6月8日、たまたま移動の車の中で流していたラジオから、次第に増えていく児童の死亡報道を聞いていたときの、ぬらぬらとした怒りと不快と悲しみの交錯した表現しがたい感情は今でも忘れられません。
しかし瞬間的に臨界点を越えたかに見えた世間の事件への関心は、急速に静まって1カ月しかたっていない今、すでに風化してしまったかにも見えます(模倣犯への警戒という形では影響は残っていますが)。大衆の元来の飽きっぽさを指摘することはできるでしょう。また、犯人が精神疾患者ではなく確信犯であったらしいことが報じられるにつれ、あの事件が「明らかな例外」として処理しやすい事例と化したこともあると思います。
でも、この事件の中で、記憶に刻んでおかなければならない点がいくつもあったことは確かです。
中でも記しておきたいことは、精神疾患者の扱いについてです。
この事件の発生当初に繰り返し流された「容疑者は精神科への通院歴があった」という情報にどれだけの意味があるのでしょうか。
精神疾患の代表である鬱病は今や「心の風邪」とも称されるように決して珍しい病気ではなくなりました(近年では「鬱病」「躁鬱病」という名称から「感情障害」という呼び方へと変わってきたようですが)。鬱病には優れた治療薬が開発されています。充分に完治可能な病気です。しかし、「通院歴」を背負うということの重さゆえに精神科の扉をくぐることを躊躇する人のどれだけ多いことか。また、通院歴がある方が今回に代表される報道でどれだけのプレッシャーを受けていることか。精神疾患は一口に括られるものではなく、同じ病名であったとしても症状の隔たりは個々で全く異なるのに。
にもかかわらず「通院歴」の報道を繰り返し、偏見を助長しているのはマスコミの不見識故と言われがちですが、決してそうとばかりも言えません。マスコミの対応は視聴者の反応に忠実に沿ったものと考えた方がいいでしょう。
私の友人に知的障害者の施設を運営している男がいます。彼の施設に、大阪の事件後すぐに警察から電話が入りました。もしも通所している者が姿が見えなくなったことがあればすぐに通報してほしいとのこと。言うまでもなく知的障害と精神障害は全く異なるものです。が、電話をよこした意図の底に児童殺傷事件があったことは電話の調子から明かであったと友人は語っていました。この例など警察の無知を曝した言語道断の例だと思う方もあるでしょう。しかし残念ながらそうではないと申し上げます。私の見聞きするかぎり、この社会はそれほど成熟していません。知的障害も精神障害も、対話の可能性をあらかじめ放棄した、つまり恐怖をもらたすものとしてはまったく同一に扱われがちです。
精神疾患者が偏見を持たれることなく、精神疾患者として十全な治療を受けやすい社会は実は危機管理上も重要なことです。この事件が発生してから、ネット上で数限りない議論がかわされています。その中に自身が現在、精神病を患っている女性のこんな発言がありました。自分の病気に由来する混乱により通勤途中の駅で駅員とトラブルを起こした経験を披露して、「あの時、私の言動から、速やかに警察や専門医療関係に連絡を取ってもらえる環境があればトラブルも最小限になったのに」。駅員に通報を躊躇させたのは、「精神を病んだ人」とレッテルを貼ることによって当人から名誉棄損と訴えられかねないとの恐れが少なからずあったのでしょう。現在の精神疾患者が置かれている位置は、明らかにゆがんでいます。一見、人権が擁護されているようでありながら、治療を受ける権利を剥奪されてしまっています。
また、容疑者の犯行動機にも少しだけ触れさせてください。
今日現在の報道によれば容疑者は死刑になることを目的として、犯行におよんだとのこと。
死刑制度が凶悪犯罪の抑止にはつながらないことは既に認められている事項とは思われますが、死刑制度を利用して自身の人生を精算しようとする発想は、日本ではあまり報告はされていないものの、突飛なことではありません。「他のいのちを奪ってしまったどうしようもない自分」となることで自らのいのちにケリをつけようとする。しかも自分の死に方(殺され方)は静かで、確実というイメージに基づいて。警官に殺されること自体を目的として犯罪を犯す例はすでにアメリカでケース化していますが、それが日本にも出現した(らしい)という事実。現在の死刑制度は「教育刑」でないのはいうまでもありませんが、「応報刑」にすらなっていないということでしょう。加害者が本当に罪を自覚し、罪と向き合えるシステムを構築することの必要が要請されています。
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松本 智量 |
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