コラム26  01.10.01



「ある大学生の質問」


 私の「仏教学」の講義を半期学んだ大学生から、9月13日に以下のような手紙を貰いました。

 『社会の出来事で気になったことがありました。それは、靖国神社日本国総理大臣の参拝の問題です。
 小泉首相は4月、自民党総裁就任直後、靖国神社参拝について「尊い命を犠牲にした方々の上に立って今日の日本があるという気持ちを表すのは当然」と、公式参拝へ強い意志を示していました。
 5月、国会で「真心を込めて参拝」と明言、首相の公式参拝は「違憲ではない」との考えを明らかにしました。
 中・韓の両政府は「慎重な対応」を求めましたが、小泉首相は「総理大臣である小泉純一郎として8月15日に参拝する」と述べ、参拝の姿勢をくずしていませんでした。
 私は初めてこの問題を聞いた時、歴史でも学んだように、日本は本当に中国韓国に対してひどい事をしてきたという事は知っていたので、そのように中国や韓国の人々を苦しめていた中心の人物を参拝するなんておかしいと思いました。
 しかし、小泉首相の話しを聞くと、その人々のおかげで今日の日本があるのに、その人々を参拝しないのはおかしいと言っていました。私はひどい事をしたという思いだけで考え、違った立場で考えませんでした。
 思い込みのせいで、広い範囲で物事を考えられなくなっていた自分が恥ずかしいと思います。今後は、もっと思い込みをなくし、何事にもどんな視点からでも考えられるようになりたいと思います。(武蔵野女子大学生のメイル:抄出)』




 私の返信

 お便り落掌しました。
 手紙の内容を仏教の縁起の視点から考えてみました。
 確かに、片方だけが一方的に悪いということは、相互関係の上に成立している世の中ではありえないことですね。それなのに私たちは、こういう問題でも自分の都合でものごとを考え判断し裁いています。

 ところで、「尊い命を犠牲にした方々の上に立って今日の日本があるという気持ちを表すのは当然だ」というのは、正しい見方の上に明らかになった事実でしょうか?
 そうではありませんね。
 今日の日本があるのは、決して戦争という暴力手段で問題解決をしようとした国家の政策によるものではないでしょう。もし話合いによる問題解決ではなく、今でも暴力による問題解決を重視する思想が続いていたら今日の日本はなかったでしょう。また、人殺しという生き方をさせられた方々や殺された方々の姿を通して、そうしたことはあってはならないことであるという視点から、暴力によらない平和な問題解決といのちを差別して人殺しなど都合の悪い生き方を人に強いることのない平等ないのちを見つめる姿勢を大切にしようという物の見方が今日の日本の成立には、大きく影響を与えているのではないでしょうか。
 つまり、戦争という暴力行為をできることならば回避し、話合いを通して平和を求める精神が貫かれている「日本国憲法(前文や第9条など)」に見られるような考え方がもとになって成立してきたのが「今日の日本」ではないでしょうか。無論、総会屋とか、一部の暴力集団、あるいは利権などをちらつかせて問題解決を促すあり方は、社会の事実であるし、同時に私たち一人一人の抱えている愚かさであり、恥ずかしさでしょう。
 しかし、もし、小泉首相のいうことを鵜呑みにすれば、戦争という問題解決を重視する人たちのおかげであり、その延長に成立している日本だというならば、今でもそこは軍国主義が台頭する世界でしょう。
 しかし、事実は逆です。

 戦争や戦死した方々をどう見ているのか

 さらに言えば、戦争で殺されたのは、殆どすべてといってもいいでしょうが、ごくごく日常的な生活をしていた民間の人が、戦争という暴力によって問題解決をしようとする(ちょうど、今の米国大統領ブッシュ政権が問題解決のために武力による報復をしたり、あるいは無差別殺傷のテロリズムを肯定するような)政治的立場や国家主義を押しつけようとする為政者によって、戦場に駆り立てられ、無差別に民間人・非民間人を問わず殺し、強姦し、あるいはその逆の立場になり殺されていったのです。

