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宗教今も学校で教えられる




  4月25日の朝日新聞の夕刊に「宗教今も学校で教えられる」という記事(下記添付)が掲載された。記者は、学校での宗教教育の必要性をとなえ、また、現憲法下でも公立学校で十分に教えることが可能であることを力説する。

 もちろん、公立学校で特定の宗教を教えることは不可ではある。しかし、宗教の歴史、宗教というものが人間にとってどういうものなのか、また、宗教の概念あるいは宗教といわれるものにはどういうものがあるのかを知識として学ぶことは、可能であるし、とても重要なことであると私も思う。

 あるキリスト教系の私立中学高校では、6年間にわたる宗教の時間に、宗教の歴史、文化、民族宗教、キリスト教、仏教、イスラム教、カルトなどを体系立てたプログラムで授業している。このような授業はロシアやEUの諸国などの公立学校でも行われている。

 なぜ必要か。記者の言うとおり日本人が宗教を知らなすぎるからである。その結果、いとも簡単にカルトに引き込まれたり、正しい知識がないが故に間違った発言を平然としても何とも思わないのである。

                 宮本 義宣


    
 記者は考える
   宗教今も学校で教えられる
                菅原伸郎 学芸部

 森喜朗首相は宗教教育に熱心だった。「学校でも宗教を教えるべきだ」と発言し、教育基本法の改正に意欲を見せた。小泉純一郎自民党総裁も同様の考えを示している。念のため、宗教を担当する記者から一言述べておきたい。
 たしかに、日本人は宗教を知らなすぎる。たとえば、森さん自身だ。昨年6月に行われた小渕恵三前首相の葬儀では「あなたは天国に召されていったのです」と呼びかけ、「神の国」発言の擁護に努めていた神道関係者をもがっかりさせた。「天国」はキリスト教用語であり、あの場では諸宗教に配慮して「あの世」とでもいうべきだったろう。
 こうしたことは、法律の欠陥によるものだろうか。確かに、憲法20条には「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とある.しかし、これは宗派教育のことで、宗教一般のことではないだろう。教育基本法9条1項には「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」とあるからだ。
 教育行政も学校現場も、この「尊重しなければならない」の部分を忘れていたか、故意に避けてきたようだ。教育基本法をいじる前に、その意図に沿ってなすべきことがある、と思う。国公立の学校でも、歴史や国語や芸術の授業で、無神論も含めた宗教の世界を「知識」としてしっかり教えたい。消費者教育などを工夫し、カルトや迷信への注意を呼びかけるべきだ。多様化する社会では、宗教的寛容の指導も大切だろう。
 最近、創価学会は宗教教育には反対との態度を取っている。「学校で余計なことを言われたくない」という気持ちだろうが、宗教の歴史や文化やカルト対策も教えなくていい、というのだろうか。
 それにしても、声高に宗教教育を唱える政治家はどこまで本気なのか、とも思う。寺院や神社の団体を通して票がほしいだけではないのか。体制に従順な民を育てたいのではないか。その程度の話であれば、宗教自体を誤解させかねない。宗教の何を教えるか、従来の道徳や倫理の指導では何が足りないか、まず議論してもらいたい。
 単なる「知識」の段階を通り越して、宗教をさらに深く教えることには賛否両論がある。仮に教えるとすれば、つまるところ「自分自身の死や絶望をどう引き受けるか」という話になるが、いまの学校でどこまで可能だろう。
 「死への準備教育とか、黙想とか、学校で工夫できることはあるはずです」と東洋大学の伊藤隆二教授はいう。その道筋は今後の課題だが、もちろん、前提は法律をいじることではない。親も含めた教える側が人生をもっと勉強して、ということだった。






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