02.06.01



藁 人 形



 藁人形で何を想像しますか?。
 我が娘にその問いをしましたら、即座に「呪い」「丑三つ時」「五寸釘」という答えが帰って来ました。そして、「テレビの見すぎ?」「発想の貧困かなあ」という自責?の念も。
 藁人形に身代わりを託すなどということは、今でこそ藁が身近にありませんので少ないですが、過去には私たちの生活習慣の中には案外身近にあったのかもしれません。「呪い」はいただけませんが、案山子は私も子どものころよく見たものです。

 その藁人形について、最近思いがけない相談を受けました。
 あるお宅の葬儀のとき、講中の方から藁人形をどこに置いたらよいかという質問を受けたのです。
 そのお宅は、たまたま半年足らずの間に2度目の葬儀を勤めなければならない状況にありました。「2度あることは3度ある」という諺がある。地域の言い伝えで、3度目があってはならないから藁人形に身代わりを託して柩にいれるのだということなのです。

 私は、それは迷信であり意味のないことであることを伝えました。しかし、迷信であることを承知の上で行いたいとの決意は固く、「それでは、目立たないように」というところで落ち着きました。

 人生には思いがけないことがいっぱいです。死という悲しい出会いは、できれば避けて通りたいものですが、その現実は厳しいもので避けて通ることはできません。受け入れがたい出来事を如何に受け止めていくか、身内にとっての葬儀はその葛藤の中で行われているのです。そのようなときに、死に対する恐れに基づく「まじない」をすることは、あまりよいこととは思えません。
 しかし、このような習俗はよくあります。清め塩もそうですし、火葬場の往復の道を変えるのもそのたぐいです。今、私たち僧侶は、その意味を問い直し、死を冒涜するような習慣は止めることを勧めています。

 そして、もう一つ、私にとってショッキングな話を聞きました。その葬儀に参加した親戚の人の地域では、友引に葬儀を行う場合に藁人形を使うとのことでした。その地域は、いわゆる「真宗どころ」といわれるほど浄土真宗の寺院の多い地方だったのです。

 単なる語呂合わせのたわいもない迷信に振り回されてしまっていることに気づいた人々により、火葬場が友引に休業する習慣が改められつつあります。ところが、こんなところに藁人形の習俗が新たに生まれつつあったのです。迷信を打破することの難しさを思い知らされます。
                             

小林 泰善

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