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宗教教育の必要性





   2001年2月12日(月)読売新聞に武蔵野女子学院高校の教諭、艸香先生の記事が紹介されていました。

   記事の中にもありますが、今、宗教教育が注目されています。

   また、実際にご門徒の皆さんからも、日常生活の中で仏教が伝わらないから、私立・公立を問わずに小中学校から学校での宗教教育が必要ですよね、と住職でもある私に同意を求められます。

   確かに、人間が生きていく以上、「宗教」と無関係に生きられませんし、人間は宗教的存在ですからそれを知ることが重要なことであることは事実です。むろん、ここでいう宗教は、日本人がいう「私は無宗教です」という表現の背景にあるとても深いものを考えています。

   しかしながら、それを学校教育の中に求めるという姿勢、あるいはそのような発想を生み出す社会的な構造をむしろ問題とすべきではないかなと考えています。

   つまり、「学校教育の中に宗教を」と声高に叫べば叫ぶほど、宗教は家庭や地域社会から、さらに離れたものになっていくのではないかという危惧を持つからです。

   その理由は以下の通りです。近代性という表現で簡単にステレオタイプに論じることは勿論できませんが、例えば、合理性とか、経済性という名を掲げ、それを達成するために日本の敗戦後のシステムは「無駄である」ものを、排除してきました。

   効率性の低いものは二の次になりました。社会全体の効率性を掲げた政治経済態勢は、モーレツ社員という言葉を作り、その影では家庭の団欒(もうすでに死語!)はなくなりました。


   ある住職は、病院に見舞いに行って、家族が見舞いに来てくれない入院老人たちのつぶやきを聞いてしまい、ふと今日の家庭というのは、健康で、自分のことが自分で出来て、所得を得られる(あるいはその可能性のある)人間の滞在する場になってしまっているのでないだろうかと慄然とされたといいます。

   役に立つものならば、認め、そうでないものは、排除していく。そのような思考、態度に対して危機感を持たないという私たちこそが問われるのではないかと私も自問せざるをえません。

   実は、宗教も、このような社会生活の中では「排除されたもの」として扱われてきたということを実感します。

   しかし、今日様々に歪んだ事件が生まれ、それを課題にしようとするとき、本当は社会構造の中で自分たちの今までの営みをこそ、問わなけらばならないのではないでしょうか。

   ところが、自分たちの営みを問うことなく、問題を自分と離れたところに想定し、その解決のために「そうだ、宗教だって、役に立つのだから、それを使った方がいいではないか」という発想ならば、問題は余計に見えにくくなるばかりです。

   ちょうど、問わなければならないのは、自分の生き方なのに、問題に出会うと、日・方角・名前の善し悪しや水子や先祖のせいにして問題解決の矛先を誤って生きている姿と重ね合わせて見えてしまいます。

   もちろん、だからといって学校における宗教教育の重要さは、本文中にもある井上教授の意見の通り「果たすべき役割」は大きくなっています。でも、これは私たちの効率性のみを求めた営みが大きくさせてしまったのだと言うべきでしょう。

   実際に私も大学の教員として教育の現場で、宗教教育に出会って大きく変わっていく学生と共に過ごすのは喜びでもありますが、表層的に「今こそ学校教育において宗教教育を」と声高に論じる風潮や意見といったものに甘んじることはできないと思っています。


 

本多 静芳    
万行寺住職    
武蔵野女子大学助教授
  






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