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小泉首相の靖国神社公式参拝を振り返る  〜個人的感想〜 '01.9.14記


 はじめに

 すでにポストエイオスのHP上では、この8月1日から小泉首相の靖国神社公式参拝に関して、四回に亘って浄土真宗の教えに生きる何人かの会員からのコメント、および真宗教団連合、本願寺派、全日本仏教会などの公式見解や首相・閣僚の靖国神社公式参拝中止要請文、そして、篠山市長が戦没者遺族へ公費で線香を配ったことが政教分離に反したと違憲判決の上、全額返還を命令した事件などを掲載しました。
 その中でも、触れられていたように、首相・閣僚の靖国神社公式参拝は、新聞の論評でも閣僚の答弁でも、近隣諸国に配慮するという「政治的な駆け引き」の問題として論じられているだけで、「政教分離」や「信教の自由」を謳った問題、つまり、日本社会の中で、誰がどのような宗教を選び生きても、また、拒否しても、それによってその人の生き方が差別や排除されない人権が保障されるという視点が完全に欠落したものでした。

 なぜ、近隣諸国配慮のみが論点となるのか?

 無論、近隣諸国に配慮するという発言があるときには、そこに公式参拝しようとしている一宗教法人の祭神としてA級戦犯が合祀されているという背景がありますが、現実に近隣諸国に配慮することが論じられる時、そこで考えたり、確認しなければならないはずの信教の問題としての合祀はまるで論じられてはいません。ここには、今日、日本人が自らを「無宗教」といってはばからない(国際的に見ると特異で奇異な)状況が背景にあると思います。
 また、どのような信教を選ぶ自由も、また選ばずに拒否して生きる自由も与えられてあるという「宗教的人格権」も、もともと権利意識が自発的に求められた西欧社会と異なり、日本においては非常に希薄である、というより、ほとんど考えられることもありません。

 日本の宗教状況と私たち

 春秋の彼岸には墓参りし、神棚や仏壇を安置し、盆には渋滞も苦にせず故郷に帰り、初日の出や食前食後には手を合わせる日本人に、(真宗的な意味ではありませんが)宗教感覚がないのではないでしょう。逆に、豊かな宗教心があるのだといわれます。
 しかし、その宗教とは教義や教理を聞いて、自身の毎日の生活を振り返り、教えによって生きていこうとする宗教感覚ではなく、自然発生的に生まれた敬虔感情や何ものかによって生かされている感覚です。
 その意味で、多くの日本人が持っている自然発生的な宗教感情には、教義や教理によって、自己のいのちのさけがたい無常や人生の深淵にある死を見つめていこうとする厳しさや、面倒くささはありません。日常が、今の延長の上にいつまでもありつづけるであろうというような、極めて朴訥な感情が、日本人の宗教感覚にあると思えます。つまり、そこには変革や異質さを嫌ったり、排除したりする意識があります。丁度、自然発生的な宗教感情の中で、恒常的なものをよしとして求め、そうでないものを異質なものとして受け止めた「けがれ」の概念にも通じるように思えます。(この問題は、阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」ちくま新書を参照ください)

 「無宗教(日本人独特の宗教観)」社会ゆえの宗教問題としての靖国問題に対する無関心・寛容

 このように一面からすれば保守的ともいえるほど豊かな宗教感情を持っている日本人ですが、この「無宗教」という宗教性のゆえに、今回の首相・閣僚の靖国神社公式参拝の問題に対して、隣国への配慮は問題にしえても、自分たちの「信教の自由」という問題は一顧だにすることもない、つまり無関心であり、状況を容認するということになります。
 実際に、首相がどのように弁明・弁解しようとも、一国の首相がある特定の宗教施設に参拝することは、人々の無関心さによる容認という消極的な表現にとどまることなく、多くの人に多大の影響を与えました。今年の8月15日の靖国神社への一般参拝は、例年の正月のそれの二倍の人数が数えられたのです。
 しかし、日本の社会の中には、自然発生的な宗教に無自覚に甘んじたりしない宗教や、それを容認することを教義的には罪であると説く宗教を信奉している人が一緒に暮らしています。そういう人にとっては、首相や天皇など日本社会に大きな影響を持つ人が靖国神社公式参拝をするから、一般の日本人も靖国神社に参拝するのは常識だという風潮が生まれたら、とても生活しづらいことです。
 このことは、無宗教を標榜する多くの日本人には分かりづらいことかもしれません。
 実際に靖国神社で行われている合祀という宗教行為は、こういうことです。靖国神社の信徒でもない人が、国家による間違った戦闘による問題解決の手段として殺され、しかも遺族の意志などはまったく無視して、国家の作った宗教施設である靖国の論理で勝手に神様として祭られているのです。(現実に、自覚的な真宗門徒の中には、靖国神社に合祀から取り下げを申し込んでも、神社側はそれを認めようとせず勝手に祭神として祭っているのです。また、似たような裁判として自衛隊で殉職した夫を国と自衛隊が勝手に地方の護国神社の祭神として祭っていることに対して、自分の宗教的信条からどうしても耐えられず合祀取り下げを訴えたキリスト教徒の妻の裁判もあります)
 こうした事実をどう受け止めるかは、それぞれの関心によって異なるように、この首相・閣僚の靖国神社公式参拝問題の論じ方が異なるということが、まさにこの問題に対する日本人の日頃の宗教的な関心の度合いの差や意識の違いというものを知らせてくれているということです。
 と同時に、こうした自然発生的な宗教とは対極にある宗教の一つである本願念仏の教えに生き、その喜びをもとに人々と共に生きたいという私たち真宗念仏者の生き方を問うものだと思います。

 戦争によって振り回される人間、しかし、素地があるからこそ洗脳される

 何度も論じられたように、敗戦後の日本国憲法には、戦時中に国家神道という「宗教」によって、本来、宗教とは異質の国民道徳が論じられ(今でも似たような名前と思考方法が、検定教科書などの領域にも跋扈しようとしています)、そして天皇のために死ぬことが勧められました。
 つまり、国家神道による国家主義の高揚が、国民の平和と平等を守るべき国家官僚に暴力的な問題解決の手段である戦争という方法を肯定させ、さらには自国と他国のいのちを無差別に殺戮し、環境を激しく破壊したのでしょう。
 いわゆる宗教によって洗脳させられたという言い方がされるのは、こういうことです。私たちは洗脳というと健全な人間が邪悪な教えによって180度考え方がひっくり返ってしまうことのように考えています。しかし、本当にそうでしょうか。私たちは、もともと健全であって、邪悪な教えによって全く違った人格になるのでしょうか。そういう表現をすることが完全な間違いだとは言えないでしょうが、もともと私たちの中にある自己正当化の意識や、自分だけは正義であり、善人でいられるという思いが前もってあるからこそ、その意識を上手に利用して、人間を思いこみの世界、思いこみの宗教、思いこみの思想に陥らせることが可能なのではないかと私は思います。
 戦時中の国家神道による洗脳とは、教義や教理によって自己の過ちを見つめるという宗教の方向に歩みを進めることを拒否させ、逆に人間の自己正当化の意識や善人意識を利用して無差別にいのちを殺し、殺させていったのです。
 すでに本HPで論じられたり紹介されたように、真宗の戦中の教学の歴史も悲惨なものでした。戦争を聖戦と位置づけたり、また、戦闘行為は菩薩の行いであると言って、自らの罪業性を問う方向ではなく、まったく逆に、国是という国家主義的なあり方で人間の自己正当化を容認するものとなったのです。

本多 静芳


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