最近のニュース  02.01.16



昔のニュース、そして、最近のニュース、
そして・・・。


■1998年秋、アメリカ政府は、その年、ケニア、タンザニアで起きた米大使館施設爆弾テロへの反撃を理由に、スーダンの製薬工場やアフガニスタンの「テロ組織の拠点施設」と見られるところに照準を合わせて巡航ミサイルを打ち込んだ。
 その頃、アメリカは確かな証拠を握ったとして空襲に及んだのである。客観的に見て一体、どのような証拠であったのだろうか。残念ながら、軍の機密に関することとして明らかにされないものが多かった。

■そのテロ事件は、スーダンやアフガニスタンの国家の犯行ではなかった。テロリストがその国に在住している事が判明したら、その国と交渉して犯人逮捕に協力してもらうのが道理に則した方法であろう。
 しかし、アメリカ政府はその国の犯罪でもないのに、いきなり他国の施設に攻撃を加え、破壊し、現実には夥しい民間人の死傷者を出した。こういう暴力行為が認められるのか、と当時問題になったものだ。

■また、それに対する日本政府の対応も、米国の空襲に理解を示すものであり、追従的な態度に主権国家と言えるのかと問題になった。洋の東西を問わずに、権力者の人間感覚の放棄と自我的態度の横行に悲嘆したものだ。
 湾岸戦争から10年、アメリカ政府はこうして約20万人の死傷者を出す空襲を繰り返している。
 そして今回、問題はまた同じような形で再発している。

■いのちが見えていない・・・・。近代社会は、経済性と合理性を求めたために、いのちを見つめたり、それを自我的満足のために利用しない生き方に留まる歯止めを無くしたかのようである。
 自分中心の思いと行動の中に身を置いて、自我的欲望の追求にあけくれてきたようである。そのためには、他人や他の存在を自我実現のために手段・道具としてしか考えない思考を形成してきたのではないか。日々のニュースは、その事を我々に示しているようだ。  そして、そういう自我中心の生き方に気づくことなく日々を生きている。そこに人間を喪失した生き方がある。
 もし、他のいのちを排除する生き方をするならば、結果として自身を認める場をうしなうものである。

■だが、人に生まれたものは、「人間」を生きることができる。なぜなら、人は一人では生きられない。かならず、宇宙の中のすべての他のいのちと共生し、支え支えられ合って生きているからだ。人間とは関係的存在を意味する。だから「人間」という。
 このことに目覚めて生きることを南無阿弥陀仏といい、そこに人間という生き方があると親鸞聖人はいう。教えに出会って、人間として生きようとするところに、世界に存在する全てのものと共にある我が身を知らされる。
 今こそ、私たちは人間として生きようと立ち上がりたいと思う。
本多 静芳

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