1902年(明治35)8月16日、一つの探検隊がロンドンを出発しました。後に第1次大谷探検隊と呼ばれることとなる大谷光瑞(浄土真宗本願寺派新門−当時−、後の第22世門主鏡如)を隊長に組織された探検隊です。今年はその出発から100周年にあたります。
当時、ヨーロッパでは東洋学が盛んとなっており、そのなかでもサンスクリット語研究を中心とした仏教学が盛んでした。そういった状況を派遣留学僧から伝え聞き、また自身が英国留学をすることによって、インド〜内陸アジアに残されているであろうサンスクリット仏典の重要性を肌身に感じていた大谷光瑞師は、1900〜1901に行なわれたA.スタイン(Mark
Aurel Stein)による第1次中央アジア探検の成果もあって自ら「仏教東漸の道」を探査する探検隊を組織することになったのです。
一般に『大谷探検隊』は3次4隊とも呼ばれる中央アジアを中心に探査した探検隊とされています。光瑞師自身も第1次探検隊を自ら率いて中央アジア入りした後、分離した1隊を率いて南下し北インドの仏跡調査を行なっています。光瑞師はここで父・光尊(本願寺第21世明如)遷化の報を受け、調査半ばで帰国せざるを得なくなり、以後は手ずから探検隊を率いて調査することは出来ませんでした。しかし、探検・調査への思いは果てることなく、その後も調査隊を派遣しつづけます。実際に大谷光瑞師によって調査隊が派遣されたのは内陸アジアに留まらず、インド、チベット、東南アジア、中国と広範囲で、「仏教東漸の道」全てに及びます。
この探検隊によって内陸アジア各地から多くの将来品がもたらされることによって調査研究が進み、内陸アジア研究に大きく寄与したことは事実です。しかし、現在それらの将来品は、様々な理由によって中国、韓国、日本等の国々に分散し一堂に会することはかなわない状況となっていることは残念です。
この大谷探検隊の成果については賛否両論に分かれるところですが、100周年を機会に再評価されるべきことであろうと思います。
尚、この大谷探検隊100周年を記念して様々な企画がでてくると思われます。一例として、毎日新聞では4月7日からの日曜版『日曜くらぶ』で「阿弥陀が来た道」と題して
「インド、チベット、イランなど、中央アジアの東西文明交流の歴史や、今を生きる人々の鼓動を、100年前と対比させながらルポしていきます。(『毎日新聞』3月24日(日)1面紹介文より)」
大谷探検隊100周年関連の企画がなされています。
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北條 祐英 |
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