 あなたたちのおかげでした、ありがとうございます。などと言うのは、殺された人の悲しみの元になった戦争を肯定する考えとつながります。小泉首相が、その舌の乾かぬ口で、平和な社会を望むなどというのは、見抜かれることが分かっている嘘(あるいは国民の意識の最大公約数を提示して異なる意見の立場の人を納得させる言葉を生み出す能力がないことを自ら表明している)としかいいようがありません。
 もっとも、それを見抜くことができないような「考えることを放棄」した人々が多くなってきているということかもしれません。(これが、前期に講義で論じた「無宗教」(自然発生的な宗教に無自覚な信奉者のこと。それは人生の深遠な問題を考えることを回避しようとするので、政治などの問題にも無関心になりやすい)という生き方とつながりやすいのです)
 せっかくの機会ですから「仏教」という自分を見つめるはたらきのある教えに真向きになって、他者の愚かさや身勝手な言葉を通して、自分の思いこみをたずねて見てください。
 すると、「思いこみのせいで、広い範囲で物事を考えられなくなっていた自分が恥ずかしいと思います。」と言われますが、中国への侵略行為によって相手国の人々を殺し、自らの生き方も傷つけたということを認識するのは、決して、思いこみではなく、逃避してはならない事実だと思います。むしろ、幅広く、深く物事を受け止めることは、とても難しいものであり、私は世界や多くの人々のほんの一部しか知らなかったのだという気づきが、より多くのことを知ろうとするようになり、また、耳を傾ける人間として育てられるのではないでしょうか。
 すると、あなた方のおかげでしたというのは傲慢であったと気づかされ、これではいけない、申し訳ないという気持ちが生まれます。そこから、無念だったでしょう、辛かったでしょう、あなたがたの戦死という事実からから二度と暴力による問題解決をしないようにいたしますという思いが生まれます。そして、しかし、縁に触れると愚かなことをしてしまいがちな私たちですから、いつでも私に向かって「気づけよ、目覚めよ、身の程知れよ」と呼びかけてくださる仏さまとなって下さった方々であったと手を合わせる生き方も恵まれるでしょう。

 最後に

 私の頂いた親鸞聖人の教えは、威張る教えではありませんでした。
 「こうしなければならないぞ」と相手に向かって威張ることは、わざわざ何とか教の教祖さまに教えられなくても、私たちは小さい時から、威張り、威張られ、自我を主張しあうことで、相手に勝ち、相手を屈服させ、相手を見下し、自分を優位に立たせることをずっと学び続けて来ています。
 親鸞聖人の教えは、そういう争いと差別で自己正当化をしようとする私をどこまでも見つめる如来さまの眼を南無阿弥陀仏という呼びかけを通していただく教えです。
 するとそこに争いと差別をしているお互いが作り上げる社会の倫理や原理を自己批判を通して否定的に越えていく生き方が恵まれるのだと思います。
 それは、間違いなくここに変わらぬものや価値があると思いこんでいた世間を「そらごと、たわごと、まことあることなき」ものであると見届ける私に育てられることでもあります。そして、それと同時に、変わらぬ真なるものが、あるがままという事実・真実から私に向かって呼びかけていたことに気づかされ、それを真実として頂いていく生活にもなります。
 世俗を生きる私の中に、常に自分を中心として考え、判断し(つまり、分別し)ていく姿があるからこそ、それを悲しいことであると見抜いてくれる如来のはたらきかけに促されるのでしょう。
 すると、そこに、WTC(世界貿易センタービル)・ペンタゴンやハイジャック被害者・被災者のために、さらには報復攻撃の矛先になっているアフガニスタンやその周辺の人々にできることはないだろうかというボランティア活動(基金を集める、呼びかけをする、現地の情報や平和的な問題解決を望む多くの人の声を流すなどを人々に伝えるなど)や戦争回避のための動きに荷担するなどの方向性が生まれるのではないでしょうか。
 阿弥陀如来の教えであるお念仏に恵まれたものが、その生活の中で開かれる「我ひと共に救われる生き方」は、あらゆるいのちと共に生かされているという具体的な生き方を生きるということでしょう。
 その意味で、親鸞聖人の『教行信証』という教えは、具体的な社会の問題に苦しむ人と共に歩んでいける生き方であり、逆に言えば、社会の中で苦しむ人を課題にしないですむような「宗教は心の中の問題」というような観念の遊技でないことだけは確かなことだと思われます。
 後期は、特にこの親鸞聖人の教えを伝えた『歎異抄』を中心に学んでいきたいと思っています。
 お互いの学びが、より深く、そして多くの人と共に生きる方向をもてるようなものになることを願ってやみません。

本多 静芳


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