コラム28  01.11.01



『立場〜アフガンの女性』


『立場〜アフガンの女性』

 アメリカによるアフガニスタン・タリバーン攻撃を伝える映像は、同時に“イスラム教”をクローズアップしました。中でも、日本で暮らす私にとって異様に写るのは、身体をすっぽりとブルカ(布)で覆った女性の姿です。タリバーンは女性の外出を禁止し、やむをえず外出する際には、家族の同伴とブルカの着用を義務づけました。

 ブルカはタリバーンによる女性の人権侵害の象徴とされがちですが、実はタリバーン以前からあった習慣です。
「人間は弱い存在である」
から、女性は男性によこしまな心を起こさせる存在として“隠され”ました。彼女たちは石のように、存在しているのに黙殺される性なのです。
 でもどうして、女性だけ隠さなくてはいけないのでしょうか。
 ブルカは目のあたりだけメッシュ素材になっているそうです。つまり、女性からは男性の姿がよく見えるということ。女性は異性を目にしても、よこしまな思いを起こさないとでも言うのでしょうか。隠すのならば、男性も隠すべきだと思いませんか?

 覚者ゴータマ(釈尊)、神の子イエス、預言者マホメッド。世界宗教の創始者(という表現が適切であるかはともかく)は、全て男性です。
 仏教の始まりにおいて、ゴータマは苦悩を離れる為に家族(妻子)を捨てました。
 キリスト教では、アダムが禁断の実を口にしたのはイブが誘惑したからと記されます。
 宗教の始まりにおいて女性が妨げとされたのは、創始者が男性だったらでしょう。もし女性が創始者であったならば、逆になっていたのかもしれません。

 一方誤解のないように付記しますと、悟り以降の釈尊は、決して女性の存在そのものを悪としたのではありません。
釈尊は、女性の出家者第一号・マハーパジャーパティーに出家を認める理由として、
「女性も男性と同様に、聖者の最高の位(阿羅漢)に到達することが可能である」
とおっしゃいました。また当時、女性出家者の教団が存在したこと自体、画期的であったことなどから判断しても、教団は当時としては、女性差別が驚くほど少なかったと推測されます。

女性の汚れはよからぬ行いに在り
      (中略)
      悪行こそ
      この世にも
      またかの世にも
      けがれなり
                  (法句経)

 存在そのものを問うのではなく、行為の善悪こそを問題としたのです。


 しかし、教えそのものが真実であったとしても、伝えるのは人間です。時間の流れと共に何らかの意図が加わるのも、不思議ではないでしょう。仏教においても『五障三従』、『変成男子(へんじょうなんし)』(女性は生まれながら穢れた存在であるので、男性に生まれ変わってから往生するという思想)が平気で説かれた時代もありました。虐げられていることは主張しないと、立場の違う人にはわからないのかもしれません。
 人間には性別に代表される、様々な【立場】があります。それは人種であったり、国家であったり、年齢や社会的地位だったりします。誰しもが自分の立場を背負い、その立場から物事を見ます。凡夫である私は、私を離れ得ない。それは偏ったものの見方しかできないということです。
 だからこそ、色々な主張に謙虚に耳を傾けることが必要なのでしょう。そしてただ聞くだけではなく、疑問は直接問い尋ねることも大切です。
「よくわからないけど聞いておこう」
では、一見相手を尊重しているようですが、実は侮辱していることになりかねません。人と人が理解する為には、ときにぶつかり合うことも必要なのでしょう。

 ちなみに、ムスリムの女性にはこんな意見もあります。
「隠されるというけれど、他人の視線から解放されるのだから、自分は観察されることなく、堂々と相手を観察できる。ブルカは逆に女性を保護し、解放してもいるのよ」
 このセリフ、目からウロコでした。
 私が女性だからといって、アフガンの女性を理解できるわけではない。それなのに、【立場】が違うということをすぐに忘れてしまう。
 理解したいけど、理解できない。理解していると錯覚してしまう。それは危険なことです。
 ブルカの下で、アフガン女性の視線は何を射しているのでしょうか。

菅原 さおり

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