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2001/12/01

「願い」を聞く
〜教育基本法改正議論を
視野に入れて〜


   私は、今年5歳と2歳の子供達と母親と共に歩ませていただいている父親です。教育基本法の改正が中教審に諮問されたことを受けて初めて、教育基本法にふれました。

 教育は、学校だけの問題ではないと改めて、実感させられました。  

 教育基本法の前文に次のようにあります。

「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」

 一言、一言の重みを見失ってはならないと思うのです。「民主的で文化的な国家」とは何か。「世界の平和と人類の福祉に貢献」するとは何か。言葉の重みは、その言葉の持つ歴史の重みであり、関わるということの重みでありましょう。それは、生きている現実の重みなのです。単独で独立したものとして言葉を決めつけた時、その言葉は現実から取り残されてしまうのです。

 何故、基本法を前文まで含めて検討しようという雰囲気が流れるのか。私たちは、「理想」や「理念」と言う言葉を現実から切り離して、単独で理解しようとしているのではないでしょうか。殺伐とした時代の雰囲気の中で「理念」や「理想」と向き合えない。それは、そこから生み出される「願い」と言う能動的な関わり方を見失っているということでありましょう。言葉を切り捨てない。言葉を聞く。そこには縁が生まれてくる、重みが生まれてくる。それは私を包む他者の働きに他者の尊厳に気づかされることなのです。

 子供達のさびしさにフッと気づかされるときは、決まって、親である私たちが子供の話を切り捨てた時です。「早くしなさい。時間がない」保育園に送り出すとき、「何で、こぼすの。」不可抗力なのに子供を攻めた時。そのさびしさは結局、家族のさびしさに広がってしまいます。そんなとき、母親の「わざとじゃないもんね」という一言に、冷たい空気が破られます。子供達の言葉にならない声を聞くとき、「理想」や「理念」が「願い」として、殺伐とした時代の中で息をふきかえすと思うのです。

「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」(教育基本法前文)

 言葉づらにとらわれない、議論をしなければならないと思います。


成田 智信    






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