コラム31  01.11.16



互いに認めあう事


 アメリカにおける同時多発テロの発生以来、日本のテレビ番組では、アフガニスタンを扱うものが多い。特に中東問題の専門家や、実際に中東で何らかの活動を行っていた人々が次々にメディアに現れ、アフガニスタンやタリバンについて語っている。

 私はアフガニスタンという国にこれまで強い関心を持っていたとはいえない。アフガニスタンといえば、バーミヤーンの仏像を破壊したイスラム原理主義組織タリバンの名が浮かぶが、そのタリバンが今や、日本において話題の中心を占め、日頃耳にしないムスリムについての知識が、新聞・雑誌、テレビで次々と報じられる。

 最近のテレビ等で報じられるものの内、目を引くトピックの一つに、タリバンの女性についての扱い方が挙げられる。あるニュースの報道を信用するならば、タリバンが用いている論理では、女性は大切なものである故に、男性(夫あるいは親族の)の管理下にあるべきであるというのが基本的な考え方であるそうだ。そのため、重病でも一人で病院にいくことができず、更に、思った通りに学校にいくこともできないらしい。今の日本では想像するのがとても困難であるが、実際にそのような生活を行っているそうだ。
 これは、女性をないがしろにしているのではなく「守るため」なのであろうか。私はイスラムのことがわからないし、実際その状況で暮らしている人から話を聞いたわけでもないのでなんともいえないが、不自由な面が多いのだろうなぁ、と想像する。

 日本も程度の差はあれ、似たような状況があると思う。

 「女は家で掃除洗濯をして男は外へ出て働く」という固定観念がないといえるだろうか。外へ出て働くことが偉くて、家事は偉くないという考えも。お茶をいれたり食事を作ったり、家庭では女性の役割とされていることも、「仕事」となると男性が主体の立派な仕事なのである。

 女性が仕事につくとき「女医」「女弁護士」「女性初!」そんな代名詞がつきまとう。「青年実業家」と聞いて女性を思い浮かべる人が何人いるだろう?

 近頃は、保母さんではなくて保育士、スチュワーデスではなくて客室乗務員、などと名称を性別限定物にすることをやめる方向にある。けれどそれは表面上の変化であり、今までの観念は変わっていない気がする。結局女性は男性社会に於いて珍品であり厄介者であり特別な存在と見なされているのではないか。
 
 そう思って知人と話をしてみたら、「それはあなたの偏見ではないのか?」と意見された。

はっとした。

 私は女性である。女性は弱者だという固定観念を持っていたのは私自身なのだった。男性と同じ事をしろと言われてもできる事とできない事がある。

例えば体力的な事などは明瞭に現れると思う。
だがそれは男女の性差もあるのだが、個人差も大きく関係するのではないか。男らしくしなさい、といわれる男性もいれば、男勝りといわれる女性もいる。女性は料理や裁縫が得意な人が多いのかも知れないが当然苦手な人もいる。当たり前だ。十人十色なのだから。それを私は男女という枠で縛って考えていたのだった。
 
 女性と男性には、どうしても越えられないからだの仕組みの違いや考え方の違いが出てくると思う。見た目が女性的であっても考えは男性的な人もいるわけで、それを性別で判断し、こうあるべきだと判断することは全くもっておかしいこと。1人1人を人間として見てみれば、男女のこういった問題を論ずることも必要ないのかも知れない。

 それにしても、未だに残る男尊女卑感覚は恐ろしい。実際自分の中にもその感覚はあり、だからこそ反発もし、悩みもする。考えて悩んで話し合って周りの意見を聞き、考えをぐらつかせ、情報を集め、さらに混乱する。そしてまた考えてみる。何が本当なのかは人それぞれかもしれないけれど、狭い視野で凝り固まるのではなく、世界に広くアンテナを広げ、様々な考えを話し合い、受け入れ、互いに認めあう事の大切さ。

 それはあらゆることに関して当てはまるのではないか。

 アメリカとタリバンに関しても。

いしかわ ちほ

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