コラム



首相の靖国(春の大祭)参拝と佐賀の神社費訴訟判決




1.小泉首相靖国参拝と報道

「小泉首相が靖国参拝、8月見送りを明言」
 小泉純一郎首相は21日午前9時半すぎ、東京都・九段北の靖国神社に参拝した。(日経新聞) 4月21日18:03

 今回の報道について、新聞やマスコミは、二つの問題点を指摘しています。
@、政教分離の憲法に違反、抵触する。
A、A級戦犯に参拝することが、アジアへの侵略戦争に対して反発感情を起こす。
 ところが、報道をみていると、各社の姿勢は、Aの問題点のみに関心が向けられており、@に関しては全くと言っていいほど解説されていません。
 関心が向かないということは、関心が向けられないという日本の現在の宗教状況と関係しているようです。
 

2.日本人の宗教観(阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」(ちくま新書))

 明治学院大学教授阿満利麿氏は同書に、日本人がなぜ自らを「無宗教」と呼ぶのかを解き明かしています。
 氏は、まず宗教を「創唱宗教」と「自然宗教」に二分します。
 「創唱宗教」とは、創始者とその教義をもとに人生や社会を考え、見つめ、それを基に生きようとする信奉者で成立する宗教です。例として、仏教、キリスト教、天理教などです。
 一方、「自然宗教」とは、創始者も教義もなく、自然発生的に生まれ、社会の習俗や習慣となり、年中行事として無自覚に受け入れられている宗教です。例として、初詣、(春秋彼岸・お盆の)墓参り、祈願、先祖崇拝、自然崇拝(国家神道ではなく、原初的な神道形態)などです。
 日本人は、自らを「無宗教」と呼びますが、それは、「無神論者」でなく、実は「自然宗教」であることが殆どです。そして、無自覚な「自然宗教」の信奉者である日本人は案外、豊かな宗教性があるといえます。
 しかし、「無宗教」(宗教に関する無自覚)な生き方は、政治と宗教の関わりに関する今回の総理の靖国参拝に対しても大きな関心や疑問を抱きにくいものです。そして、政教分離を犯す参拝であっても危機意識を持ちにくいものです。
 さらに日本の知的集団や政治家は、「創唱宗教」のみを宗教と考え、「自然宗教」を宗教と認めない状況があるので、たとえ「自然宗教」であっても、それを宗教意識として考えようとしないので、問題は余計錯綜します。
 例えば、「五穀豊穣を祈る神事が行われました。今年も豊作になるといいですね」というニュースは、「無宗教」の立場にとっては、自然宗教であるという意識さえなく聞き流されます。しかし、「私たちの罪業の深さと如来真実の慈悲のはたらきを知らされる慚愧と感謝の日暮らしについて、お説教がありました」というニュースが流れないのは何故かと考えれば問題は分かりやすいでしょう。
 つまり、習俗・慣習となったもの、つまり自然宗教は宗教ではないという意識が反映しているのです。
 しかも、明治政府以降の「日本は神の国」という国策も、こうした宗教意識に大きな影響を与えていると論じています。


3.佐賀の神社費訴訟判決

 4月13日、読売新聞が、佐賀地裁の「自治会の神社費一括徴収は違法」との判決を報道しました。同日、佐賀新聞でも、自然宗教といえる、「神社の宗教性について『地域の人々の心のよりどころで宗教性は希薄』とする被告側の主張を認めながらも『宗教性は否定されない』と判断した。」とあります。
 同新聞は、

 自治会費を一括徴収した中から神社費に使っていたことは「宗教行為を強制するもので、原告の『信教の自由』を侵害しており、地方自治法に定める民主的な運営の趣旨に反し違法」と認定した。しかし、自治会は長い間、神社費を一括徴収しており、問題に気付くのは困難だったことを挙げ不法行為は否定。慰謝料二百二十万円の請求は棄却した。被告側は「判決でも関係が変わることはない」と言いながらも、控訴する方針を明らかにした。

と報じています。(後に被告側も上告しないことになりました。)

 「問題に気付くのは困難」だったということは何を示すのでしょうか。何故、被告の人びとは日本人の宗教性に気づけず、地域社会で異なる宗教信条の人びとの信教の自由を侵し、宗教行為を強制することになってしまったのでしょう。
 実は、この原告も被告(自治会の人びと)も、浄土真宗の門徒なのです。ここには、戦時中、「日本は神の国」であるという国策に自らの教えを歪めていった浄土真宗の負の歴史を今もって引きずっているように思えます。
 私たちの社会が抱える、自然宗教の信奉者の無自覚な意識という問題は、浄土真宗の生き方にも大きな影響を与え根が深いようです。
 

4.多様な宗教のあり方を尊重するのが為政者の務め

 自然宗教でも創唱宗教でも、自分の信じていない宗教や信条を強制されることや、そういう傾向の強い社会は、不快感が大きく、暮らしづらいだろうということは、合点がいくことでしょう。ところが、上述の判決文を見ると、気づかぬうちに異なる信仰を持った人びとに圧迫を加えているということには、なかなか気づけないということを教えてくれているようです。これが、自治会でなく、国の単位になったらどうでしょうか。
 かつて、「津地鎮祭違憲訴訟」の最高裁で、クリスチャン長官藤林益三氏は追加反対意見で、政府や自治体の威信や財政上の支持が特定宗教の背後にある場合に、宗教的少数者に生じる「圧力」を指摘して、「たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されない」と述べました。そして、宗教意識の希薄さがいわれる日本でこうした声はかき消されがちだが、多様さが名実ともに認められる社会の方が、だれにとっても住みよい社会ではないか、と述べています。(朝日新聞1997年1月23日社説)

 このたび、神社費の問題に門徒であっても気づくことが困難だったということは、首相の靖国参拝に象徴されるように、明治以来続いている「日本は神の国」という国家による宗教観の強制に根ざすものと言えます。そのような社会では、少数者であろうと多数者であろうと個人が自らの宗教信条に基づいて意見を言うことは困難だということだと思います。
 気づかぬうちに他者に宗教を強制することが容認される社会は、自分自身も気づかぬうちに強制を容認しなければならない社会です。たとえ「同じ日本人」であろうと多様な宗教信条をもった人がいるのだと、お互いの立場を尊重することが暮らしやすい社会であり、国民のそうしたあり方を尊重するのが為政者の務めでしょう。
 首相や官房長官の発言を聞いていると、まるで戦前のように「日本人なら同じ宗教信条をもっていて当然」と言っているように聞こえてしまうのが悲しいことです。


本多 静芳



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