コラム32  01.11.23



テロと戦争行為の暴挙を知る


  「ならず者」を自分の都合で裁く主体(国家・人間)は、「ならず者」となる

  ゴータマ・ブッダの言葉
  「すべていのちあるものは暴力におびえ、死を恐れる。己が身を引き比べて、殺してはならない。殺させてはならない。」『法句経』129偈

  ブッダは、「めざめ」を通して明らかになった智慧(無分別)で、あらゆるいのちを平等に見つめられます。ですから仏教は、私の中に流れるいのちと他の中に流れるいのちは共に全く等しい同じ価値のいのちであると教えてくれます。

  そこから、相手のいのちを我がいのちとするブッダの慈悲という生き方が生まれました。

  仏教で生き物のいのちを奪い動物の肉や卵を食べることは殺生という重い罪だと説いたり、仏教徒の中でそれらを食べない生活や一定の期間を限って食べないという独特の宗教慣習すらあるのは、その生き物の立場に立って、そのいのちと自分のいのちを一つに見るブッダの智慧をもとに自分の生き方を振り返るところから自ずと生まれた慈悲という行動です。(『無量寿経』「慈心にして、不殺」)

  人間が分別という迷いでいのちを見るとき、他のいのちは自分の都合を満たすために効率的に扱う利用関係のモノと化していきます。しかし、それは結果として自分自身も、その時点でモノ化して扱われることになっています。

  自分にとっての都合とは、正義、人類の発展、ヒューマニズム、最近はグローバリゼイションなど、色々な表現で表されていますがいずれも偏った自我中心の分別心の現れです。

  二十世紀において、分別は自然破壊や南北問題などが引き起こしましたが、そこには極度に進んだいのちのモノ化が、「殺生」な行いをもたらし様々な矛盾や問題をもたらしたのです。仏教徒ならば当然、そこには「慈悲」が求められます。

  さて、今、世界はこのような人間の分別がもたらしたいのちのモノ化により、20世紀に富みが世界の一部(全世界の富みの59%が、世界の6%の人口のアメリカ)に集まり、一方で極端な貧困・難民などの問題すら生まれています。アフガニスタンは世界で最も貧困な状況にあります。

  しかし、いくら状況が悪いからといって、その解決のためにテロという暴力的手段をとることは間違いであり、仏教者として容認できません。でも、テロに対して暴力的な方法である武力によって問題解決ができるというのも仏教者として容認できません。

  
「実に恨みは恨みによっては、ついに息むことはない。恨み無き心によってのみ息む。これは永遠の真理である」『法句経』第5偈

  かつて、戦勝国の側でありながら、この言葉を掲げて日本に対する戦後賠償請求を放棄した国がブッダの国インドと仏教国セイロンでした。
テロに対して国際社会が共同で問題解決を考えるのは当然のことですが、犯人は証拠、裏付けをして初めて容疑者になるのです。感情的に振る舞うのは文化でなく武化といいます。

  私たち仏教徒はこのような戦争に参同する必要はどこにもありません。それどころか、殺させてはならないのです。つまり、自衛隊を戦地に派遣してはならないのです。

  個人の問題であれ、国際間の問題であれ、暴力的手段である武力によって解決をしようとすることが間違いです。しかも、真理の言葉は、報復は必ず報復を生むと教えてくれます。

  私たちは声を上げて、「報復という理不尽な武力による問題解決には賛同しません。」といいます。

  それによって、たとえ日本を巡る国際的な評価が変わり現在の社会的経済的水準が下がろうとも、平和をとるのか、それとも暴力をとるのかと問われる時、私たちは「兵戈無用」(『無量寿経』)の言葉を頂き、武器を捨て、手を合わせるのが仏教徒です。


本多 靜芳 

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