コラム34  01.12.16



クリスマスに思う


 また、今年も年の瀬が迫ってまいりました。年月の過ぎるのは早く、もう21世紀も2年目に入ろうとしています。
 お正月を迎える前に、みんながとても楽しみにしている日があります。そうクリスマス。もはや日本人の最も好きな国民行事といってもいいでしょう。大人も子供もこの名前を聞くと、なんだかわくわくしてきます。私もこの時期は、毎年TDLに行きます!

 言うまでもなくクリスマスは宗教行事です。そうキリスト教の開祖、イエス・キリストがBC7〜BC4年ごろ、ユダヤのベツレヘムで生まれたという日です。
 その誕生を祝うというはずが、今や若者を中心に大騒ぎするお祭りへとなっているのは本末転倒でしょう。クリスマスは恋人たちのイベントと思っているのは日本人だけ?。
 キリスト教の信者は世界の人口の3分の1を超える最大宗教であるとはいえ、そもそも日本人の大半は仏教徒であるはずです。現在日本のキリスト教とは、カトリックとプロテスタント合わせても、日本の人口の割合からは少数なようです。日ごろから教会へ足を運び、教えを信じ、心からクリスマスを祝っているのはごく少数となるのでしょうか。
 ・・・とまあ、きまり文句の批判めいた書き方をしましたが、私も偉そうなことはいえず、子供にねだられ、プレゼントを買ったり、ケーキを食べたり致します。

 もう少し続けさせていただきます。
 正月には初詣で神社にお参りし、バレンタインデー(聖バレンタイン殉教記念日)には日本だけの風習を楽しみ、春秋の彼岸にはお墓へお参り、お盆には先祖を迎えに国民の大移動、七五三はまた神社仏閣へ。それが、典型的日本人なようです。
 1999年の読売新聞の世論調査では、何か宗教を信じていると回答した人が23%、信じていないと答えた人が77%だそうです。しかも、無宗教と答えるときに、心持ち誇らしい顔をなさる方さえあるとか。
 しかし、無宗教だといいながら、迷信を打ち破ることが出来ない方が多いのです。お葬式に参列すれば、来た道と帰り道を別にしたり、大安だ友引だと日の良し悪しを気にしたり、占いや星座、家相、姓名判断などに縛られています。
 これでは、無宗教になっていません。ただの無節操です。

 さて、クリスマスが終わり、年が明けますと、今度は、こぞって神社仏閣へとお参り致しまして、神様・仏様へのお願い事です。
 この前、ある先生の本を読んでいて、改めて、回向文について考えさせれました。

 回向(えこう)とは、読経の最後に必ず称えるものです、「願以此功徳・平等施一切・同発菩提心・往生安楽国」。よくお聞きになられている方にとっては、これが聞こえてくると、そろそろ終わりだなの合図のようです。
 「回向」とは、「めぐりさしむける」という意味ですが、一般的には、僧侶がお経を称えた功徳を、仏さまにさしむけるという意味なようです。ですから、読経は必ず、仏様の方を向かい称えます。
 しかし、浄土真宗で回向という場合は、逆な意味に使われます。阿弥陀如来様が私たちに、功徳を差し向けてくださるという意味です。それを本願力回向と申します。
 ですから、浄土真宗以外の宗派では、「お願いします。読経したこの功徳をもって、平等にすべての人々に施し、同じく悟りの世界に生まれたいと願う心を起こし、仏様の世界に生まれさせて下さい」となります。ここで願っているのは、お経を称えている私たちです。

 しかし、どうでしょうか?正直言って、私にはこのような心は起りません。残念なことですが、みんなが平等に、幸せになるように願うなんていう心は無理です。いいとこ、自分の家族や友人知人までです。すべての人々となると、知らない人や自分にとって嫌な奴も含まれます。
 お正月に、神社仏閣で手を合わしている方々の願いも同じではないでしょうか?多くの方の願いは、自分だけがもしくは、自分の家族だけの幸せを願い、祈るのでしょう。
 お参りされている方が、すべての人々の幸せを願うのであれば、結構なことですが、そういう方は、ごく少数でしょう。そもそも、仏様方は、すべての生きとし生けるものの幸せを願っておられるのですから、なかなか自己中心的なお願いは聞いていただけません。

 話しを戻しますが、ここで願いをたてているのは、実は、阿弥陀様なのです。浄土真宗はそのように解釈しております。

「私(阿弥陀如来様)は願う、私が長年の修行の上成就した功徳を、平等にすべての人々に南無阿弥陀仏という呼び声となって施し、全ての人に有り難いと受け取る心を起こさせ、安楽国(極楽浄土)へ救われることを」

となります。阿弥陀如来様は、すべての生きとし生けるものの幸せを願っておられるのです。浄土真宗は、私の願いを仏様へと向けるのではなく、仏様の願いをお聞かせいただくのです。その願いをお聞かせいただくと、どこまでも、自分中心自分さえよければ、という心から離れることが出来ない、我が心が見えてきます。
 浄土真宗の読経は、称えた功徳を仏様に差し向け、ご利益を頂くのではありません。称えているそのままが、仏様が私たちをお救いくださいます、おいわれが説かれているのですから、自分で称え、お聞かせいただくという立場です。また、読経とは、仏様をほめたたえ感謝するというものです。

 最後に、今回は、典型的日本人の宗教感を書かせて頂きましたが、そういう社会に生きる日本人は本当に無宗教なのでしょうか。
 いやそんなことありません。私も日ごろから葬儀、法事で感じている日本人のすばらしい宗教心があります。
 皆さん、年末年始にお寺参りやお墓参りにも行かれたらいかがですか。その際は、お念仏申し仏様の願いをどうか心静かにお聞き下さいませ。

参考図書:『3日でわかる宗教』監修:山折哲雄 ダイヤモンド社

伊東 英幸 

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