私は、素朴な感覚として、この事件(下記新聞記事参照)は、おかしいと思うのです。皆さんはどのように思いますか?私の素朴な感覚を大切にしながらしばらく考えてみたいと思います。
この事件は私にとって、衝撃的でしな事件でした。「死」とは何か・・・「生きる」とは何か・・・。人それぞれに受け取り方は違います。しかし、受け取る個人は、事実として「孤立の人」ではありません。私は忽然と生まれてきたのではないのです。その事実を無視して、比較や関係を断ち切ることによって定義される生命観は生命の一側面しか見ていないと言えます。不断に関係することから、生命の多様性に気づかされ、多様性を知ることによって、一面的な自らの愚かさにも気づかされます。その不断の営みこそ大切でありましょう。「個人の尊重」とは、世間から、超然としながら生きていくことではないと思います。
今回の事件の最大のポイントは、世間に隠して行っていたという点です。関係を遮断することによって、独自の世界を作り上げていたのです。問題なのは、世間が認めれば良いのかという問題ではなく、関係を遮断して作り上げた世界に、お父さんがいたということです。「死」を一方的な断絶と捉えることによって、相手の存在を見つめることができない。自分の感覚のみが拡大して、お父さんを取り込んでしまうのです。そんなとき、お父さんの生命の尊厳は何処で語られるのでしょうか。
人ごとではありません。死生観が孤立化しているのです。「孤立化の尊重」を、「個人の尊厳の尊重」と、はき違えてはなりません。孤立化は、むしろ関係性の遮断を伴うことによって、人間であることの喪失につながるのです。「生」も「死」も関係性(縁起)において語られなくてはなりません。様々な見方が考え方がある中で、どちらが「正しい」とか「間違い」だとかを判定することによって、一方の優位性を認めることが、問題の解決にはなりません。多様な考え方を如何に尊重し関わることが出来るのか。お互いの一面性を認めて、固着化した関係を常に見直し、新しい関係を創造すること。そして、批判すべきは、自己を絶対化し、関係を一方的に遮断する事象そのものです。
この事件は、氷山の一角にすぎないでしょう。だからこそ、人間関係の稀薄化を常に意識し問題に当たると同時に、死生観の多様性を学ばなければなりません。学校教育の場において、宗教教育の必要性をつくづく実感いたしました。
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成田 智信
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参考: 2001年7月17日(火) 12時39分 [時事通信社]
父の遺体、冷凍庫に13年間=電気止められ、異臭で発覚−横浜(時事通信)
横浜市港北区の50代の無職男性が、病死した父親の遺体を自宅の冷凍庫で13年間にわたり保管していたことが17日までに、神奈川県警港北署の調べなどで分かった。近隣住民から「異臭がする」との通報を受け、同署員が男性宅を家宅捜索して発覚したが、同署は「遺体に損傷がないことなどから、死体遺棄事件にはならない」としている。
同署などによると、この男性の父は1988年11月に病死したが、男性は「父の細胞が復活するかもしれない」として火葬を拒否。購入した業務用冷凍庫(幅約2メートル)にドライアイスとともに遺体を入れておいたという。
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