今日、ある社会人の女性から以下のような質問を受けました。
アメリカで テロ事件が 起こりました!
あくる朝 起きると ことの重大さに 驚きました。
もう この世でないような まるで 地獄を 見ているそんな 感じでした。
ただ テレビを 見て 気がついたことですが テレビに映しだされた中にパレスチナ人が アメリカが あんなひどい ことになっても喜んでいたこと!
歴史があるのにも かかわらず このイスラム教が どうも いい教えではなく 悪い教えだけのような 気がします。
イスラム教って 一体 どんなものなのか
コーランを 破かれてでも 怒り イスラムの大事なもの
自分の命みたいなものと言っているわりには・・・。
どうも わかりません!
中には テロなんて まったく 考えなく 真面目な 熱心な信者も いるのかも知れませんが・・・・・・。
私の返信
ご質問の内容を、「歴史があるのにも かかわらず このイスラム教が どうも いい教えではなく 悪い教えだけのような 気がします」という一点に絞ってお答えします。
真実を説く宗教そのものに、善悪の判断を私が加えることなど、まったくできません。
その信者の姿の中に善なるものが現れることもあれば、その逆もあります。
たとえば、広島に原爆投下を決断したり、イラクに無差別殺傷爆弾を投下する決断をしたキリスト教信者の米国大統領がいても、誰もキリスト教が悪なる教えだといいません。
北山事件を起こし、その公金を横領したであろう本願寺派宗会議員がいても浄土真宗が悪い教えでしょうか。
高校受験の時、誰かが落ちたおかげで、自分が受かったのでよかった、そして、自分が今のポストにつけていい目にあえて、誰かがそれによって恵まれない状況におちいっても悲しまないような本多静芳がいるからと言って浄土真宗が悪いおしえだと言えません。
こういう返事で何かお気づけいただけたでしょうか?
今回の事件で、決定的に私の姿を教えてくれたのは、今気づいたのですが、ご指摘のテレビ報道だったのだと受け止めています。
「テレビに映しだされた中にパレスチナ 人が アメリカが あんなひどいことになっても喜んでいたこと!」という姿に、私の気づかぬエゴイスティックで、自己を正義として正当化する私の姿を教えてくれたのです。
かつて、日本にも同じような状況がありました。
鬼畜米英を殺せ。
多くの敵兵が死んだのも、(日本の民族宗教の)神様のおかげだ。
日本が勝てば、それでいいのだ。
天皇こそ、世界の中心なのだ。
このような、戦中に多くの日本人が当たり前に受け止めた思考がありました。
よく、人はそういう状態を洗脳されたといいますが、洗脳されたにしても、される側にそれを受け入れる地盤がなければ、誰も受け入れないでしょう。
しかし、よくよく考えてみれば、私の中にも、戦時中の人々とまったく同じような、自分の都合のみを優先し、他者の不幸を喜ぶ、根元的な迷いがあるという当たり前のことを確認するだけです。
「正義ぶる」世俗の発想で生きている私の姿は、アメリカの悲劇を見て喜んでいる人々と変わらないものです。
そんな当たり前の自分にまるっきり普段は気づけず、あいつらはけしからんと人を裁き、批判し、見下すことのみは一生懸命な私に、如来というはたらきは、やむことなくはたらきかけてくれているのですね。
ともすれば、犯しがちな発想があります。「世界のすべての人が、仏教や念仏の教えを聞いていたら、こんなことにならなかったろう。」
これも非道く独善的で排他的です。自分の正当性を主張することで、他者を排除し裁いています。
そんな私をどこまでも、支え、受け入れる如来の本願というはたらき。
ただ、ただ、驚くばかりです。
やっぱり親鸞聖人というかたは、世間の常識を守ったり、立派なことをすることで救われるというような教えを説かなかった「ある意味で非常識な方」だったということが、改めて分かります。
また、悪人の救いというのは本当だった(つまり、人を見下し、善人面をしていられる私ほどの悪人はいないという事実の上に、きちんと用意されている如来の本願だということ)ということが改めてうなずけるのではないかなと思っています。
今回のアメリカの事件は、本当に嫌な事件でした。
普段、見ない振りをしている自分に気づかされるばかりです。
近代的な思考である人権意識を盾にとって、相手の立場を考えもせず、世界最強の殺人集団によって一方的に相手国の人々に対して無差別大量殺人を行っているアメリカの為政者や国家主義的な人々が、テロリズムを育てる温床だったのかもしれません。そして、一方でも同じように暴力的手段によって問題解決をしようとする勢力や、それによって戦争を起こそうとするアメリカの右翼や、軍関係の株価を操作する世界的投機筋などの水面下での動きがあったのかもしれません。その他にも、今回のアメリカ同時多発テロの要因があれこれ指摘されています。
しかし、気づかぬうちに、相手のことをまるきり考えず、相手を怒らせ、相手に報復をさせるまで、自分を正義ぶっている姿は、私そのものだったということです。それを課題にしないで、自分を正当化する論理に立てば、せっかくお念仏の教えに出会いながら、念仏の教えを自己正当化する道具や手段にしていると思います。
そうした自分を知らされると、相手をせめて排除してばかりの私だったという気づきが、いのちの本来の姿とは、そうではなかったということに目を向けさせます。つまり、すべてのいのちは関わり合って生かし生かされているということです。
すると今、私たちは報復の戦争の手伝いをするという方法で被害にあったアメリカに関わるのではなく、ボランティア活動を通して関わっていくことができることができるのではないかと思います。常に真実というはたらきは、この私の迷いを気づかせ、気づかされたものは、自ずと何かをせずにはおられないという理によって生き方が恵まれるのでしょう。
最後に聖句を掲げて自分を見つめたいと思います。
釈尊の言葉
いのちあるものは、皆、暴力を恐れる。
殺してはならない。
殺さしめてはならない。
うらみは、うらみによって消えない。
うらみなき心によってのみ消える。
|
本多 静芳
|
|
|