コラム



カルトについて




 宗教というとなにか胡散臭さを感じ、距離を取るという風潮がある。
 その背景には様々な要因があるとは思うが、その一つにカルト宗教団体が起す様々な社会との軋轢があることは否めない。(当然、そこには宗教団体の教義の中に救いを見出した人々がいる。逆に見ると私たちの所属する伝統的仏教教団がそれ以前に納得のいく救いを提示できていないという現状があることは直視しなければならない)

 多くの人々が麻原彰晃氏の説く世界に救いを見出し、また宗教学者でさえオウムサリン事件以前にはオウム教団を肯定的に評価する人もいたことは記憶に新しい。
 後で分かることではあったが、麻原氏の我執に信者が使われていたという構造があったが、肯定的評価を与えた宗教学者や信者はそれを見抜くことができなかった。俗な言い方をすれば巧みな言説に騙されたのである。

 オウム事件は、過去のものとして忘れさられようとしているが、第二第三のオウム的なる教団が生まれてくる可能性は否定できない。その時に、私たちはどのような基準をもってその教団の持つ性格を見極めるのか考えておく必要がある。

 その基準の一つは、教祖の説く教え、または神秘的力によって提示されている救いが、私たちの持つ我欲の延長線上にあるものか、それともそれを否定的に越える視点を持つか、という点である。
 教祖の教えによって一旦信者が抱えている苦悩や苦境から逃れることができたとしても、それが新たな地平を開いていくものでなければそれは、閉塞した空間に信者を落としこむことになる。

 もう一つは、個人的エゴを越えた新たな地平を開いているように見えても、新たな地平を開いているように見える集団が集団エゴに縛られていないかという見極めの必要性である。

 前者は個人的エゴ、後者は集団的エゴの問題ということになる。
 エゴを助長する教えは、信者を「自分」もしくは「自分たち」という閉塞した世界に落としこむ。
 閉塞した世界に陥ったものが新たなる信者獲得(その人にとっては救済活動)の一環で行う布教形態がマインドコントロールであろう。
 時にはそこで説かれる教えが一見その人の心を解放していくように感じられたとしても、その解放は実は新たなる閉塞した世界への落とし込みなのである。

 また、自分たちの教祖の説く救済に共感するものと、敵対する(胡散臭さを感じる)ものに分け、後者に対して壁をつくり、時には攻撃することによって教団内部の結束を図ることがあるならば、それは自己の我執から一見解放されているように見えて、実はそれは仲間内だけに開かれた関係でしかなく、教団という新たなる我執に絡め取られていくということになる。

 教祖に対する絶対的帰依はよく聞かれることであるが、その教祖が我執を脱しているように装っていても、実は彼が我執の塊であった場合、その教祖の言葉に従って行動する信者の意識としては無私の行為であったとしても、その実教祖の我執の手先になっているということもありうるのである。

 4月1日朝日新聞の夕刊に、「カルトを見分ける基準を」という南山大学で行われたシンポジウムの記事が掲載された。
 その中で「『良い宗教』と『悪い宗教』の区別を示して欲しい」という意見が出た、と記者の菅原伸郎氏は報告している。
 菅原氏は記事の中でフリージャーナリスト米村和広氏の「学者は宗教教団を調べる時、その広報担当者に頼み込み、その良い面ばかりを書く傾向がある。脱会した人らにも取材して陰の部分も調べるべきだ。『宗教被害学』といった分野があってもいい」との提言を紹介しているが、肯定的な一面的情報だけではない被害情報も含む多角的情報が、教祖また教団の我執に基づく被害の有無が宗教の真偽を見分ける重要な判断材料になることは間違いがない。


        酒井 淳



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