずもない。しばらく考えていたが、無理に結論づけることを断念してしまった。
 それでも、真に大切な宝は、、日常でも非日常でも、また偶然によっても探求によっても得られるのではないか――という感覚は持つことができた。終わった時、いくらか希望が増し、温かな気分にもなっていた。

 「イメージはあまり浮かびませんでした」とリーゼンフーバーさんに打ち明けると、こんな返事をいただいた。「結論は出なくてもいいのです。まずは静けさを味わうこと。数回参加してみると、何か得られると思いますよ」
 この黙想会は、礼拝でも宗教の勉強会でもない。信仰心を問われることもない。ちょっとした”心の雨宿り”という印象だった。
 しかし後日、ふと我に返ると、無意識のうちに「真の心の宝は何だろう」と問う自分がいたのである。
                                                              (植田 滋記者)
2000.11.07.読売朝刊三十七面

メモ
聖イグナチオ教会へは、JR・地下鉄四ッ谷駅から徒歩1分。
毎月第2、第4火曜日の午後6時45分から8時まで。
キリスト教の非信者も参加しやすいように、祭服などの宗教色は拝し、
神という言葉も使わないようにしている。
テーマは毎回異なる。申し込みは不要で、途中入退室も自由。無料。
リーゼンフーバーさんは30年間、曹洞宗系の座禅も実践しており、
週2回、一般向けの座禅会も開いている。



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